LOVE PHANTOM


幻をいつも愛している
何もわからずに

LOVE PHANTOM/B'z



風が啼いていた。山から吹き下ろすそれが激しく吹き巻くように。
山のように大きく、山よりも高いものが空気を切って、この辺りの気象にまで影響を与えているのだ。未だ目にも映らぬその存在を如実に語る風は、ごおごおと唸った。特に、廻りに遮蔽物とてない丘の上などでは。
アベルは、中空に視線を飛ばす。渦巻く風は目に映らないけれど、確かに存在するものとしてその身に感じ取れる。それは、着実に縮まる彼女との距離を示すものでもある。
全く何もない状態から始まり、ただ歩いてきた。時には道を誤っているかの如く思え、目指す先からはただ遠ざかっているようにさえ思えた。
それが今。
確かに彼女は、この先に存在するのだと信じる事ができる。


季節が一巡する間を共に暮らし、そして別れた。たった一年間だった、と今なら言える。彼女と過ごした時間よりもなお多くの時を、旅してきた今のアベルならば。
あの日、失った彼女を取り戻すために、ここまで来た。たった一年。だけど、あれは永遠の一年だった。
一夜また一夜、幾夜もの夜を重ねた。旅の中、焚き火の火を護ってひとり、彼女の姿を思い起こした。
豊かな声と優しかった手と。
温かな微笑。愛している、と告げた唇。
幾度の時を重ねても、決して色褪せなかったあの言葉。


『アベル』を愛している、と。彼女は言った。
あの日、二人が引き離される前に。たった一度だけ。
彼女の『アベル』を思う時、アベルはまるで、双子の兄弟を見るような思いすらする。己とそっくり同じ姿の、けれど全く違う人物。
アベルの知らない過去を生き、彼女と出会い、そして彼女を『愛』した人。
アベルがその場所を奪い、何食わぬ顔で入れ替わった。今はもうどこにもいない人。


優しく柔らかく、彼女が『アベル』を呼んだ。初めて目覚めたあの日、あの人が呼んだその瞬間から、アベルは『アベル』になった。
彼女には『アベル』が必要だった。己には、彼女が必要だった。だから、己は『アベル』となった。
ただ、それだけの事。


優しく柔らかく、彼女が『アベル』を呼んだあの日、アベルは生まれた。あの時、アベルの前に世界は造られた。

彼女が世界の全て。彼女は己の全てを支配する、絶対神。
長い旅の間に、記憶は欠け落ち、今では彼女の顔も朧気で、それでも決して消え去らなかったあの言葉。

豊かな声と優しかった手と。
温かな微笑。愛している、と告げた唇。

彼女がいなければ世界は存在しない。アベルにとって、ただ彼女だけが、唯一であり全てだった。





愛とは、一体何だろう。

わからない。だけど。



彼女が『愛』している『アベル』に、ずっと俺はなりたかった。



背後に人の気配がした。それは、決して敵ではない、それでもアベルにとっては何よりも危険かも知れない人のものだった。
血の臭いのする剣闘士。アベルがアベルでいられる最後は、彼の前にいられるといい、と思った人。
全てではない。決して全てではなかったが、彼もまた、アベルにとっては唯一の人。


愛とは一体、何なのか。
そんな事、わかるはずもない。


アベルはただ、目を瞑り、中空を振り仰ぐ。遠い風、記憶の中の彼女から吹く風へとその身を委ねるために。



END







 ◆◆ INDEX〜PYTHAGORAS