水底の唄


早く、早く、あなたの可哀想な赤ちゃんを助けて。
さあ急いで。
小橋の掛かっている池の中です。すぐに掴まえてください。
浮き上がろうとして、まだ手足を藻掻いています。
助けて。助けて。

ゲーテ「ファウスト」



いつ頃作られたものなのかすらも判らない程に古い書物が、高い天井に至るまでの壁という壁を埋め尽くしているその部屋は、黴と埃の匂いがした。
音もなく、空気も動かず。
ただ、そこに在る、という気を起こさせる、不思議な空間。
まるで時間が止まってでもいるかのようなその部屋は、まるで、この家の持ち主そのもののようだと思う。
アベルは、書棚に嵌った本を一冊、引き出した。爪先だった足下は不安定で、ずっしりと重い本は、アベルの肉付きの薄い腕には、大きすぎる。その厚みも、貴重さも。
それでも、恐る恐る本を開いてみる。表紙の皮はぼろぼろで、その中身の方も、インクの匂いはとっくになくなってしまっている。しかし、古い本特有の湿った黴くささも、決して嫌いではない。
静かな家。静かな部屋。自分より他には誰も存在しないような世界。今まで在った〈獄舎〉とは、同じようでいて全く違うと思えたのは、何よりも、この場所は『アベル』を拒絶していなかったからかもしれない。
ゆっくりとページを繰る手が止まったのが何故なのか、自分でも判らない。だから、何故、その室内でたったひとつの扉の方へと振り向いたのかも、判るわけがない。何か、気配のようなものを感じ取ったのだろうか。この家の主人は、足運びひとつ取っても、決して物音を立てないと既に知っていたのに。
それでも、開け放たれたままだった扉の前に、かの人は立っていた。
「…ごめんなさい」
慌てて、それでもそっと本を閉じて、大切そうにそれを抱えたアベルに対して、彼は軽く眉を上げて見せた。
この家の主は、至極変わった人物だった。
決して出られないはずの〈獄舎〉からアベルをあっさりと連れ出した後、すぐに彼に背を向けた。だけど、その歩みはアベルが充分に後をついて歩ける程度のゆったりとしたもので、この家への転移の魔法陣にもアベルがついて入っていったのも、全く気に留めないようだった。
魔法陣から見た景色が一瞬にして歪み、次の瞬間現れたのは、荒野の直中にぽつんと佇む小さな家。呆然と見あげるアベルには目もくれず、彼は家の中へと消えていった。慌てて追い掛けたアベルが入るまで、その扉は閉められないままだった。
今でも、鍵など掛かってはいない。家の前に在る魔法陣は、多分、ここへとやってきた時、彼が口にした通りに呪法を唱えれば発動する。それで、何処へでも行けるのだろう。
しかし、アベルはそのままこの家から出ないでいる。
そこもやはり、檻だったのかもしれない。その扉が閉められる事は決してなく、どころか、アベルが逃げ出す事をこそ期待しているかのように開け放たれていて、それでも、アベルはそこから出ていく気になどなれなかった。
「ええと。勝手に部屋に入ってしまって。それに、大切な本を開いてしまって…」
そして何より、未だにこの家にいる、というのが、一番、謝らなくてはいけない事なのかもしれない。
アベルがこの家に居着いてから、もうどれくらい経っただろう。アベルが彼の姿を見たのは、初めに出会った時から数えて、今回で2度目だった。彼の留守は、随分と長かった。その間に、とうにアベルはいなくなっているだろうと思っていたに違いなく、それだけでも心苦しい気がしてしまうのに、今まで、地下の食料貯蔵庫でこっそり口を糊していたという事実は、アベルに身の置き所をなくさせるには充分で。
「別に、大切な訳ではない。捨てるのも面倒だというだけのことだ」
しかし彼は、例え、この家に在るアベルの存在を意外に思っていたのだとしても、全く面には表さなかった。ただ、凪いだ水面(みなも)のように静謐だった。
