千年の孤独〜あるいは終章


何者にも代わり得ない たったひとりであるということ
誰にも替われない たった独りであるということ



その声を耳にした瞬間の彼の様子は、常日頃の冷静な顔しか知らない大多数の者達の目には、さぞかし信じ難く映った事だろう。…といっても、お互いにとって幸運な事に、その時、周囲には誰もいなかったのだが。
ここ、マリクに与えられた自室は、重臣に割り当てられた居室区の中でも、最も奥まった場所に位置している。つまりは王宮内でも、謁見等、業務的な事の行われる区画から最も遠く、王族…現在のアリティアには、その名に値する者は、たった二人しか存在しない…の生活空間である奥宮に、最も近い。
ナーガ神教の祭司長である姉姫は、王宮の北東に位置する神殿にそのまま居住する為、現在、広大な奥宮の主は、弟王子ただ一人なのだが、種々の理由で延び延びになっている戴冠の儀が執り行われれば、新たな国王となる事が決定している王太子の居住区である。最も警備の行き届いた区域であるはずなのだ。加えて、現在のアリティア王宮には、マリク自身の魔道結界を張ってある。侵入を拒否する強固なものではないが、しかし、王宮の敷地全域に及ぶ薄い膜のようなそれは、紛れ込んだ異物を確実に感知する。
マリクに気づかれず、こんな場所まで忍んでくる事など、常の人間にでき得るはずがない。そう、それこそ〈炎の紋章〉を所持でもしていない限り。
目を閉じて、静かな一呼吸。
マリクは、何事もなかったかのように、先程まで行っていた作業を再開した。つまり、数冊の必要文献を探し出す為に、意識を目の前の書棚に集中させた。
「おーい、マーリークー。無視する事ないだろー」
しかし、それならば、この状況にどのような説明をつけるべきなのだろう。全て幻聴、で片をつけたかったマリクの耳にしつこく絡んでくる、この能天気な声。
マリクは思った。
つまりは、こいつは人間じゃないのだ。前々から、そうじゃないかと思っていたのだが。
更に思った。
やっぱり、疫病神だったのだ。
己の腹立ち紛れの思考が真実をかなり鋭く突いているなどとは夢にも思わぬマリクは、ようやっと探し当てた最後の一冊を片手に抱えた本の山に積み重ねると、執務机へと踵を返した。部屋の中央奥の位置するそれは、いつの間にやら文書や文献に占領されて、本来の大きさを感じさせる物ではなくなってしまっている。魔法都市で半ば呆れて見ていたウェンデル教授の部屋によく似た状況になりつつある自室は、それでもかなり居心地のいい空間であった。
しかし今、現在進行形で背後からほてほてと、マリクの平和な世界を破壊する非日常の権化は付いてくる。
机に相応しい重厚な作りの椅子に腰掛けたと同時に、マリクはそうした自分の行動を深く後悔した。今の今迄、きっぱりと目に入れないようにしていた存在と否応なく向き合わなければならない現状に、いきなり直面してしまったのである。
執務机を挟んだ真っ正面。目を逸らす事は不自然に過ぎるし、そもそもそんな逃げを打つような真似は、マリクの自尊心が許さない。
「よう、久し振り。元気してるか?」
気安げに軽く手を挙げて、『それ』は笑う。
マリクがこの世で最も嫌いな人物が、そこにいるのが当然のような顔をして、立っていた。夕焼け空のように派手やかな茜色の髪は、記憶の中よりも更に鮮明だったが、それ以外では、全く変わった様子もない。何かを嘲弄するような光を隠した瞳までもが同じ、十代も半ばの少年の姿で。



答えを返す事もなく、ただ真っ直ぐに見据えるのみのマリクに、チェイニーは…勿論、『それ』はチェイニーだった…如何にも心外そうな顔をして、肩を竦める。こういったところも、数多ある嫌いな箇所の一つだ。相手がどのような言動を取ろうとも、全く気になどならないくせに、まるで傷つけられたかのような顔をする。
