ブラザーサン・シスタームーン〜あるいは終章・if


もしも あの時 あの場所で…



それはそれは、穏やかな日よりだった。
こんな日は、ただ木陰でのんびりと過ごすのが相応しい。万人がそう思うだろう午後だった。鳥の声は高く、空を幾重にも行き交って響き、枝葉を揺らす風はそよそよと涼しげだ。
王宮の外れの奥庭。庭師ですら、滅多に立ち入ることを許されない一角である。木々の枝ぶりも野性味に溢れて、行儀よく整えられた表の庭とはまた、違った趣がある。
まさに、自然そのままの、鬱蒼とした森、といった風情。
マリクは、目の前で展開されている、いとも和やかな風景に、いつものように軽い目眩を覚えた。
ひときわ大きく枝を張った木の下に据えられた簡易な卓と椅子は、野外での茶会用として、本宮でもよく使われるものだ。細密な織りのレースに、目にも眩しいほどに白い、東方の陶器。
己らで差し入れた菓子を口に運びつつ、マリクは思う。
こんなところで、こんなことをしていても、いいのだろうか。
この大きな木の向こう側に回れば、神殿が見えるはずである。王室を、アリティアという国を支える神の宮であり、神に捧げられた大祭司、光神ナーガの花嫁である巫女姫の小宮殿。
世俗の者は、目にすることすら叶わぬ聖域。
ほっそりとした白い手が、彼の前へと香茶の入った茶器を置く。
その手にあると、茶器もまるで、優雅な装飾品のように見える。彼ら、マリクと彼女の弟である王子とが、決して逆らえない、たったひとりの人。
彼女が所望するのなら、彼らはどこへでも馳せ参じるのだ。例え、余人の足踏み入れる事叶わぬ聖域にであろうとも。