たどたどしく綴られた科白を遮って、あっさりと答えを返されたアベルは、言葉に詰まって黙り込んだ。ただ、立っている彼を見つめ返す。彼が何を言っているのか、判らなかったのだ。
少しして、彼が本の事を言っているのだと理解する。しかし、それはそれでまた、アベルにとっては認識外であった。
表紙はなめした動物の皮。その中のページはすべて羊皮紙。レトリックな飾り文字が手書きであることは、少し見れば、すぐ判る。アベルには見当もつかないほどに古い書物は、とんでもなく稀少かつ高価なものであるのに違いない。ページを繰る度に、手垢がつくのではないかと畏れなくてはならない程に。
「それは単に、ある種の知識を書き付けただけのものに過ぎない。全てを得られた後は、ただの塵だ」
彼が補足説明する、という事がどんなに珍しいか、この時のアベルは知らなかった。だから、その事自体にはさして驚かず、その言葉の内容の方に驚嘆の目を見開いた。
それは、この部屋中の書物にある知識は全て、彼にとってはもう、己の血肉になってしまったという事。
アベルは部屋を見渡す。室内を埋め尽くした本、また本。全て読み尽くすまでに、何十年もかかりそうな膨大な書物の山だ。
しかし、アベルは、彼の言葉が嘘だとも、誇張だとも思わなかった。この家の主は、何でもできる。何でも知っている。それが当然とさえ思える。
「だから、お前がどう使おうと構わない。もう、俺には必要のないものだからな」
そう言って、背を向けかけた相手に対して、反射的に手を伸ばしかけた時、アベルはその手に抱えた物の存在を忘れていた。ごとり、と重い音を立てて床に転がった本に、一気に血の気が引いていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「…別に構わない、と言っただろう」
無感情なその声に、不機嫌そうな色が滲む。だけどそれは、アベルが本を落としたからではなく、アベルが彼の言葉をきちんと飲み込めない事に対するものなのだろう。
「だけど、やっぱりこれは大切なものです」
彼の意は判っていても、どうしてもアベルには、本=不要な物、という感覚が掴めない。
いわゆる生活必需品ではない、本、などというものは、完全なる嗜好品で、そういった物を手に入れる事は、奴隷階級の白い羽にとっては、非常に難しい。それでも、諸事情により、昔から、家の中に篭もる生活を余儀なくされていたアベルにとって、本を読む事は、最大にして唯一の娯楽であった。黒き羽の者が捨てたのだろう、ゴミ置き場付近から拾った本を、擦り切れるまで読んだものだ。
宝物のようにしっかりと胸に抱え込むアベルに、彼の口元に微笑にも似た影が過ぎった。
「お前が読む、というのなら、それは『必要ないもの』ではなくなるのではないか?」
アベルは、その瞬間、本当に思考が真っ白になった。
それは、自由にこの部屋の本は読んでも構わない、という事だろうか。そして、ひいては、今後ともアベルがこの家にいてもいい、という事だろうか。
何を言うべきかも判らず、ただびっくり眼を見開くアベルに、まるで面白がるかのように眉根を吊り上げてみせ、それで彼は、背を向けた。その時、彼を呼び止める事ができたのは、その表情に含まれた、悪意ではあり得ない感情に勇気づけられた為だろう。
「あの!」
振り向いた彼に、思わず口ごもる。我ながら、図々しいと思う。しかし、それでも、欲求の方が勝った。どうしても、本を読みたいという。
「…あの、何か、辞書みたいなものはないでしょうか…」
「ない」
間髪入れずに返された答えは、半ば予想通りではありながら、アベルは二の句が継げなかった。
