道


夢の記憶



その坂道の果てに、彼らの通う学校はあった。
入学当初は、決して慣れないと思っていた毎朝の苦行も、時間を重ねれば、そう辛くは感じなくなってくる。
だらだらと続く上り坂。
何の疑問も感じることなく、ただ、足を動かす。既に体の覚えてしまった道筋から、外れる事などあり得ない。
どこまでも続くような、上り坂。
「おーい、マルス」
振り向くと、そこにはマルスを追うようにして走る友人の姿があった。
ひょろりと細い体つきの彼は、今はまだ、マルスと同じくらいの背格好だったけれど、きっと、近い将来、のっぽになるに違いない。節の浮いた指は長くて、その手は既にマルスよりも大きかったから。
痩せた体にぶっかりした洗いざらしのコットンシャツも、色の褪せたジーンズも、靴紐をきつく縛って履いた、サイズの合わないスニーカーも、彼にはとても似合うと思う。
己とはあまりにも違いすぎる、それでも大好きな友達。
しかし、隣を歩いていた幼なじみの少年は、彼の姿を認めた瞬間、マルスとは対照的な顔をした。
「ガッコーついたら、ノート見してくれよ。今日、小テストだっただろ?」
「お前、いい加減、自分でやったらどうなんだ。授業中、寝てばかりで」
マルスの「うん、いいよ」を、マリクの憤然とした声音が遮った。
それに対して、彼はいつものように、ぺろりと舌を出してみせるだけだ。人を食ったような微笑付きで。
そんなんだから、ますますマリクが怒るんだけどなぁ。
「んじゃ、また後でな、マルス!」
言うなり、彼ら二人を追い越して、坂道を駆け上がっていく。
こんな時の彼に、マルスはいつも、飛び立つ鳥を連想する。
決められた道だからではなくて、自らが選んでそこを行くのだ、と、何故か、そのように感じさせるのだ。
走り去る彼には見えないと知りつつも、マルスはその背に小さく手を振った。無自覚のまま、楽しげに微笑みながら。
横で、小さく舌を打ったマリクが更に声を荒げる。
「ノートは貸さないぞ、チェイニー!」
チェイニーの背中で、その言葉ははね返ったように見えた。





