猫

マタイにマルコ、ルカ、ヨハネ
私の寝床をお護り下さい
私の寝床の4つの角に
私をめぐる4人の天使
ひとりは見張り ひとりは祈り
ふたりは魂運ぶため
<マザーグース>より

僕は、『外』に出た事がない。
『外』は危険で、汚い。冷たいところだと、ご主人様はそう言った。
だから、僕は『外』へは出てはならないのだと。
だけど、ご主人様は毎日、『外』へ行く。すると、『中』には僕ひとりになる。あちこちに起伏のある『中』で、高いところから飛び降りてみたり、新しい探検コースを見つけたり、色々な事をして、僕は遊ぶ。世界が暗くなる頃、ご主人様が帰ってきて、そうして、『中』は明るくなるのだ。
それでも、『外』は暗いまま。
『外』には、怖い事がたくさんある。ご主人様が帰ってきた時、とても疲れた顔をしているのも、だからなのだろう。
『中』はいつだって静かで暖かい。平穏を乱すものは、いつだって『外』からやってくる。
今日もまた、『外』の方から、なにか騒ぎの気配が届いた。ひどく怒った声は、いつもの彼のもの。
『外』と『中』の境には、冷たい氷があって、そこから向こうには僕のたったひとりの友達がいる。彼は、とても強いので、怖い『外』にいても、平気なのだ。いつも、『外』の悪いものを、ああやって追い払う。
その時、不思議に空気が流れた。風に乗って、いつも嗅いでいる、だけど、今、嗅いだりするはずのない匂いがする。冷たい匂い。危険で怖い『外』の匂い。
それは、帰ってくるご主人様の匂いでもあったのだけれど、まだ、ご主人様は帰ってこない。だって、まだまだ『中』も『外』も明るいのだから。
「…お前、見掛けねー顔だな」
聞き覚えのない声に、飛び上がりそうに驚いて、そして、僕は振り返る。
あるはずのない、あってはならない存在が、そこに在った。
呆然として、声も出ない僕をだろう、彼は軽く鼻で笑う。黒い。最初に印象は、ただ、黒い、と、それだけだった。だけど、確かにそれが、彼の最も際だった点であり、端的に彼を表している点でもあったと思う。しなやかな姿態を覆う黒はつやつやで、ほっそりとしていて、それでもしっかりと筋肉がついていて、シャープで、きびきびとしていて、…それは、彼にとても似合っていた。
とても綺麗だ、とそう思ったのだ。
「お前、何?」
彼は、重ねて言う。それで僕は、我に返った。というよりも、言葉を返さなければならない、と思った。それはおそらく、条件反射のようなものであったのだろう。
「…君こそ、何?ここは、僕とご主人様の『中』なんだよ」
だけど、彼はそんな僕の言葉なんか、耳に入った様子もない。すいっと僕に近寄ってきて、僕が思わず、身を引いてしまった事なんか、気づいてもいないみたいに、僕の胸元に鼻を近づけて、くんって匂いを嗅いでみせた。そして、
「…ちっ、家付きかよ」
馬鹿にするみたいに、嘲笑った。
「表の馬鹿イヌをちょいとからかって遊んでたら、いつもはぴっちり閉まってるここが、今日は開いてるじゃねーか。そりゃ、確認くらいするだろ?」
言われて、初めて気がついた。『外』と『中』の境にある氷が、今日は少し、なくなっている。正確には、小さな隙間が開いていて、彼はそこから入ってきたのだ、ということらしい。
つまり、彼は『外』からやってきたのだ。
恐ろしく、危険な『外』から。
「お前、集会にも来た事ないよな」
そうでなきゃ、この辺で俺を知らないなんて、言うはずがない。
呆然としたままだった僕の耳に、その言葉が引っかかって残ったのは、彼に対する興味故、だったろうか。
そう。僕は、とても彼に興味を持っていた。彼のやってきたという『外』と、そして、彼自身とに。何しろ、僕が物心ついてから、僕は外にいる友達の他には、ご主人様しか知らなかった。そんな僕にとって、彼は初めて現れた他者であったし、そして、恐ろしい『外』を知る存在でもあった。怖い、という気持ちと、わくわくするような好奇心は、背中をぞわぞわさせて、僕はひどく落ち着かない。