「あ、そういう態度を取る。ちょっと冷たいんじゃないの?宰相閣下。偉くなっちまったら、俺なんかとは口も利けないって訳?それとも、もう忘れちまったとか?…昔っから物覚えが悪かったもんなぁ、お前」
「忘れたかったのは山々なんだが、挨拶も無しでいなくなるなんて無礼者、早々いるもんじゃなかったからね」
徹底無視から全面対決へ、路線変更の決断後は、マリクの反応は速やかだった。無表情のままつけつけと言い募る台詞が、淡々とした口調ながら、まるで切り込むような鋭い印象を与えるのは、その視線の冷たさ故だろうか。
しかし、対するチェイニーは、そんな彼の様子を面白そうに見遣って、にやりと笑う。
「あれーえ?心配してくれてた?もしかして」
「…な訳がないだろう。もう二度と会う事もないだろう幸運にむせんだ過去が、懐かしくって涙が出そうさ。お前がいなくなって落ち込んでたのは、マルス様だ」
かの戦役が終結した後、チェイニーがふいと姿を消してから、短からぬ期間、そうと見せないように繕いながらも、明らかに消沈していたマルスを眼前にし続けたという事実が、彼に対する腹立たしさに拍車を掛けるのだ。
「へーえ?マルスが?」
「呼び捨てにするな、と、お前こそ何度言えば判るんだ?!」
他者にありのままの己を晒す事を潔しとしない、という彼本来の気質も勿論あった。しかし何より、一国の宰相としては若すぎる自身の年齢、魔道士であるという立場、にも関わらず、彼を抜擢してくれた主君の信頼とが、怜悧な彼の仮面を殊更に強固なものにしていたのだが、今や、その仮面は完全に剥がれ落ちている。
しかし、チェイニーは己の為し得た快挙がどれ程のものかを知らなかったので、小さく鼻を鳴らしただけだった。もし知っていたとしても、やっぱり変わらなかっただろう。興味はあまりないのだが取り敢えず、といった心情のありありと判る視線を周囲に一渡りくれると、何気ない風に、目の前に積まれた文書の山から、端の飛び出している一枚を抜き取った。
「おい、人の物を勝手に」
「…へー、タリス王って、おっ死んじまいそうなんだ?」
マリクは、チェイニーの手から文書を引ったくった。
「何だよ、そんなに恐い顔して睨まなくったって、言わねーよ、誰にも」
文書の隅に朱でくっきりと捺印された〔極秘〕の文字を見落とす事は、流石になかったらしい。公式には「軽い風邪」と通達のあったタリス王の病が、その実、死に至るものである、というのは、タリス駐在のアリティア大使からの密書でもたらされた情報だった。
現在、七大王国随一の国力を誇るタリスは、アリティア最大の同盟国である。七大王国と呼ばれる国々において、たった一つ、ここ十年内に起こった二回の戦役に関わる事がなく、つまりは国力を疲弊させる事が一切なかった。のみならず、反対にこの戦役を利用し、大陸中で最も権威ある国の一つ、アリティアへ接近する足掛かりとすらしているのだ。蓋を開けてみれば、タリスの一人勝ち、といった様相を呈すこの現状は、全てタリス王の経営手腕が導き出したものだった。
政治的、ではない。あくまでも、利に聡い商人の経営手腕である。しかし、この商人は、小さな持ち船一つを資本にたった一人、七大王国に名を連ねる国を作り上げた男なのだった。だからこそ、この「タリス王危篤」の報は、重大な意味を持つ。
一人の偉大なる商人が産み出し、育て上げた国には、後継者がいない。
過去、存在したたった一人の跡継ぎは、次代のアリティア王妃となる事が既に決定しており、彼女を妻にするアリティア国王には、タリスの王権を主張する権利が生ずる。
王妃の産む子供をタリスの養子に、という目算も潰えてしまった。タリスに由緒ある血を入れ、あわよくば、アリティア本国へも政治的権限を、という野心もあったろうに、結局のところ、タリス王の誤算は、今この時点では、タリスを治め、護る者は己しかいないのだ、という事実を軽視していた点だろう。