マリクの言う通り、チェイニーは学校では寝てばかりいる。
授業中は大抵寝ているし、体育の時間もどこかに消えてしまう。前に訊いてみた時、「貴重な体力、そんな事に浪費できるかよ」と言っていたから、やはりどこかで寝ているんじゃないかと、マルスはそう思っている。
それでも、成績はいい。
テストとなると、学年一のマリクと殆ど肩を並べるくらい、時には、マリクを抜かしてしまう事もある。
多分、本当に頭の良い人というのは、そういう要領の良さをもっている人の事を言うのだ。
きちんと勉強をして成績を維持するマルスやマリクは、そういう意味では違う。
多分、マリクはチェイニーのそんなところが気に入らないんじゃないかと思う。
「…マリクも、真面目だからなぁ」
思考は、溜息混じりの呟きとなって、洩れてしまっていたらしい。
マルスのノートを斜め読みしていたチェイニーが、顔を上げた。
「ごめん、独り言。…時間ないよ、早く読んじゃいなよ」
彼はまだ、出題範囲と示唆された部分に目を通し切っていない。事実そのもののマルスの言に対して、素直に目線をノートへと戻しながら、チェイニーもまた、呟いた。
こちらは、あからさまに不服そうであったが。
「何だよ、あいつ、来たのかと思ったぜ」
ノート、取り上げに。
言下の呟きもまた、聞き取って、マルスは苦笑する。
「こないよ、もうすぐ授業始まるのに」
今頃、隣の教室で、授業の準備を万端、整えているだろう。
「チェイニーから、僕のノートを取り上げにこれないから、ますます、腹立てるんだよね」
マリクには、きちんとした行動規範があって、常にそれに則って行動している。彼が理性なく、感情のみで動く事なんて、絶対にない。少なくとも、幼少のみぎり、マリクと知り合ってから今まで、マルスはそんなマリクは見た事がなかった。
そのマリクが、入学以来、マルスの同級生となったチェイニーに対して、声を荒げて、感情をむき出すのだって、実はとても希有な事なのだ。
そんなところもまた、マルスがチェイニーに対して、尊敬に近い念を抱く一因でもあるのだけれど。
「…うざってーヤツ」
本当にそう思っているにしては、少々、軽やかな口調ながらも、科白の後半は欠伸に濁る。
それは、時折、マリクを刺激するため(としか、マルスには思えないのだが)の芝居がかったものではない。実際、彼はいつも本当に眠そうなのだが、それもまた、マリクには気付かれたくないらしいのだ。
…不思議な関係だよねぇ。
ちょっと複雑な気分ではある。
「チェイニー、夜、ちゃんと寝ないと、体壊しちゃうよ?」
「その分、昼間寝てるからいんだよ」
テスト終わったら、また寝られるしな。
うそぶくチェイニーは、マルスの言葉を否定しない。
「…何で、夜、寝ないの?」
「バイトあるから」
即答だった。
思わず、チェイニーの顔を凝視するマルスに反して、彼はノートから目は離さぬまま。
我に返ったマルスは、小さく周囲の様子を窺った。
テスト直前、最後のあがき、とばかりに勉強している者。既に諦めたという事か、己の席を立って、友人と話し込んでいる者。
適度に音のある空間では皆、目の前の物事に夢中で、一つ机を挟んで向き合い、小さく言葉を交わし合っていた彼らの話が耳に入った様子もない。
マルスはより一層、声を低めた。
「……夜、働いてるの?何で?」
「深夜の方が、時給いんだよ。知んねーのか?」
「………いや。知らない訳じゃないけど」
そういう事を聞きたい訳ではないのだが、どう訊いていいのか、判らない。
アルバイトというものに対する校則は、そんなに厳しいものではなかったが、チェイニーが行っているような深夜バイトなど、許されるとは思えない。
勿論、マルスには学校側にそれを洩らすつもりは毛頭なかったが、そんな事はどこから洩れるか判ったものではない。
もし、バレたら、元々、素行の良くないチェイニーの事、処分対象となるは必定である。
上目遣いにチェイニーを見る。些か、気遣わしげなその視線で、マルスの心情を理解したのか、チェイニーが口を開く。チェイニーが他者に親切心を発揮する、という事もまた、珍しい事であったのだが、マルスには、それは能わない。
彼の行動規範は、興味の有無で決定され、そこには冷酷なまでの線引きが行われるという事には、既に気付いてはいた。しかし、出会ってすぐ、マルスが彼に感じたような共感を、彼も同様に感じてくれているのではないか、とそう思えるくらい、チェイニーは、マルスには常に、ある意味、親切であり、誠実であった。
「面白いぜ、夜のバイトってのは。色んな人間行き会ってるし、見てるだけでもな」
こういう時、チェイニーは、マルスよりもずっと大人なのだと、そう思う。
世の中を知っている、という事。大人であるという事。それは、勉強ができるとか、そういう事とは全くの無関係なのだ。…まぁ、チェイニーは、勉強ができない訳ではなかったが。
「今度の長期休暇は、旅行に行くつもりだから、今のウチに、稼いどきたいってのもあるんだけどな」
「旅行?どこに行くの?」
「どこにでも。その日、行きたいところに、ふらふらーっと移動する。それが旅行の醍醐味ってもんだ」
歩きたい日は歩く。夜の間、歩き続けて、昼間に宿を取って寝てもいい。
汽車に乗ってみたい気分の時は、最小区間の切符を買って、適当に路線を乗り換えて。
気が向いたら、また歩く。片手に地図だけを抱えて。
それは、とてもチェイニーらしい旅だと思った。
「…いいなぁ。僕も行ってみたい」
不可思議な間があった。
「……いいぜ」
その感情の見えない呟きに、マルスは顔を上げる。
ノートを見ているとばかり思っていたチェイニーが、真っ直ぐにマルスを見つめていた。
軽く笑っているようでいて、どこか真剣な。普段とは少し違う、それでもどこかで見たような、印象的な瞳で。
「今度は、一緒に行くか?」
『今度は』って、今までチェイニーに旅行に誘われた事なんて、一度もなかったのだが。
「行く」
小さな疑問符は、歓喜の前に霧散した。




長い休みに入ったら。
友達と一緒に、どこまでも行こう。
気の向くままに、旅をしよう。
坂道を下って、ただ真っ直ぐに、新しい世界へと。




「但し、マリクの野郎には秘密にしとけよ」
「何で?」
「妨害されるから」
「何で。しないよ、そんな事」
疑り深げな視線を斜めに送って、チェイニーは小さく溜息。
「んじゃ訂正。『一緒に行く』とか言い出しそうだから」
そんな事ないよ、とは、言い切れない。
確かに言い出しそうだった。
しかし。
「いいんじゃん?別に」
一緒でも。
するとチェイニー、心底呆れたような顔。
「よくねーよ。お前、ハネムーンに、小姑連れてってどーすんだよ」
「…やっぱ、マリクも誘おう」




どこまでだって行ける。
自身がそれを望むのならば。




「そんなんなったら、連れてってやんねー」
「なら、勝手についてくもんねーだ」




道は、未来へと続いている。



END






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