「集会ってなに?」
もじもじしながら言うと、彼はなんて事はない、とでもいった様子で、ひょいと肩を竦めてみせる。
「お前にも、出る権利はあるさ。たとえ『家付き』だったって、一応は『誇りある一族』の一員だからな」
彼の言葉は、僕にはさっぱり要領を得ない。だけど、
「この辺の『一族』の奴らは、みんな集まってくるぜ。今度の集会は、ちょうど満月だ。月に誘われて、そりゃあ盛り上がるだろう」
僕は、なんだかくらくらしてきた。
月明かりの中、彼がたくさんたくさん、そこにいる。…僕は、『一族』というのがよく判らなかったけれど、多分、僕や彼と同じような姿をした者がたくさんいるんだろう、と思ったのだけれど、何しろ、僕は『一族』というのは、彼しか知らない。『一族』の者がみんな、といったら、みんな彼の顔になってしまう。
「来たかったら、一緒に来な。連れて行ってやるよ」
そこで、彼は背を向ける。しなやかな動作で『外』との境界線へと歩み出す。そこにあるのは、小さな隙間。『外』へと続く小さな道。
だけど、ご主人様は『外』に出てはいけないって言った。だから、僕は『外』には行けないんだ。
彼が一度だけ、振り向いた。自分ひとりで立てるだけの力と強さを体現したかのような彼。ついていきたい、ついていけたら、と思う気持ちも、確かに僕の中に存在していて、僕は全く混乱する。もうすぐ、ご主人様が帰ってくる。だから、『外』に出るなら、今しかない。だけど、ご主人様は『外』に出てはいけないって言ったんだ。
その時、背後で扉の開く音がした。ご主人様が帰ってきた音。いつものように、ご主人様が僕の名を呼ぶ。僕の姿を目にした瞬間、戻ってきた直後の疲れた様子が嘘のように拭い去られた紅玉の瞳は、ひどく優しい色をたたえて、僕を見つめる。
「…アベル」
アベルは、ぽっかりと目を開けた。ひどくおかしな夢を見ていた。意識が、まだ自分の体に戻ってきていない。そんな気がする。ころりと寝返りを打つと、隣に眠っていた存在の懐に鼻をつけるような形になって、それでアベルは現状を思い出した。
彼と話をしていた午後の昼下がり。彼が眠ってしまったから、それで、成り行き上、アベル自身も一緒に午睡するような、そんな状況になってしまったのだった。
何故か、肌掛けも二人で分け合って。
見ると、問題の肌掛けは、彼の体を半分しか覆っていない。殆ど、アベルと俺との間に丸まってたまってしまっていて、彼はひどく寒そうに見える。
アベルは、肌掛けを再度広げて、そっと彼に掛けた。本当に、そっと動いたつもりだったのだが、その時の空気の流れ故だろうか、彼はそれで、目を開けた。
「…ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
それには答えず、彼はアベルへと手を伸ばす。アベルが状況を理解するより前に、アベルの体は彼の方へと引き込まれて、その懐へと転がり込んだアベルに、彼はひとつ、大きく息を吸い込んで、満足そうに微笑んで。
「…あったけぇ」
それだけ言って、そして、再び、目を閉じた。
すぐに、静かな寝息が、規則正しいリズムを刻み出す。どうやら、一時的に意識が浮上しただけだったらしい。
その姿が、穏やかな眠りの途中、急に大きく伸びをして、そして、また丸くなって眠りにつく猫の姿を連想させて、くすり、と小さくアベルは微笑う。
何で、猫、だなんて思ったんだろう。
既に、夢の内容はアベルの中から消えていた。ただ、変な夢を見た、という、その意識が残っているだけだ。
だけど、それでもいいと思う。少なくとも、今、この時だけは。
彼も猫で、僕も猫。ただ、二匹の猫のように丸くなって、身を寄せ合って。
アベルは、そっと目を閉じる。
お互いの体温だけが、彼らを暖めてくれる。ただ、それだけでいいのだと思った。
END・
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