「王宮では何か、面白い話題でもあって?」
月に一度の定例茶会の席上で、司祭姫はおもむろにこう言った。
もう幾度、このようにして、たった三人のみの茶会が催されたことだろう。
彼と彼の側近である魔道士の青年とは、現在、奥宮内にある王太子の私室にて、勉強の真っ最中である、ということになっている。
戦時、奥宮へと追い込まれた折りなどの脱出経路として作られた、王族のみの知る抜け道は、平時である現在でも、充分に有効活用されていると言える。
「タリスの世継の姫が、ご婚約されたそうですよ」
姉の手による香茶を一口。喉を湿して、マルスは小首を傾げてみせた。王宮の貴婦人達の間でも、ひとしきり、持て囃された話題である。
この姉は、概して、普通の貴婦人達の好むものには、全く興味を示さない。
しかし、今回の話に関しては、彼女達とはまた違った意味で、興味を持つ事だろう、と思ったので。
試したつもりはなかったが、果たして、姉姫は考え深そうに、顎を引いた。
「…タリス。外海の新興国ね。で、お相手はどちらの方?」
「傭兵だそうです。元は剣闘士だったという話ですが、詳細はわかりません」
姫君と元剣闘士の傭兵。
王宮の貴婦人達は皆、目を輝かせていたものだ。噂話は、醜聞であればあるほど、面白い。特に、それが己らとは全く係わりのない話である場合には。
「確かにそれは、なかなかに面白いお話だわねぇ」
如何にも感心したように洩らされたその感想には、王宮婦人達のものとはまた、全く違った興味深さが乗っている。
「親書を送ってみたいわね」
続く言葉に同意を示して頷きつつ、更に補足。
「婚儀に合わせて、親善大使でも送り込んでみたいところです」
タリスとアリティアとの間に、現在、国交はない。タリスは未だ、辺境の新興国としてしか見られておらず、国としてのつき合いを進めるにはある種の決断を必要とする。
しかし、国の首脳の冠婚葬祭は、いつだって、最適な外交の場となる。何処の国に対しても申し開きの効く口実であり、今回の結婚という慶賀は、手始めの繋ぎを作るのには、誠に都合がいい。
「だけど、難しいかも知れない?」
弟の顔色を読んだ姫は、小さく微笑む。皮肉な含みを持たせたその微笑みは、確かに、自国の現状に対する理解を示す。
「ええ」
対するマルスも微笑んだ。姉と全く同種の笑み。互いを共犯者と認めて、彼等は目端で会話する。
三貴王国と呼ばれる国の間には、互いに対して複雑に絡んだ感情が存在する。大陸の盟主である聖アカネイアと、元は聖アカネイアの貴族であったグルニア王家。本家と分家とでもいったようなこの二国の関係に比べ、同じく三貴王国と呼ばれながらも、アリティア王家の祖は、元々、貴族ですらない。
それでも、大陸を救った伝説の勇者は、身分など全く気にもされず、どころか、その身分のなさ故にか、共に戦った、後のグルニア王であるアカネイア貴族よりも、ずっと民衆に愛された。
聖アカネイアやグルニアと比べ、国土の広さも国力も劣り、人口もずっと少ないこの国アリティアの名が、現在でも、英雄伝説と共に語り継がれている程に。
だから、建国以来ずっと変わらず、アリティアはこの二国に対して、謙虚な姿勢を貫いてきた。逆らう気も、敵対する気もなく、一部の人間が危惧するように、この大陸に対して覇を唱える気など毛頭ないのだ、という事を示すために。
アリティアは、聖アカネイアとグルニアに対する気遣いを忘れては、生き残っていけないのである。
「何しろ、この結婚は『権威を無視する暴挙』だそうですから」
それが聖アカネイアの、そして、その意を汲んだグルニアの、ひいては全大陸世界の公式見解。
肩を竦めた弟に対して、
「権威なんて」
姉姫は鼻で笑った。
「そんなもの、時間が経てば付いてくるというだけのものよ。却って、足枷だわね。国ひとつ盗んだ程の男が後継ぎと目した、という事実から、目を反らさせるとなると」
〈世にも稀なる姫〉と呼ばれる司祭姫の真価は、音に聞こえた美しさよりも、その中身にある。
世界に対する冷ややかな視線と客観性。
誰にも知られぬ、アリティア王太子の二人目の側近は、その徹底した現実主義で、彼の意志の示す道を強化する。
しかし、現在のところ、彼女の政治的才能を知るものは、彼女の弟である王太子と、その側近である魔道士の青年とだけである。誰も知らない、という事を、彼女の弟としては勿体なくも思うのだが、しかし、諸外国はおろか、自国内の重臣達も知らないのだという事が、その強みでもある。