部屋の全ての壁面を埋め尽くす本。収納しきれなかった分は、まるで溢れ出したかのように、無造作に床に積まれている。多種多様な大きさ、厚さの本は、おそらく、その分野についても、広範囲に渡っているのだろうと思われた。ただ、共通するのは、どれを取っても『古い』という事…その古さに関してもまた、年代差がありそうではあったが…、そして、全てが古語で記されているという事だった。この古代の言語を自在に操れる人の為の書籍であり、書庫である。そんな場所に、初級テキストのようなものがあるはずがない。
アベルはがっくりと肩を落とした。全てがそんなに上手くいく訳はないのだ。
「…ごめんなさい。折角のご厚意なのに、僕には無理みたいです」
彼の視線は、まっすぐにアベルを貫いた。まるで、全てを見通すような瞳。全く感情的ではないのに、全てをさらけ出さなくてはならないという気を起こさせる。背を押されるようにして、アベルは続けた。胸元に抱えたままの本を、更に強く抱きしめて。
「…………字が、読めないから……」
しかし、そのアベルの言に彼の眉は、意外な事でも聞いたかのように持ち上げられる。実際、思いも寄らぬ事だったのかもしれない。彼にとって、文字を操るのは、あまりにも当然の事で、それをできない者がいるなど、思い至る事すらなかったのだろうか。
アベルは、唇を噛み締めて俯いた。
基本的に文盲の白い羽にあって、一般語ならば、何とか拾い読みする事ができるアベルであったが、そんな彼にも、さすがに古語は無理だった。古典聖書などには、古語で記された物も存在する、という話であったが、この古語は、基本的に現在では教養言語であり、死語でもある。今となっては、この言語を操れるのは、黒き羽の者でも、極一部の上流階級者だけだろう。アベルに太刀打ちできるものではない。
アベルにとって、人生とは、大抵、上手くいかないものだった。初めから期待しなければ、失望しなくてもすむし、さっさと諦めてしまえば、ずっと傷も浅くてすむ。それは、身を、というより、彼自身の心を護る処世術でもあった。それでも今、自分には無理だ、と思う事が、こんなにも悔しく、悲しかった。
そして、頭上から降ってくるのは、相変わらずの事も無げな声。
「読みたいのか?」
「読みたいです」
即答だった。そんな事にも後から気づいて、自分でも呆れる。諦める事には慣れているつもりだったのに。
「なら、読めばいい。要は、字が読めればいいのだろう」
「だけど、辞書はないって…」
それは、諦めるに充分の理由である。だから、大丈夫。諦める。
もしかしたら、という希みを、無理矢理、押さえ込む。欲望(かんじょう)は、不満の声を上げたが、理性はあくまでも冷徹だった。『貪欲』は、力在る者のみに許される特権なのだ。
しかし、続く言葉に、薄く滲みかけていたアベルの涙は、一度に引っ込んでしまった。
「教えてやる」
ただ、呆然と見上げた。視線の先では彼もまた、アベルをただ見下ろしていた。
「……何故ですか?何で、こんなに親切にして下さるんですか?」
嬉しいよりも、信じられないという思いの方が先立った。そもそも、彼にはアベルに対して、そこまでするような義理はない。何の得にもならないだろう。
彼は軽く顎を引いた。アベルの凝視など全く歯牙にもかけないかのように、事も無げに言い放つ。
「まぁ、気紛れだろうな」
完全に己を客観視しているのが判る、感情のない口調。
「随分と永い事、俺は退屈していたし、たまには悪くない。…『お前』が手の内にある、というのもな…」
すいと伸ばされた手が、頬に触れた瞬間、アベルはびくりと身を竦ませた。しかし、それだけだった。何をされても逆らわない、という、染みついた習性以上に、目の前の人物に逆らってはならないのだと、思うより前に強く感じて、体が動かなかったというのがより正しい。
闇色の髪に縁取られた、子供じみた丸い頬を包み込むように、硬く大きな戦士の手が当てられる。
「…何故だろうな。お前を見ていると、遠い昔に知っていた者を思い出す…」
軽く眇められた目に閃いたのは、哀しみ、だろうか。その瞬間、アベルは不思議な情景を見た。少なくとも、見たと思った。


