楽園〜千年の孤独・附記


朝も 昼も 夕方も
夜は 夢の中でも あなたを愛す



赤ん坊の泣く声がした。
熱く湿った空気に満たされたここ、タリスでは、王宮といえども、風通しをよくする事を第一に考え、殆どが吹き抜けに近い作りとなっている。甲高い子供の声など、全く筒抜けになってしまうのだ。現女王の子供の頃から全く変わらぬそれは、大陸の王室などからは、品のない、と眉を顰められる事もしばしばであったのだが、タリスに住まう民人にとっては、ついつい口元の綻んでしまうような、親しみやすさをかきたてるものであった。
その庶民性ゆえに、タリス王室の子供は、まさしく、タリスの子、として、国民全てに愛され、育つ。
彼の自室の扉が叩かれ、いつもの女官が顔を出したのは、ちょうどオグマが身支度を整え、その腰に古びた、しかし、何よりも手に馴染む愛剣を収め終えた時だった。
「オグマ様、女王陛下がお呼びです。王子様が…」
「ああ、聞こえている。すぐに行く」



「オグマ!」
真っ赤な顔をして泣き喚く赤ん坊をその腕に抱いて、おろおろと揺すっていた女王は、入室したオグマを見るなり、輝くような笑顔を向けた。先代にして初代タリス王が崩御し、その王位を継いだ女王は、まだまだ、あどけない少女の風貌を残していたが、既にタリス国民に親しまれ、愛される王として、その地位を確立しつつある。
しかし、王である事には慣れてきても、母親である事の方は、なかなか一筋縄ではいかないらしい。必死の様子で子供をあやし、それでもぐずる赤子に「…なんで泣き止んでくれないのぉ…」と、彼女こそ子供のように、泣き出しそうな面持ちで途方に暮れる様は、なかなかに周囲の者達の庇護欲をくすぐるものではあったのだが。
オグマの入室と入れ替わるようにして、他の者達は部屋を出ていく。彼と女王に一礼していく彼等の顔には、一様に笑いが浮かんでいたけれど、それは決して、嫌なものではなかった。あまりに微笑ましい情景に、思わず、といった様子である。
そう。タリスの人々は、皆、理解してくれている。
母の声音から、新たな人物の登場を知ったのだろう、王子が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。巡らせた頭がオグマに据えられた途端、こちらの表情もぱっと明るくなる。
「おぅま!」
「はい、王子。オグマは、ここにおりますよ」
おぅまおぅま、と、王子は目の前の男へと手を伸ばす。
「この子ったら、本当にオグマの事が好きなのね」
タリスの女王は、ほっとしたように微笑んで、己の腕に抱いた王子に頬擦りすると、王子は、この母からの愛撫に、あーうー、とうめいてみせる。まるで「僕はオグマとお話ししたいんだから、邪魔しないで」とでも言いたげなその様子に、女王は、まぁ、と軽く眉を上げ、それでも満ち足りたように微笑んだ。
母となった幸福故か、最近の女王は匂うばかりに美しい。まるで、その身の内から何か暖かなもの、輝かしいものがこぼれ落ちるかのようだった。
美しい女王と愛らしい小さな王子。茶色がかった金色の髪と薄茶の瞳の赤ん坊。





一度は捨てた場所だった。この国での十数年は、穏やかに満ち足りた時間だったし、既に何より、この国を愛してもいたのだけれど。
長年に渡って、更新し続けてきたタリス王との契約も、これを最後に切った。
彼の大切な少女が、嫁ぐ。海を渡り、大陸の王室へと。
相手は、彼女が長年、片恋を暖めてきた王子様。
これでついに、オグマに残った最後の心残りも消え失せた。
少女の幸福。ただ、それだけがオグマの願い。
婚儀のみ、末席から見守って、それだけで姿をくらませた。少女には、別れすら告げなかった。
多分、彼女は少し泣いて、そして、彼を忘れるだろう。
やがては子供も生まれ、穏やかな家庭を手に入れる。
きっと、幸せになれる。

数年間、諸国を放浪した。
懐かしい国、行ったことのない国。興味はあったが、今まで行けなかった国々。あっという間に、流れていく時間。静かな夜、浮かんでは消える少女の面影も、次第に柔らかな霧に包まれたように煙る。
人は、こうして全てを想い出へと変えていくのだ。
しかし、ふとした折り、耳にした噂が、彼を再度、この国へと導いた。
タリスの王の代替わり。次の王は、既に他国へと嫁ぎ、王位継承権は放棄しているはずの王女様。
王女が、タリスへと還る。
彼女は、大陸で幸福に暮らしているはずなのに。
再び足を踏み入れたこの国で、現在では王宮内でも結構な上職につく過去の部下と連絡を取った。詳しい話を聞き出すため。
人も寝静まった深夜、示唆された場所に向かうと、そこには、夢の中で幾度もまみえた少女が待っていた。