彼女が早い時期に王位継承権を放棄し、神職へと入った事は、アリティアにとっては慶事だったのだろう。そうでなければ、今頃は国内を二分する騒動の原因となっていたであろうから。
次代のアリティア王位を巡る内乱の火種として。
「ええ。無能であるはずはないですね、少なくとも。…問題は、アリティアとの関係についてです。現在、国交のない国ではありますが、国策として掲げる貿易で築いた財力と人脈とは、決して侮れるものではありません。次代の国王、か、女王の夫となる男が、血の気の多い性質でないといいんですが」
マルスは、また香茶を一口、口に含んだ。マルスの猫舌気味の口にも、ようやっと、その味を楽しめる程度に冷めてきていた。
周囲を彩る音は、木立を揺らす風と鳥の歌声。何よりもここにいるのは、姉と親友と己だけだ。
マルスにとって、気を張らなければならない人の目が存在しないというだけで、そこは何よりの憩いの場である。一月に一度の、それは穏やかな時間だった。
小さく、満足の吐息を洩らす。が、いつまでも、浸っている訳にはいかない。己も親友も、何よりも姉も、本当は今ここにはいないはずなのだから。
「いっそ、あちらから親書でも寄越してくれれば…」
そうでもなければ、アリティアとしては、なかなか動きの取れるものでもない。
「こちらでの慶賀があれば、それは望めるのではなくて?」
姉姫からの指摘は、マルスにとっては、全く範疇外のものだった。言われて初めて、そんな話もあったな、と思い出す。
それを面に出して、姉姫へとからかいの種を提供する気はなかったので、平静な表情を保ったが。
この辺り、アリティア王太子としての訓練の賜であり、マルスの得意技でもあったりする。
「結局、私がお仕えする事になる次代のアリティア王妃は、どちらの姫君になったのかしら?」
「さぁ。まだ、閣議は紛糾していますから」
それは、本当の事だった。興味の有無とは別に、その程度には、マルスも実状を捉えている。
「聖アカネイアの末の王女殿下か、マケドニアの一の姫か。名を取るか、実を取るか、という訳ね」
「…そうですね」
相変わらず、歯に衣を着せない人だ。そして、あまりにも真っ直ぐに的を射抜く。
『名を取るか、実を取るか』
まさにそうだ。
『聖アカネイアか、マケドニアか』
それは、これからのアリティアという国の進むべき方向性にも関わる話となりかねない問題として、保守派と革新派とで、意見は真っ二つに割れてしまい、既に収集が付かない状態に陥っている。
「全く、喧しい事」
「姉上がマケドニア王の元へ嫁がれたら、問題は全て解決なのですけれども」
これまた一言で、全てを断じてしまった姉に対して、少々、意地の悪い一言。
ひどく嫌そうな顔をして、姉姫は彼を睨み上げた。
マケドニア王妃にアリティアの姫を、そして、アリティア王妃に聖アカネイアの姫を迎えれば、聖アカネイアともマケドニアとも、縁戚関係を作れる。最良の形であるといえる。
その効果は重々、承知しているからだろう、結局、何の文句を言うでもなく、彼女はカップの柄に指を絡ませ、立ち上る湯気越しに彼を見つめる。怒ったような、それでいて、彼の意見を楽しんでもいるような、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「…なかなか、言うようになったわね」
「ついた教師が一流でしたから」
この世に生まれ出た瞬間から、アリティアの王太子であった彼には、幾人もの教師がついていた。帝王学、剣術、地理、歴史。自国はもちろん、他国の経済とその流通に至るまで。
しかし、それでも、幼い日より、彼に『支配者としての気構え』を、無意識の内にも忘れぬくらい、身に染み込むほどに教えこんだのは、今目の前にいる姉姫その人だった。
「もうひとつ、面白い選択肢があってよ」
司祭姫は、婉然と笑んでみせる。
「宰相あたりに出世したマリクと結婚して、アリティアの女王位を請求してみる、というのは、どうかしら」
マルスの横で、ちょうど香茶を口に付けた所だったマリクが、むせ返った。
「あ。それはいい案ですね」
派手にごふごふと咳き込むマリクを他所に、会話は至極和やかに進む。
「僕もずっと、思っていたんです。性別によって、王位継承順位が前後するのは、おかしいのではないかと。やはり、長子が継ぐべきですよね。弟である僕ではなく、正真正銘、長子であられる姉上こそが、次代の王となるべきです」
「……駄目よ、マルス」
目を輝かせるマルスに、彼の姉姫は重々しく、首を横に振った。まるで、神降ろしの儀の時のような厳粛さで。