己の死期を読み間違えた。
だが、それも仕方のない事だ。誰しも、明日の自分の命の心配をして過ごす訳ではない。殊に、自身の力を信じる人間であるのならば、尚更に。
しかし、現在の彼は一介の商人では有り得ないのだ。彼の死は、タリス国内のみならず、この大陸世界全土に波紋を呼ぶ。タリスは衰退するだろう。それが、徐々に進んでいくか、それとも速やかに行われるかは未だ判らないが、確実に。
力の均衡が崩れる。七大王国の勢力範囲図は、再び塗り替えられるだろう。他国の持たない情報を一歩、先んじて手に入れられたという事が、アリティアの強みとなれるかどうか。
先程よりも幾分慎重な視線を向けるマリクを前に、己の垣間見た文書がどれ程の意味を含んでいるものかも知らぬげに、チェイニーは唇を尖らせた。ぶすくれた表情を隠そうともしないあたりが、彼をとんでもなく子供じみて見せている。初めて会った頃から、全く外見上の変化を見せない彼の実年齢が見かけ通りではない事は、薄々気付いてはいたし、恐らくかなり年上であるのだろうという想像もまた、ついていたのだが。
「大体、俺には関係ねーだろ、何処の爺さんが死のうが生きようが」
それは、その通りだった。極楽とんぼのおちゃらけ者という体を装いながら、彼の物事を見る目はひどく冷ややかだ。自分とは直接関係がない…或いは、関係があっても…人間に対して、何ら関心を示さないであろう事は、如何にも明らかだった。
「それに、そんなに見られてまずい物だったら、こんなところに投げ出してある方が悪い」
そもそも、マリクの執務室に無条件に入室する事ができる者は、マルス王子しか存在しない事など、実際、こうして入り込んできているチェイニーの前では、主張するも虚しい。
結果として、無言でチェイニーを睨み付けるのみのマリクに、チェイニーは小さく肩を竦めてみせた。
「まぁ、細かい事はさておき」
どうやら、言い訳を並べ立てる事に飽いたらしい。チェイニーは、にっと笑った。悪戯っぽく、とも、皮肉げに、とも取れる、微妙な表情で。
「信じなさい。俺の口は、貝の口なんだ」
「それは、火に炙られると自発的に開かれる、という事か?」
「…上手いなー、マリクー」
「ふざけるな。冗談事じゃないんだ、これは」
「まぁ、そんな事はどうでもいいんだけど」
「人の話を聞け」
「んで、マルス何処?」
「呼び捨てに、するなあっ!!」



燭台に立てられた蝋燭の炎が、ふわりと揺れた。それだけが、重厚な扉が音もなく開かれた証拠であった。
厚い緞帳が全て降ろされた室内は、薄暗い。部屋の主は、不必要な物は置かない主義であるらしく、広々としたそこはがらんとしている。流麗な美しさで知られたアリティア王宮の中にあって、些か殺風景な印象すら受ける程だ。しかし、それでも、そこここに置かれた家具調度の数々は、見る者が見れば瞠目するであろう逸品ばかりで、部屋の主の趣味の良さを窺わせるには充分だった。
だが、当然ながら素早くその身を滑り込ませてすぐ、そっと扉を閉めたチェイニーには、それらは何の感銘も与えなかった。忍び足で人気のない前室を横切る。別にそんな事などしなくとも、気配を消すなどお手の物だったのだが、そこはそれ。気分である。
そして、最後の関門。主室への扉に手を掛け、静かに押し開く。
「久し振りだね、チェイニー」
間髪入れずに、その声は投げ掛けられた。そこには、現在のアカネイア大陸の覇者が立っていた。威厳もへったくれもない、子供そのものの笑みを浮かべて。



「ちぇー、驚かせてやろうと思ってたのにな」
心底がっかり、といった様子のチェイニーに、マルスは面白そうに笑う。
「マリクでは、成功してたね」
「判るか?」
