一途な夜、無傷な朝


記憶の中じゃ本当の気持ちさえ見えない…

一途な夜、無傷な朝/久保田利伸



目を開ける。それは、体と意識とは、全く関わりのないところで動くものだという事を証立てるようなものだったかもしれない。実像は確かに捉えていたものの、目に映るものは、無機物と同じ。何の意味も、何の感慨も呼び覚まさないものであったから。
それでも、深く暗い水底から浮かび上がるようにして、意識は徐々に鮮明になり、視界に映るものは、無機物ではなくなってくる。目の前の人物も、彼の表情も。
何故、そんなに悲しそうな顔をしているのだろう。だけど、彼の表情は、それ以外になかったような気もする。初めて出会った時から、彼はいつも悲しそうだった。
初めて出会った時、とは、一体、いつの事だったろう。
これは、本当にあった事なのだろうか。それとも、先刻まで見ていた、永い永い夢の続きだろうか。
カラカラに乾いた空気はひどく冷たくて、通りはひどく埃っぽかった。目の前の鉄格子は象徴めいて、アベルの前に泰然と存在した。
あそこには、何もなかった。だけど、何もない事が、嫌ではなかった。
いっそ、何も無いのがよかったのかもしれない。何か満ち足りたものがあったら、きっと、己の幸福にも気付けはしなかっただろうから。
そう。
幸福だったのだ。
己がいて、彼がいて。
それだけが全てだった。それ以外には何もなく、また、何もいらなかった。
そして、今も彼はいる。今現在、己の目の前に。ひどく、悲しそうな顔をして。
ただ、目の前の人を見つめるアベルは、ただ、呆然としているようにしか見えなかったろう。事実、アベルの思考は未だ正常に動作しているとは言い難い。実際、平時であっても、己には、目から鼻に抜けるような機転など、無縁のものではあったのだが。
アベルが目を覚ました事に気づいて、彼の表情はみるみるうちに変化していく。何か思い詰めたようでありながら、何も映してはいない、ただ、悲しげ、としか表現できない顔から、彼がいつもアベルに向ける、呆れたような、小馬鹿にしたような表情に。
「…ドジ踏みやがって、ばかやろーが…」
彼が、舌打ちする。その言葉に、ふと、浮かび上がる印象風景。
むせ返るような鉄の匂いは、不可解な焦げ臭さと鮮やかな朱とに彩られている。武器を構えた者の姿はただ、目まぐるしく現れては消える。目の前を流れていく風景の中、ひどく耳につく自分の息遣いだけが妙に現実的で、ひどくアベルを戸惑わせさえする、そんな日常。
そのうち、妙に視界が開けてきて、それで戦闘も終盤に近いのだと悟る。障害物が少なくなってきたので、こんなにも彼の姿がはっきりと見えるようになったのだ。
扱いの難しい重厚な剣も、彼の手にあるとひどく軽やかに映る。剣の一閃で的確に敵を屠り、返す動作は確実に、次の相手を追いつめた。
彼の戦う姿は、いつも綺麗だ。
『綺麗』という言葉の意味もよく知らず、それでも彼を綺麗だと思う。この感情を、どのように表現するべきなのか、それもまた、判らなかったのだけれど。
それは、ほんの少しの時間でしかなかったと思う。しかし、アベルの視線を感じたのだろうか、彼がふと、顔をこちらに向けた。刹那、確かに目が合った。
アベルは、口を開いた。言いたい事があったのだ。ずっとずっと、言いたかった事が。しかし、それは言葉として発せられる事はなかった。これからも、きっとないだろう。
彼が大きく目を見開いた。そして、アベルより先に、何か叫んだ。それで、アベルは我に返った。今この時まで言いたかった、伝えたかった何かは、それで忘れた。
次の瞬間には、背後から何かがぶつかったような衝撃がきて。何よりも驚きに呼吸が止まって。空白の間の後、息を吸い込んだら、ひゅうと鋭い音がして。同時に、熱いものが胸奥から喉元へとこみ上げてきて。堪えようもなく咳き込んだら、鉄の匂いはよりいっそう、強くなった。
耐え難いほどに強くなると、いっそ、嗅覚は麻痺する。それでも、ぬるりとした触感を伴うような、ある種の生臭さは残っていて、それが不思議だった。
生きているものは、いつもひどく生臭い。だから、こんなに生臭い己もまた、生きている、という事なのだろう。
それが何よりも、不思議だった。
何が起こったのかは、全く判らなかった。それでも、暗くなる視界の中、こちらへと駆け寄る彼はひどく清冽で、こんなに汚れた己に近づいたらいけないのに、と思った事だけは、何故かよく、覚えている。
胸元に手を寄せてみると、もうすっかり馴染みとなった、堅いのに丸みがあり、柔軟さをも感じさせる手触りがある。まるで甲殻生物のようなそれは、彼が己を売り渡した大邪神そのものだ。
それが今、仄かに暖かい。
ならば、あれは夢ではなかったという事か。
大邪神の鎧は、自身、傷ひとつつかず、己の宿主の身も、滅多な事では傷つけない。万が一、傷ついた時には、驚異的な治癒力を付加して、宿主の回復に寄与する。全ての傷を塞いだ後、大量の血を失った事による低体温を防ぐためか、鎧は自ら発熱して、宿主を暖めるのだ。今回のように。
それに、慰めを感じる、なんて、おかしいだろうか。
「…ゼロは、大丈夫だった?」
アベルの無反応ぶりを気に掛ける様子もなく、更に戦闘中にあるまじきアベルの不注意ぶりを上げ連ね始めていたゼロは、眉根を上げた。顔を赤くしたのは、怒り故だろうか。
「っバカか、お前!俺はお前みたいなバカな真似…」
火を吐くような言葉は、そこで途切れた。
あの瞬間、倒れたアベルの元へとなりふり構わず駆け寄った、あの瞬間の事を言っているのだ、と気づいたのだろう。
ぐっと詰められた息は、悔しげに歪められた口元から、震える吐息となって洩れた。
「…お前といると、苛々する」
なのに、彼がいないなんて、耐えられない。
「一緒になんか、いられない」
だけど、一緒にいたいのだ。
夢の中の己は、そんな心の裏に気づかなかった。気づけないほどに、子供だった。
何故、こんなにもたったひとつの存在に心惹かれてしまうのか。
何か暖かなものに包まれたような心持ちで、アベルはふわりと微笑んだ。
彼が鼻白む気配は感じたけれど、そのまま、目を閉じる。仄暗かった部屋は、それで真っ暗になる。横たえられた寝床も消えて、アベルとゼロと、二人しか存在しない部屋が、世界にひとつきり、この世に二人きりの場所になる。
「……俺は、大丈夫だよ。目的を果たすまで、死んだりしない。そういう契約になっている。判るんだよ、不思議とね」
大邪神は、己と適合しない宿主を殺す。大邪神自身にその気がないとしても、大邪神の放つ障気に、人間の脆弱な器は耐えられないのだ。しかし、ごく少数、そうではない人間が存在する。大邪神の鎧をまとうために生まれたような彼らは、大邪神には取り殺されない。最後の目的のため、大邪神は大切に大切に、希種である宿主を護り、育てる。そして、導くのだ。約束の地へと。
十分に成長した宿主を、食らうために。
「だから、ゼロは俺の事なんか、放っておいていいんだ。巻き込まれて、危険な目にあったりする必要なんかない。俺を殺せるのは、大邪神だけだから」
それは、ほんの一呼吸ほどの間に過ぎなかっただろう。
「…ざけんなよ」
押し殺した息の端から、洩れた声。
どこか切迫した響きを感じて、アベルは目を開ける。ぼんやりと映るのは、天井ばかり。意識を向けるよりも前に、彼の怒りの滴る言葉は飛び込んでくる。
「だから、怪我なんかしたっていいって?!そんな事、お前が勝手に決めるな!お前のそんな、傲慢なところが俺はずっと…っ」
ずっと。
何だろう。
ゼロが旅の道連れに加わって、そんなに日が経っている訳ではない。その上、そんなにゼロと親しくしていた訳でもない。少なくとも、実際的には。
それでも、これから『ずっと』彼がアベルの事を心に残してくれるのなら、例え、嫌われ、憎まれていても構わない。
そんな風に思うのは、彼にだけ、だろう。これまでも。そして、これからも。
「…じゃあ」
のろのろと頭を巡らせる。激情に歯を軋らせる彼に、ひたりと目を据えると、固く握りしめた拳が小さく震えている事まで、全て目に入った。
彼の瞳の奥に翻った、哀しみの影。
それで満ち足りる不可思議さ。アベルは、うっとりと微笑む。
「ゼロには、俺を殺せるのかな」
発せられた言葉は、己のものではないような気がした。



