天使再生 +++ 承前


恐れるな 見よ
すべての民に与えられる大きな喜びを あなたがたに伝える
きょうダビデの町に あなた方のために救い主がお生まれになった
このかたこそ 主なるキリストである

ルカによる福音書−第二章10、11



寒さが肌を刺すような、それは朝だった。
目を開けた瞬間、一度崩壊したはずの世界が再構築される。
窓から差し込む清浄な光。柔らかなシーツの手触り。まるで常と変わらぬ朝の情景。
決してあり得ない、情景。
ふらつく体をベッドから滑り落とし、アベルは部屋の扉を開ける。冷え冷えとした空気に満たされた廊下は、台所に続いている。しんと静まりかえっているのは、アベルの突然の目覚めに、家の中以外の復活が間に合わなかったからだろうか。だとしたら、もっとゆっくり進まなくてはいけないのかもしれない。万が一にも、まだ作りかけの世界を目にする事のないように。
まるで何かに魅入られたかのような心持ちのまま、アベルはそっと室内を覗き込む。しかし、その心配は杞憂だった。そこは既に、完全に出来上がっていた。
片づいた台所。磨かれた食器。明るい陽光とテーブルの野花。
全てがあるべき場所に収まっていた。変わったものなど、何もなかった。
綺麗に掃き清められた床。暖炉の上に掛けられた大鍋。暖炉脇に寄せられた、使い差しの薪。
ふらりとそちらに寄ったのは、何かを意識した訳でもなかった。ふと、違和感を感じて、それが何故なのかを考える。ぼんやりとした思考の中、それの正体に気づいたのは、床から上る冷気に押さえようもなく体が震える程、冷え切った暖炉の前にへたり込んだ後の事だった。
火の消えた暖炉に詰まったたくさんの炭。たくさんの灰。それは確かに、目の前に在る。
アベルの最後の記憶には、全く存在しない、それ。
薪は、なくなりかけていた。納戸の中に、後一抱えほど。それが、この家に残された燃料の全てだった。その全てを燃やしても、これほどの灰と炭は残らない。
それとも、違っていただろうか。記憶はひどく曖昧で、まるで全てが夢の中で起きた事のような気もする。
切れかけた薪。まだ、冬の寒さも残っているのに。どうしただろうか。薪がないと、困ってしまう。
うつらうつらとした思考。未だ、体の一部が眠っているかのようだ。
それでも、何となく思い出した。そうだった。彼に、追加の注文をしてもらえるよう、頼んだのだった。
それが、届いたのだろうか。それで、こんなにも炭ができているのだろうか。
毎日、暖炉に火を灯して、この家から寒さの一切を遠ざけて。注文した薪を、燃やし尽くしてしまう程。
アベルは一体、どのくらいの間、眠っていたのだろう。
残りの冬、万が一にも足りなくなったりしない程の薪。納戸がいっぱいになるくらいの。
だけど、まだ冬は過ぎ去ってはいない。細かく震える己の手を見つめて、アベルは考える。
暖炉の炭の中に、手を入れる。仄かに暖かな灰は、細かく飛び散った。季節が過ぎ、火が使われなくなる頃、灰はすっかり湿り気を帯び、冷えて固まる。
暖炉の奥の壁面は、黒く煤けていた。水分と油分とをたっぷりと含んだ、質の悪い薪を長期間、燃やし続けでもしたかのように。
この家に入った時、暖炉を使う前にと、溜まった煤をすっかり払い落としたのは、アベル自身だ。小さな煙突に潜っての煤払いは、白い羽を真っ黒に染め上げ、その様は、彼をひどく面白がらせた。懐かしい、遠い夢のような記憶。
その時、手に何かが触れた。固い。炭とはまた違う、ざらりとした手触り。煤を手で払ったら、元の色がほんの少し、覗いた。それは、洗い晒したようでいて、不思議に暖かな白だった。
その小さな切片が何なのか、アベルはよく知っていた。遠い昔、まだアベルがただの小さな『アベル』だった時から、身近に存在したそれを、アベルは見知っていた。
…ああ、そうか…。
ぼんやりと、ただぼんやりと、アベルは思う。
そういう事なら、自分にもできる事はある。
アベルは立ち上がる。その瞬間に起こった眩暈は、足下をふらつかせたが、それでも、納戸へと向かう足取りには一片の迷いもなかった。