「ここまで、マリクの声が響いてきてたから」
最近のマリクは、声を荒げる事など、滅多にしない。大声を出すという事自体を、己に禁じているかのように。しかし、実際、そうする事によって、彼の魔道士としての特異な神秘性が強調されて、それが年齢にそぐわぬ威圧感を醸しているのもまた事実なのだ。まるで一足飛びにものの判った大人になってしまったかのようだった。
シーダも、もの憂げな表情を見せる事が多くなった。いつも明るい笑顔を振り撒く、元気な女の子だったのに。
儀礼典礼に則った堅苦しい宮廷生活。分刻みで決められる行動予定。王妃代行としての諸々の責務。そして、常に晒される、周囲よりの視線。
王宮の女主人として、宮廷婦人達を統括する事。サロンを主催し、若い芸術家の育成に当たる事。外交においては国王名代ともなって、王を補佐し支える事。
王妃の職務も、国王に負けず劣らず、広く深い。辺境の新興国からやってきた少女に対する、多少意地悪げな値踏み。しかし、何よりも、その中に確かに含まれる期待。それこそが重圧になる事を、確かにマルスは知っていた。そして、それらを受け続ける事が、王族の義務であり、責務であるという事も。
だけどそれも、アリティアでさえなければ、彼女にとって、ここまで窮屈なものにはならなかったはずだ。そう。彼女の生まれ育った、タリスであったならば。
ドルーア戦役という、不測の事態が起きさえしなければ。
タリスの世継ぎの姫は、側付きの武官を夫とし、共に手を取り合って、強大な指導者を亡くしたという難局を乗り切り、新たなタリスを立派に治めていっただろう。
聖アカネイアも王太子が正しく王位を継ぎ、姫君がグルニアの将軍へと降嫁する事だってあったかもしれない。
マケドニアの新王は有能だから、遠からず、アリティアとの繋ぎを作ろうとしただろう。王女をアリティアの后に、という申し出も実現したかもしれなかったし、何よりも、平和時であったならば、確実に同盟を結べる相手であった。
そして、アリティアの新王即位もまだまだ先の話であり、マルスは当分の間、呑気な王子のままでいられた筈なのだ。
歴史に「もしも」は有り得ない。それでも、時々思ってしまう。
もし、ドルーア戦役さえ起こらなければ、と。
しかし、起こらなければ良かった、と思っている訳ではない自分もまた、マルスはよく知っていた。この戦役がなければ知り合えなかった人も、見る事すらできなかったものも、知りようもなかった事も、幾らでもある。今、目の前にいる人物だって、そんな内の一つなのだ。
「だけどチェイニー、今まで何処に行ってたんだい?随分、御無沙汰だったじゃないか」
「まぁ、いつものように気の向くままに。…外海を渡って、あちこちぶらぶらとね」
勧められる前に、部屋のソファに身を落としたチェイニーに続く形で座ったマルスは、何気ない風な彼の返答に目を輝かせた。
「それじゃ、大陸を出て?!どんななんだい?外っていうのは」
「どこも変わんないよ、人間の作っている社会なんて」
やっぱり、チェイニーのいらえは、如何にも気のない様子である。どうやら、彼の好奇心を満足させてくれるようなものは、少なかったようだった。退屈凌ぎに旅に出て、そこでもやっぱり退屈している。チェイニーの様子を見ていると、いつもそんな風なのではないのかと思えてしまう。
「チェイニー、アリティアに落ち着く気ない?何でも、用意するよ。領地、屋敷、地位、役職…」
チェイニーは、マルスに上目遣いな視線を寄越す。
「お前、俺にそんな生活、できると思うか?」
マルスもまた、すぐに首を横に振る。
「思わない。ただ、言ってみただけ。気にしないで、ちょっとした愚痴だから」
そして、溜息混じりに、ついた頬杖の中で更に肩を落とした。
王位継承に先立って行った人事で、新たなアリティア陣営の中核は既に定まっていた。
軍総司令ドーガ。