「……オグマは、ずっと傍にいてくれると思ってたから…」
掠れた囁きは、ともすれば悲痛のうめきにすりかわる。
権威ある大陸の王室に嫁ぐ事も怖くなかったのは、ずっと傍らにはオグマがいてくれるのだと、そう信じていたから。
「もう絶対、私を置いていかないで」
世界はとても広大で、空虚。なのに、何よりも重い。
重すぎて、身を支えるものがなくては、立っていられないくらいに。
「…マルス様は、とても強い方だわ。本当に強い方」
たったひとりでも、立っていられる人。
世界全ての人々を支えて、それでも決然と立っていられる、強い人。
「だけど、私は駄目。…あんなに強くはなれない。オグマがいてくれなくちゃ、…苦しくて、息ができない……」
太陽を無くした人のように。水から揚げられた魚のように。
「私、きっと死んでしまうわ…」
なくしたら、生きていけないものもあるのだ。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、両の手を思い切り伸ばして、ただオグマにしがみつく。小さな子供が母親に縋るような、例え世界の全てが敵となっても、最後の最後まで共に在ってくれるだろう唯一の者に対する、抱擁。
己の身の内を突いて出そうな衝動に、一時、体が強張った。少女の体はあくまでも細く、頼りない。それは、決して許されない事だと判っていた。しかし、それでも。
オグマは、胸に縋る少女をきつく抱きしめた。それは、彼女が子供の頃に与えたような優しい抱擁では、全くなかった。折れよとばかりに掻き抱く。
それは、今までのように彼女に所望され、差し出したものではありえなかった。オグマ自身が望んだ、初めての…。
少女の押し殺したような苦痛のうめきに我に返って、慌ててその力を抜くと、オグマが身を離すより早く、今度は少女が彼の首へと腕を回し、強く強く抱き締めた。長年、オグマを知る少女には、こんな場合の彼の行動など、お見通しだったらしい。
「姫、大丈夫だったか。…すまない、つい力加減を忘れて…」
「謝らないで。私、嬉しいのよ」
少女は、泣き笑う。くすくすと洩れる笑いに耳朶をくすぐられて、オグマはどうしたらいいのか、わからない。おろおろとした混乱の末、やがて回された腕は、今度はそっと、包み込むかのようだった。
「…オグマ、大好きよ……」
彼女の幼い頃から、幾度も繰り返された言葉は、それでも、過去ある無数のそれらとは、全く違う輝きを以って、そこに在る。
決して得られないと思っていた、そして、決して得てはならなかったものを、その時、オグマは得てしまったのだ。





これは、裏切りなのだろう。
現在の主君であるタリス女王にして、アリティア王妃でもある女性と情を通じ、子まで成した。
彼女の正式な夫であるアリティア王をたったひとり、置き去りにして。
彼は強いから、と、少女は言う。しかし、少女が思っているようには、アリティア王である青年は強くはない。強い国王を演じて、演じきって、本当の彼がどこにあるのか、多分、彼自身にももう、判らない。
孤独な子供。可哀想な子供。
多分、彼にとって、少女は、初めて得た陽だまりのようなものであったろう。
そんな彼の少女を奪いとって、彼を踏み台にして、そして、現在の己の生活はある。
「……マルス王子…」
差し出した手に対して、当然のように女王は、王子を預ける。彼の息子を。
幾度、謝っても足りないだろう。この罪は、決して拭われはしないだろう。
今では最愛の妻となった少女。少女の面立ちと、彼自身の色合いとを受け継いだ息子。
幸福の具現のような、彼の家族。
それはまるで、夢の結晶。



あの時に還って、もう一度やり直せたら。
きっとそれでも、全く同じ道を選ぶだろう。
己の前で泣く少女をかたく抱きしめる。
それが罪だとわかっていても。
何度でも。何度でも。

この至上の楽園で甘い夢に溺れて。

後は、地獄に堕ちても構わない。

もう、彼らを手放すことなど、決してできはしないのだから。



ミルクの匂いのする頬に、その顔を埋める。すると、太古の軍神の名を与えられた赤ん坊は、嬉しそうにきゃっきゃと笑った。



END







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