彼が、抑えた息を洩らす。それに、己の平静な息が重なる。耳の奥に、正常に戻り掛けた己の心臓の音。
「ゼロは、誰よりも強くなるんだろう?大邪神に護られた俺を殺せるくらい、強く」
抑揚のない、ただ流れるような声。
まるで空を飛んでいるような気がする。
「その時がきたら、大邪神より先に、ゼロが俺を殺してくれる?」
しばらくは、何の音も耳に入ってはこなかった。ただ、己の鼓動だけが、耳の奥で脈打っている。ぼんやりとした意識の中、これもまた、夢なのかもしれない、と思う。
だから、こんなにも大胆な事を言えるのかもしれない。
また、意識が朦朧としてきた。空気の動かぬ、薄暗い無音の空間で、寝台に横たわっているからか。先の戦闘で消費した血液が未だ足りないのか。それとも、これが夢だからだろうか。
「……ああ」
アベルが再び、目を閉じようとした時。
囁くような声が、した。
「…お前は、俺が殺してやるよ」
とろとろとした眠りに囚われたアベルの耳に、それは予言であるかのように届く。
ひんやりとした指先のもたらす感触の後を追うように、柔らかな何かが頬を這い伝い、喉元へと進み。
吐息と共に耳元へと届いた、神聖な約束。
「大邪神なんかに殺させない。お前は俺が、殺してやる」
幸せだ、と思った。



何が夢で、何が現実なのか、判らない。
ならば、夢も現実も同じだ。
彼は今でも、ここにいる。
だから、幸せなのだ、と、そう思った。



END







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