聖堂騎士団長カイン。
宰相マリク。
一つの国を支える者としては、若すぎる顔ぶれであったろうが、アリティアは、先だってのドルーア戦役で元々の重臣達をあらかた亡くしてしまっていた。それでも、これはアリティアだけの問題ではない。ドルーア戦役は大陸全土を巻き込んだものであっただけに、何処の国でも同様の問題を抱えており、その中においては、アリティアはかなりましな部類ではあったのである。
しかし、グラの王女によって出されたアリティアへの統治権返還宣告も、受理せざるを得ない状況であり、現状では、急に二倍近くまで膨れ上がってしまった領土も支配はおろか、保守、維持管理という点のみにおいても、大きな重荷である。
ニーナ王妃の王権遺棄、出奔という大事件により、置かない訳にはいかなくなってしまったアカネイア総督府もあった。こんな時、せめてアベルとゴードンがいてくれたら、と思ってしまう。アカネイア総督とグラ領事も、アベルとゴードンならば充分に努めてくれただろうと確信できるだけに、辛いものがある。
もう一人、使える人間もいるにはいたが、聖アカネイアは、聖教団の勢力が最も強い地域である。『ナーガの巫女姫』が新総督では、聖教団と民衆、双方とも敵に回す恐れがあった。
「何?そんなに人手足りないんだ?」
「…まーね」
「ふーん」
この話題に関するチェイニーの感想は、それだけだった。そもそも、彼の興味をそそるような話ではないのだから、当然であろう。そんな彼を知りつつ、それらをチェイニーで解消しようなどとは、考えるも愚かというものだった。確かに、それだけの力量は持っているが、付随して必要な根気や責任感といったものを一切、持ち合わせていないのが、チェイニーという存在なのだ。
それに、何をおいてもマルスは、チェイニーを『仕える者』にしたくなかった。同等の視点でものが見られる、たった一人の友人を失わない事は、円滑な国家政策などよりも、マルス個人にとっては重要だったのだ。
チェイニーはひょいと眉を上げて、ぐるりと部屋全体に頭を巡らせた。マリクの部屋よりも本や書類は少ないが、マリクの部屋よりもずっと、整然と整えられた、マルスの居室。
「…だから、こんなに人がいない訳?ちょっと無防備過ぎやしないか?俺がここまで来る間、誰にも呼び止められたりしなかったぜ」
「侵入者に対する警戒態勢は、きちんと成されているんだよ。この辺りには、警備兵はいないけどね」
マリクの魔道結界の恩恵を最大限に受けた奥宮には、極限られた人間しか立ち入る事を許可されていない。不特定多数の護衛兵達の気配は却って、結界の邪魔となる、というマリクの言による現状は、朝目覚めたら、自分で顔を洗って着替え、給仕も持たずに食事を取る、という、宮廷貴族言うところの「庶民風」な習慣が身に付いてしまったマルスにとっては、願ったり適ったりであった。
相手を拉致する折の魔道士の定番、傀儡の呪法も、〈炎の紋章〉を持ったマルスには利かない。攫いたいなら、力尽くで以ってするしかないが、現在、この城に侵入できる者などいないだろう。魔道結界に引っかからないはずがないのだから、当然、マリクはすぐに気づくし、万が一、侵入できたとしても、マルスがそのような暴挙に唯々諾々と従う道理もない。
しかし、それら全てを内包したマルスの気楽な答えに、少々芝居がかった難しそうな顔をして、チェイニーは立てた指を左右に振ってみせた。
「俺が言ってるのは、侵入者対策じゃなくて、人攫い対策の事」
「変な事言うなぁ。侵入できなきゃ攫えないよ。実際、ここまで入って来たのって、チェイニーが初めてだし…」
マルスの言葉は、半ばで消える。
侵入できなきゃ攫えない。ならば、もし、侵入できたなら?
マルスがそのような暴挙に唯々諾々と従う道理もない。ならば、もし、理不尽な暴挙でなかったら?
