月に濡れたふたり


懐かしい昨日より 夢見る明日より
確かな今だけが 欲しいから

月に濡れたふたり/安全地帯



木々の緑も美しい、全てが瑞々しい生気を放つはずの季節なのに、この丘には何もない。渇ききった大地のほんの一部分にへばりつくような下生えの草も、半ば立ち枯れたような色合いを曝す。ただ、丘にあるのは、風だけだ。時に強く、時に弱く、時に逆巻く、決して止まぬ風が吹く。時に体を突くような、それでいて身にまといつくような風が吹く。
ゼロは小さく舌を打つ。
忌々しい。風に乗った女の声が、まるでこの身を浸すかのようで。
女の声が、もっと言うならば妄執が、この忌々しい風を作っている。
すすり泣くように、囁くように、それでいて誇らかに謳うように、女はたったひとつの言葉だけを繰り返す。
愛している、愛している、愛している、とただ、それだけを繰り返す。
相手が自身と同じ想いを抱く事などあり得ないと知っていて、なおそれ故に、繰り返されるその言葉。
はんなりと伸ばされた手が縋り付く。いつしかそれはしっかりと絡みつき、相手の逃げる場を塞ぐ。相手を縛り、支配する。まるで、寄生植物のように。
妄執だ。
風が、一つ処に集うように吹き巻いた。その先に見つけた人影に、ゼロは眉根を寄せる。女の声が絡みつく。ただひとり、彼故に。



この旅の中で彼と出会ったのは、偶然ではなかった。ゼロのみが、ではない。彼がこの旅の中で出会った者全て、旅の道連れとなった者全てが、集うべくして集い、成るべくして成った者達だった。
全てが必然である事に、気づいたのはいつ頃の事か。本当に、気づいた、という表現が相応しいものかすら、ゼロには判らない。
家畜は、己の終焉の場を心得ているのだろうか。
己が、これから屠殺場に引き出されるのを待つ家畜に過ぎないという事に、気づいているのだろうか。
少しずつ、始まりの地へと近付く毎に、ゼロはそれを知ったのだ。一歩一歩、歩むほどに、敵を屠る毎に、何某かを思い出す。新たな記憶と知識が生まれる。故に今、ゼロは知っている。
この旅は、彼を完成させる為に存在した、と。
遠い昔、ゼロの知っていた少年。砂埃の舞う乾いた地の、路地裏の一角で、檻に入れられた白い羽の奴隷。怖ず怖ずとゼロに微笑みかけた、あの蒼い瞳。
ゼロがその手を放した瞬間、こぼれ落ちた。あの少年は、もうどこにも存在しないのだと、ゼロは既に知っている。
ゼロの気配を感じたのか、彼がゆっくりと振り向いた。昔と変わらぬ蒼い瞳。だけど、そこに当時の暖かさはない。ここまでの旅が、一度死に、また生まれた彼を育て上げた。世界を捨て去り、また拾うに相応しい者として成熟させるために。全てか無かを選択できるほどの強さと冷酷さとを育むために。
温度のない蒼が、ふわりと微笑んだ。古い<神>のように美しい、ゼロの見た事のない表情で。