玄関の戸を開けると、暖かな空気が流れてきた。それは、暖かなスープの匂いを伴って、ゼロの鼻孔を甘くくすぐる。
火に掛けられた鍋いっぱいに作られたスープは、その量に比例するだけの野菜もどっさり入れられていて、その匂いは野菜嫌いのゼロをうんざりさせた。それでも、彼はそのスープを作り続けた。ゼロのために匂いを誤魔化し、味を誤魔化し、いつか、ゼロが渋々とそのスープを口に運ぶまで。
その時の彼の微笑は、今でも鮮明に覚えている。照れたような、でも満足そうな。それは、幸福、という名のものだったのだと、今は思う。彼にとっても、ゼロ自身にとっても。
甘いのは記憶であり、思い出だった。
廊下を駆け抜けたゼロは、一息に台所の扉を開ける。全てが、夢のようにそこに在った。幸せな思い出の続きが。
「おかえりなさい、ゼロ様」
アベルが、柔らかく微笑む。記憶の中に残る、穏やかで暖かな表情で。
まるで魔法のようだった。
「今日のご飯は、野菜のスープですよ。暖まりますからね」
全てが元に戻っていた。まるで、何事もなかったかのようだった。ゼロをうんざりさせる野菜のスープ。いつもと変わらぬアベルの笑顔。綺麗に片づけられた暖かな台所。火の赤々と燃える暖炉。
暖炉。
瞬間、ゼロの視線は、暖炉へと釘付けになる。全ての灰は掻き出され、熾き火を灯す炭が幾つか置かれた暖炉の脇には、一抱え分ほどの薪が据えられている。ゼロが家を出る前は、こうではなかった。
「駄目ですよ、ゼロ様。僕がいなくても、掃除はちゃんとしないと」
ゼロの視線の先にあるものを正しく見て取って、アベルは、からかうように言う。しかし、その後、すぐにすまなそうな顔になった。
「…ごめんなさい。僕が、すっかり体を壊してしまったから、ゼロ様にご迷惑を掛けてしまったんですね…」
俯いたアベルに、ゼロは、軽く混乱する。アベルの言動の意味が、よくわからなかったのだ。
「風邪でも引いたんでしょうか。どうしても、ベッドから起きあがれなくて」
ゆるりと頭を振る。それは、何か思いを巡らせている時のアベルの癖のようなもの。
「…本当は、よく覚えていないんです。随分と寝付いていたような気がするんですけど…」
本当に?
ゼロの心に、一条の光が差す。
アベルは、何も覚えていない、のか?
何気ない振りで覗いた、奴隷を扱う路地裏の小さな店では、商店主の失踪に気づいてさえいなかった。「商品の買い付けに出かける」とそう言い置いて店を出たという商店主が、何故、ゼロの家にいたのか。どのような思惑があったのか、ゼロには判らない。しかし、ゼロにとっては、好都合と言っていい、それは状況だった。
どんなに時が経っても、商店主は「商品の買い付け」から戻らない。店の者は誰一人として知らないその事実を、ゼロだけは知っている。
後、どれ程の時間が稼げるのか。彼らが戻らない店主に不審を抱くようになるには、どのくらいかかる?それまでに、アベルと自身とを守る、どれ程の準備ができるだろう。
これまで、冷静に今後を算段して、打てる手を打ち続けた。すべき事は幾らでもあり、残された時間はあまりにも少ない。
昼は、何事もなかったかのように闘技場へと通い、すべき事を片づけるように淡々と身辺を整理して、家に帰りついた夜。
精も根も尽き果てた様子で、昏々と眠りにつくアベルの寝顔を、その枕辺で見守る。アベルが目を覚ましたら、どう言おう、どうしよう、と思い悩んで。
そんな夜を幾度過ごしただろう。
ゼロにとって、どうすればいいのか判らなかったもの、手を伸ばしかけてはすぐに引く、という具合に、ただおろおろと見守る事しかできなかったのは、ただ、アベルの事だけだった。
「でも、もう元気になりましたから、これから、たくさん働けますから…」
一生懸命、といった風情で言い募るアベルに、眼奥が熱くなる。こんな時に、涙が出そうになるなんて、初めてだった。
「っ、当たり前だろ。これまでの分も、きっちりやらせるからな」
いつの間に、こんなにもアベルでいっぱいになっていたのだろう。
ちりりと心の片隅を焦がす、焦燥の念。己の不利益になるという、冷徹な感情。そんなものを全て駆逐する、想い。
絶対に手放さない。決して失わない、と決めた気持ち。



彼が見せてくれた、如何にも安堵したといった笑顔に、アベルもほっとした顔で微笑み返す。アベルも全く、彼と同じ気持ちだった。何よりも、安心していた。これで、全てが戻るのだという事に。
まだ、薪が届いてないみたいです、と言い募ったアベルに、彼は軽く「催促しておいたから」と返した。それで、注文したはずの薪はまだ届いていない事になった。届けられた薪を使い尽くして、焼却された、その存在もなかった事になった。
黒い外套も黒い法衣も黒い帽子も黒い羽根も、全部全部灰になって、残っていたのは、ただ、小さな白い骨の欠片。
既に流しに捨てたそれが、再び彼らを害する事もない。
無力な小さな、ただの物体。
それだけは、白き羽も黒き羽も変わらないんだ、と思ったら、何故かしら妙に可笑しかった。

骨になったら、みんな同じ。

その時、心臓がずくりと鳴った。得たり、とほくそ笑むように。



時は動く。なだらかな坂を下るように、ゆっくりと動き出していたそれは、段々と勢いを増して、今や止める事もできぬ車輪にも似て。
既に動き出したものを止められぬと知っていて、それでも何も見ない事を選ぶ。



偽りであっても、よかった。
ただ、共にいたかった。



END







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