目の前には、チェイニーが座っている。
「それに、『攫われる』のはお姫様って、相場が決まってるよ、チェイニー」
殊更に冗談めかして笑うマルスとは対称的に、チェイニーはしかつめらしく首を横に振った。
「いいや。お姫様を攫うのは、悪い魔法使い。王子様は、悪い竜が攫うんだ」
「悪い竜?」
「そりゃあ、もう。最凶の極悪非道だぜ」
小さな微笑を刻んだままのマルスが、この一見軽快で、その実、途轍もなく危険な会話を切り上げるきっかけを掴もうと、立ち上がりかけた時だった。チェイニーは機先を制するように、独特のしなやかな身ごなしでその身を起こすと、マルスと彼の間を隔てる卓に手をついて、半身を前に乗り出した。
「だから、王子様は二度と国へは帰れない」
マルスが体勢を整える前に、チェイニーは一気に禁域に踏み入ってしまった。弾かれたように顔を上げて、目の前の人物を凝視したその瞬間、穏やかな微笑の仮面が外れた。恐怖すら滲ませた子供のような素顔も、多分チェイニーに見られてしまった。だけど、その一瞬に、巧みに隠されたチェイニーの思いも寄らない真摯な表情を、マルスもまた確かに見て取っていたのだ。
途端に目眩を感じて、マルスは固く瞼を閉じた。
「…王子様がいなくなったら、たくさんの人達が困ってしまうよ」
目眩がする。
「竜は他の人間の事なんかどうなったって、気にならないんだ。王子と二人で、面白おかしく生きていくだけ」
たわわな知恵の実の重さにしなる枝にその身を絡ませ、誘惑の蛇がゆっくりと鎌首を擡げる。ふと脳裏を過ぎった、聖教団の経典にある有名な一場。不可思議なその連想。
「王子が、帰りたいって言っても?」
目眩がする。〈炎の紋章〉は、傀儡の呪法からも、マルスを護ってくれるはずなのに。
「帰りたいって言っても。…竜は王子を絶対、手放さない。だから、仕方ないんだ。王子が帰れなくっても、それは王子のせいじゃない」
寓意の裏に隠された、恐ろしくも甘美な囁きは、あくまでも優しく耳朶を擽る。
照り付ける太陽の下、弾けるようにシーダが笑う。マリクが怒鳴る先では、チェイニーが大きな欠伸を洩らしていて、そんな光景に、ジェイガンがしかつめらしい顔をして、大仰に首を横に振る。すぐ側に、カインとアベル。シーダの近くに控えたオグマ。重厚なハーディン、いつも明るく陽気だったジュリアン、カチュアの清冽な凛々しさ、マリアの愛らしさ。そして、ナバール。
剣をマルスに捧げて消えた、誰よりも強情で誰よりも純粋だった、たった一人の守護騎士。
もし、ドルーア戦役さえ起こらなければ、決して訪れはしなかった情景。決して出会えはしなかった人々。そしてそれは、もう二度と訪れる事もないだろう情景であり、もう二度と会う事もないだろう人々でもあった。今でも刺すような痛みを伴う、一種、酩酊にも似た甘やかな、その瞬間の残像は、常の如くすぐに消え失せてしまったが、チェイニーの姿だけは消えなかった。まるで魔法のように。
チェイニーは悪戯っぽく笑って、マルスに手を差し伸べている。過去と寸分変わらぬ姿で。
まるでそれが惑乱から救ってくれる唯一のものであるかのように、マルスはソファの肘をきつく握り締めた。
「…駄目だよ、チェイニー。それは、駄目だ」
王子は後悔するだろう。そして、国に残してきた人達も、一緒にいる竜も、どちらも悲しませる。…誰も、幸せになれない。
マルスは、ゆっくりと顔を上げた。目の前に存在するのは当然、誘惑の蛇などではなく、先程と変わらぬチェイニーだった。だけど、マルスは気付いていた。深刻さなど欠片も感じさせない、気楽そうな彼の姿勢の中に隠された、傷付きやすい幼子の顔に。
「ごめんね。僕が泣き言を言ったりしたから、チェイニーに余計な心配させてしまったね」
そして、何気ないように微笑んだマルスに、彼は怒りと悲しみがない交ぜになった表情のまま、その口角を吊り上げて見せた。
「…お前って、ずるい奴」
「そうだね」
「我侭だし、意地悪だし、残酷な卑怯者」
「うん」
「…ちょっとは、反論しろよ」
「だって、本当にその通りだもの」
チェイニーは、決してマルスの望まぬ事をしようとはしない。アリティア王家の始祖アンリと同じく、彼の血を飲む事により、神剣ファルシオンを扱い、暗黒竜に対抗できるだけの力を得たのと引き替えに、彼の使役魔となったマルスなのだから、一言、命じさえすれば、マルスは彼に逆らえず、全てが思いのままになるというのに。
それを知っていて尚、こんな事を言う己のずるさ加減は、自身が最もよく理解している。
「ねぇ、チェイニー」
マルスは、囁くように言の葉を紡ぐ。