引かれるように歩み寄り、それでも少し離れた場所で足を止めたゼロを気にした風もなく、彼は再び顔を戻した。中空を見つめながら、彼のそれは確かに<約束の地>に向けられていて、ゼロの口角は皮肉に引き歪む。
偶然か。いや、彼もまた、知っているのかもしれない。己を呼び寄せる存在を。決して逃れられない、ゼロ自身と同じように、結局は引かれるしかない己の運命というものを。
風が絡み付いた。彼に、そして己に。
「…『愛している』」
唐突に耳を打ったのは、空気を振動させる音。明らかに女のものとは違う、声。
弾かれたように顔を向ける。彼が、ひたりとゼロへと視線を当てていた。
「…『愛している』と、彼女が俺に言ったんだ」
感情の揺らぎを示すものは何もない。ただ、淡々とした様子で、彼は言う。ゼロは思わず笑い出したくなった。
ゼロを生んだ女が、生ませた存在へと吐いた言葉。ゼロと同じ腹から生まれた女が、彼へと吐いた言葉。まるで鏡に映したかのような相似形。それ在るが故に、ゼロの姉妹である女は次代として選別された。
『愛は寛容であり、愛は情け深い。愛は高ぶらない。誇らない。自分の利益を求めない。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』
呪われた<聖書>に語られた、七つの大罪の最たるもの。
ありもしない夢を見る。哀れで愚かなその妄想。
「…くだらないな」
ゼロには、全く理解できない言葉。
にべもないゼロの言を気にする風でもなく、彼はふと微笑む。
「ゼロは、そう言うと思った」
思った通りの反応で嬉しいと、そう言うかのような微笑みは、彼をひどく大人びて見せる。
「だけど、俺には判らないから」
ゼロの知っていた少年なら、こんな時、少しぼんやりとした表情を見せた。自身より雄弁に感情を語る白い羽を寂しげに落として、それでも何も言わなかった。
「それが、くだらないかどうかも、判らない」
目の前の彼のように、硬質な瞳は持たなかった。ゼロの意見を必要としない事など、あり得なかった。
ゼロの知る少年と目の前の彼との差違は、旅の間中、ゼロを苛立たせて、そして、時に彼にあたらせた。過去の記憶を失ったのは、彼のせいではない、と思いながら。思い違いをしながら。
彼は元々、過去など持ってはいなかったのに。
ゼロの知る少年と目の前の彼は、全く違う存在であったのに。
空には白々とした月がある。翳りかけるには未だ早く、己の版図を主張するようにそこに在る太陽の前に、夢幻のように、ただ存在するだけの月。
今や、ゼロの記憶の中だけにしか存在しない少年と、少年に抱いたその想い。
「ただ、あの人にもう一度会いたいと、思う。それだけ」
もう一度会いたい。そんな気持ちはただの感傷だ。
最早、あの少年は何処にもいない。
目の前で、少年と同じ顔をした彼が、少年とは全く違う表情(かお)で微笑う。目の前のゼロにではなく、記憶の中の女に、微笑う。
遠い過去に死んだ男の黄泉還りだけを願った女の見た夢が、彼らをここまで導いた。
遠い過去に死んだ男の身代わりと。女が己の分身とした次代と。
彼らを結びつける狂気。
「もう一度会って、その後はどうする?」
取り戻したいのは、何処にもいない存在か。破壊された楽園か。もうどうしたって、あの時のままには戻らないのだと判っているのに。判っているはずなのに。
風が吹く。『愛している』と女が囁く。ぼんやりと浮かぶ幻の月。

狂気の先が知りたいと、思う。

「どうする、って?」

彼は、思いもよらない事を言われた、そんな表情をしていた。まるで寄る辺ない子供のような。

「だって、ゼロが俺を殺してくれるんだろう?」



あの少年は、ゼロを『ゼロ』とは呼ばなかった。
あの時、ゼロは少年を手放した。
彼は、ゼロの知っていた少年ではない。
そんな事は知っている。だから。



「ああ」

ゼロの応えに、彼が微笑う。満ち足りたように、安堵したように。
彼に、ゼロは微笑み返す。多分、目の前の彼と同じように。満ち足りたように、安堵したように。

あの少年は何処にもいない。ゼロの知らない場所で、ゼロの身代わりとなった女と共に生き、そして死んだ。
そしてゼロは、少年の代わりに生まれてきた彼と共に旅をして。

今、ここに。

<約束の地>へと至る丘に、立っているのだ。


既に道は選ばれている。時は決して戻らない。楽園など何処にもない。進む先には終末しかないと判っていて、それでも歩みを止める事のできないレミング。
来るべき日、世界に破滅が呼び込まれる。遠い過去に滅びた<神>との<約束>が遂に果たされる。

風が吹く。『愛している』と女が囁く。ぼんやりと浮かぶ幻の月。

彼は、幻ではない。記憶の中の少年ではない。今、現実にここに在る。ゼロの、手の中に。

彼へとそっと手を伸ばす。彼は拒まなかった。伸ばした手が鎧に当たり、ゼロの手を遮る。遮るものがある事が不快で、更に手を滑らせる。指先が剥き出しの彼の肌に、頬に触れて、くすぐったがるように彼がふいと目を閉じる。
少年と同じ、少年とは違う蒼の瞳。ゼロの手の中にある、この命。

「俺だけが、お前を殺せる」

睦言のように、囁いた。





『愛は寛容であり、愛は情け深い。愛は高ぶらない。誇らない。自分の利益を求めない。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』

呪われた<聖書>が高らかに謳う。女の囁きが絡み付く。その狂気。

ゼロは次代の候補から外れた。ゼロと同じ胞から生まれた女が、ゼロに代わって次代となった。ゼロは狂気の罠から抜け出した。既に軛は存在しない。そう、だから。





こんな感情は、『愛』とは呼ばない。








END







 ◆◆ INDEX〜PYTHAGORAS