じめじめとした真っ暗な牢獄では、彼の手の中のランプだけが辺りを照らす光だった。小さな炎が揺らめいて、周囲を浮かび上がらせる。漆黒の闇から今、生まれ出たかのようなその少女の姿。
げっそりとやつれて、手足を鎖に縛られて、それでも夢のような微笑を浮かべていた少女。ただ、古い子守歌を口ずさんでいた。己が殺した嬰児のために。己の手で水底へと沈めた我が子のために。
もう、彼女を救うことはできないと判っていた。多分、彼にも判っていただろう。
夜が明ければ、彼女は断頭台へと引き出される。既に狂っていたのは、〈神〉の恩寵なのかもしれない。それ程、恐怖を感じずにすむだろうから。
光そのもののようだった少女。ただ、彼の言う事を信じるのみの、愚かしくも愛らしい少女。彼のために、破滅への道を歩んだ少女。
全ては偽りだった。真実など、一欠片もなかった。
嘘に塗り固められたような世界で、彼女は何を見たのか。永い永い時間の中に存在した『自分』が、掴みたくて、それでも掴みきれなかった真理に、事も無げに到達した彼女が、本当は憎かったのではないか?


ふと、その手に力が込められた。それで、アベルは我に返った。まるで夢でも見ていたような気持ちで、改めて、目の前の人物を見つめ返す。彼の瞳の奥からも、既に感情の色はなくなっている。頬を包む手は、そのままだったけれども。
込められた力は、すぐにまた失われ、後はもう、何の感慨もない無造作さで離れていった。
ただアベルに、胸塞がれる思いの織りなす、身の置き所のないような居心地の悪さを残して。
「しかし、相手の思惑など、どうでもいいだろう。それが己の利になるのだったら、とことん利用すべきではないか?何よりも、お前の望みは叶うのだから」
怖ず怖ずと、アベルは頷いた。正論だった。
それで、話は終わりだった。少なくとも、彼にとっては。
「明日からだ」
それだけ言うと、再びアベルに背を向ける。今度はアベルも呼び止めなかった。まだ、先程見たイメージが残っていたせいだろうか、まるで現実感がなかった。
ただ、ぼうっとその背中を見つめていたアベルの視線の先、扉を閉める間際、ふと思いついたように、彼が言う。
「これからは、床で寝るのは止めろ。奥の部屋は好きに使っていい」
それだけだった。そのまま、扉は閉じられ、アベルは本の山と共に、部屋へと残された。
再び戻ってきた静寂の世界は、それでも、先程までとは全く違う。
アベルは、そっと目を閉じる。急激に彼の世界は動き出そうとしていて、まるで大波に飲まれて溺れてしまいそうな気がした。
先程の夢をなぞらえる。それは、何でも手に触れたものに縋り付く、遭難者の心理にも似ていたかもしれない。
アベルがつい先日まで入っていたのとは全く違う、本当の牢獄に籠められていた少女もさることながら、何よりもアベルを魅了したのは、彼の姿だったかもしれない。
幻覚の中、少女に向かって鉄柵越しに、思い切り手を伸ばした彼からは、現在の無感情さなど全く感じられなかった。「頼むから」と、何度も哀訴していた彼の姿は、悲壮感に満ちていて、何故だろうか、それでも、アベルを惹きつけて止まなかった。
少女と彼との間には、泣きたくなるほど胸苦しい空気があった。
あの時、アベルは彼になっていた。生きていてほしかった。一緒に逃げてほしかった。
少女にもなっていた。あのまま、死んでしまいたかった。彼が己を『愛して』くれていると感じられる、この瞬間に。
そして、二人ではない存在にもなっていた。裁かれる少女に対する、無自覚の憎しみに駆られ、それでも、二人を助けたかった想いにも嘘はなく。
本と本の谷間に当たる場所に入り込んでいたアベルは、器用に身を横たえて丸くなった。奇跡的に、本は崩れたりしなかった。白い羽で、いつものように己の体を包み込む。何だか、ひどく疲れていた。
何故、あんなものを見たのかも判らない幻覚については、その内容もやっぱりよく判らなかった。けれども、それはそれでいいような気がした。
明日になったら、何かが変わる。ならば、考えるのはそれからでもいいだろう。
アベルは、そのまま目を閉じる。速やかに訪れた睡魔は、夢を運んではこなかった。



END







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