「また、会いに来てくれるよね。こんな風にさ」
チェイニーの瞳が、泣き出しそうに引き歪む。
「……お前って、本当に、ひっでぇ奴」
返されないと判っている反論を急ぎ塞ぐその唇を積極的に受け止めて、マルスは静かに目を閉じた。



あれから、どの位時間が経ったのか、マルスには判らなかった。ひどく長い間、こうしていたのかも知れないし、ほんの数分しか経っていなかったのかも知れない。ただ、目の前には既にチェイニーはおらず、代わるように立っていたマリクの、困ったような、少し悲しそうな顔を、彼の手に握られた燭台の炎が浮かび上がらせている事が、何だか不思議な気がした。
「…マリク、聞いていたのかい?」
「見損なわないで下さい。僕には、盗み聞きの趣味はありません。…だけど、大体の想像はつきますけどね。どうせ、あいつはまた、マルス様に失礼な事を言ったか、やったか、したんでしょう」
憤然とした振りを装いながら、瞳に浮かんだ気遣いの色が、その台詞を裏切っている。
チェイニーの突然の来訪が、マリクの気にならなかったはずはないし、気になっていたのなら、その会談の内容など、否応なく探知してしまった事だろう。マルス自身が、チェイニーとの会話中、マリクの結界から逃れようなどとはしていなかったのだから、尚更に。
ソファに身を沈めたまま動こうとしないマルスに、マリクはそっと歩み寄った。
「マルス様?」
それでもいつもと変わらない穏やかな声で屈み込んだその首に腕を巻きつけ、マルスはマリクを引き寄せた。
息を呑んで硬直した体を構わず、強くしがみつくように抱き締める。
マルスの周囲の人達は、皆、悲しくなる程に優しかった。マリク、カイン、アベル、ナバール。そして、最後まで自身の望みを語る事を避けたマルスを「卑怯者」と断じ、それでも彼の裏切りを許してくれた、優し過ぎる悪い竜。
チェイニーの申し出を甘い誘惑と感じたという事実は、目を背ける事もできない程に明瞭だった。それを望まぬ者にとって、彼の言葉が誘惑になり得るはずもないのに。
きっと、それを一言でも口にすれば、彼はその後に続く建前など全て蹴飛ばし、王宮から、この国から、マルスを連れ出した事だろう。
昔、火竜族の老人が言っていた。「神竜族は皇族」だと。そして、竜皇家最後の王女は、竜族全ての最後の子供でもあったのだ、と。ならば、彼は竜帝ナーガに連なる者で、そして、千年前に生まれた王女よりも、確実に永い時間を生きている。
神話の時代を生き、戦乱の現世を駆け抜け、そして、恐らくは永世の未来も歩み続けなければならない、孤高の子供。永い永い時を生きても、人は決して、神にはなれない。そして、人は決して、孤独に慣れたりなどしないのに。
一緒に行こう、と、確かに彼は、マルスに懇願していたのに。


結局、己の大切な人々全てを裏切って、そうしてしか生きていけないのだ。
これからも、ずっと。




王太子の戴冠と同時に執り行われた結婚の儀により、若き国王と同時に愛らしい王妃をも得た喜びにアリティアが沸いたのもつかの間の事。王妃の実父に当たるタリス王の崩御により、結婚後、一年を経ずして、王妃は祖国タリスへと帰る事となる。タリス女王となった王妃がアリティアの土を踏む事は、二度となかったという。数年の後、王妃はタリスで子供を産む。この男児に対して、アリティアから引き渡し請求がなされたが、王妃はこれを拒否。その後、再度請求が起こされる事もなく、この男子は賢王として名高い、タリスの第三代国王となる。
記録に残る限り、この血の繋がらない父子が対面したのは、このタリスの王子が母女王の名代としてアリティア王城に伺候した、ただの一度のみである。アリティア国王は、タリス人らしからぬ薄茶の瞳に茶金の髪の、己と同じ名を持つ少年を、ひどく懐かしそうに飽かず見つめていたと伝えられる。
その後、義理、実によらず、彼が子と名の付くものを持つ事はなく、アリティア王の系譜は、晩年、子を成した姉姫の子孫へと受け継がれる。しかし、後世の国王に神剣を抜いた者は一人としてなく、更にはこれも、続く混乱期に失われ、歴史の闇へと消えた。
現代では、アカネイア総督をも兼ねていた、当時の魔道士宰相の手によるとされる古びた年代記と、それとは対照的に、千年の時を経ても腐食の影さえも見せない、不可思議な合金で作られた、かのマルス一世のものと伝えられる額飾りとだけが、伝説を事実として語り継ぐ全てである。



END







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