「貴方、本当に冗談が通じないんだから。アリティアの王位を継ぐのは、貴方の義務です。私に押しつけようなんて、絶っっ対、許さなくてよ」
彼女の言う『冗談』というのが、どこにかかってくるのやら。
『マリクと結婚』か、それとも『女王位の請求』か。この姉の事だから、多分、両方なのだろうが、本当にこの人は、今現在、横にいる当の相手を話の引き合いに出して、全く動じないのだから、立派なものだ。マリクの気持ちを知っての上なのだから、なお凄い。
「そもそも、王位とは関係ないでしょう、現在の問題は。次代の王妃殿下のお話しだったのではなくって?」
カップを口に運ぶ仕草も、あくまでも優雅に、司祭姫は言った。
自分から振った話題のくせに、とは、決して弟は言わなかった。口にしてしまったら、何倍にもなって返ってくると判っている事に対しては、初めから何も言わないのが賢かったし、そんな弟の心中など、この姉は全くお見通しであるのは、確実なのだから。
そんな暗黙の了解から、速やかに軌道修正は図られる。
世界が『アンリの子』と呼ばわるアリティアの姉弟の辞書に、無駄、という文字はなかった。
「…実際、どちらでも構わないんですけど。次代のアリティア王妃なんて」
小さな吐息は、そう重くもない溜息とも取れる。それを受けて、姉姫もまた、小さく顎を引く事で、賛意を示す。
「そうね。どこで戦があるという訳でもないのだし」
既に、七大王国間に於いて、不可侵条約が結ばれて久しい。軍事同盟としての結婚など、全く意味はなかったし、戦争が各国間の力関係を決する時代など、過ぎ去ったと言って過言ではない。実際、これからの国家間の戦いは、経済戦争の色合いが強くなってくるだろう事は明白である。
「暗黒皇帝が世界に覇を唱えたという時代から、既に105年…」
司祭姫が、息をつきながら、茶器へと手を伸ばす。白々とした指の先まで、細くなよやかで、我が姉ながら美しい、とマルスは思う。
「結局、100年後といわれた復活もなく、このまま根腐れしていきそうな平和だけが続くのね…。いっその事、本当に復活していたら、面白かったのに、と思わない?七大王国も、そうね、半数くらいが滅亡して。マルス、貴方なんて、暗黒皇帝を倒す連合軍の総大将にでもなっていたかもしれないわ」
しかし、彼女の性格は、はっきり言って、破滅型だった。
「……姉上」
今度は、マルスの方が深々と溜息をつきながら、姉姫が新たに茶を注いでくれたカップへと手を伸ばした。
「冗談じゃありません。僕は『ちょっと頼りないアリティアの次期王』って立場で充分です。それ以上なんて、望みません」
彼女の空想を『不謹慎だ』とは決して言わない辺り、さすが姉弟である。
「…全く。本当に怠け者なんだから」
「人間、分相応ってものがあるんですよ」
「相応、不相応以前の問題よ。貴方はいつだって、自分の能力と同価以下のものしか出そうとしないじゃないの。貴方の本当の力を知っている者なんて、王宮にいて?だから、『頼りない』なんて言われるのよ」
彼女の怒りは、確かにマルスを気遣ってのもの。例えば、周囲に彼女の才能を知らしめたいと、つい己が抱いてしまう、そんな感情と同種のもの。
だから、だろうか。彼女だけは己の同族なのだと思うのは。
この姉だけが、家族なのだとさえ、思ってしまうのは。
マルスは、ゆったりと微笑む。その微笑みは、幸福そうですらあった。
「それでも許されるんだから、僕は、今の平和な時代が好きですよ」
そんな弟に対して、彼女は、本当の意味で強行には出ないのだという事をまた、マルスは知っている。
司祭姫は、溜息をひとつ。
「…仕方のないこと」
それは、あくまでも、軽い吐息のようなものだった。



マリク、お茶のお代わりはいかが?
…あら、私の手からでは飲めないっていうの?
判ればいいのよ。
今日のお菓子も、とても美味しいわ。これが、今の流行りなのかしら?



司祭姫の声も耳に心地よい、それは穏やかな日よりだった。
こんな日は、ただ木陰でのんびりと過ごすのが相応しい。万人がそう思うだろう午後だった。
常の如く、マリクに軽い目眩を起こさせる定例の茶会はまた、至極和やかな時間を彼等に提供する。
時に、アリティアの王太子マルス、19才。
偉大なる父王は未だ衰えを見せず、その治世により国は繁栄に浴す。王位継承は、まだまだ遠い未来のことになりそうな春。
世界は、あまりにも平和だった。



END







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