タマゴの気持ち



溶かしバターの芳ばしい香りが、鼻孔をくすぐる。
その匂いは、彼の胸に暖かく、満ちて広がる。
目の前の戦いは終わり、しばらくは行軍もない。つかの間の平穏な昼下がり。
この長い戦乱の前、タリスの休日を思い出し、オグマはふと、微笑う。
オグマにとって、バターの香りは、平和と豊穣と、素朴な暖かさに満ちた彼の国、そして、それらに繋がる幸福の記憶に直結する。
そして、オグマの幸福の記憶の中心には、必ず、ひとりの人が存在するのだ。
バターの香りと、熱く焼けたオーブンと。
粉まみれになった小さな少女。



「…あぁっ?!」
小さな悲鳴と、何かが崩れ落ちる音は、殆ど同時だった。
バターの香りの発生源は、確かにここだ。
おそらく、軽食を作るためにあるのだろう小さな厨房。扉もないそこを、オグマはひょいと覗き込む。
そこに、少女はいた。手も足もすんなりと伸びた彼女の姿は、既に記憶の子供よりも女性に近く、しかし、過去の記憶そのままに、両の手と前掛けとを粉で真っ白く染めて。
「姫、どうした?」
少女が、こちらを振り返る。
オグマを映す瞳には、一瞬、安堵の色が浮かび、そして、それはあっという間に形を潜める。後に表れた気まずげな様子は、まるで大人に悪戯を見つけられた子供のようだった。
オグマには、そのような時の常として押し黙った少女が口を開くのを待つ必要はなかった。ただ、周囲を一渡り見渡しただけで、状況は、ほぼ正確に見て取れた。
「菓子、を作っているのか」
そして、卓に積み上げられていた使用済みの調理具が、片づけられる前に雪崩れた。オグマは、ちょうどその現場に居合わせてしまったらしかった。
少女の手元には、彼女の手によってこね上げられ、平べったく引き延ばされた焼き菓子のタネが整然と並べられた鉄板がある。彼女の身分を鑑みれば、その手にあるのはいささか不釣り合いなそれが、オーブンに押し込められ、焼かれた後には、多少いびつな形と比例しない味である事を、ちゃんとオグマは知っている。
飾り気のない、素朴な味わいの焼き菓子は、タリスでは民人に一般的に食べられているものであり、少女に作る事ができる、そして、自信を持って人に出す事のできるたった一つの食物だ。
小麦粉とバター。そして、胡桃。必要なのは、それだけ。
ただ一点、注意しなければならない、と、城の料理長が難しい顔で忠告したのは、オーブンの温度管理のみだった。
オグマは、厨房へと体を滑り込ませ、少女の手から鉄板を受け取るべく、手を差し出す。
少女が菓子を焼く時には、オグマが手伝いをする事、特にオーブンの蓋を開けてから後は、全てオグマが担当する事は、もう、何年にもなる、国にいた時からの決まり事だったから。
しかし、対する少女は体を引いた。
「駄目」
オグマをまっすぐに見据え、きっぱりと言う。
「私ひとりでやるから、オグマは手を出さないで」
そして、以降は何も言わず、背を向けた。話す気はないらしい。頑固な背中は、オグマに小さな溜息を洩れさせる。
初めは、機嫌を損ねているのだろうと思った。最近、オグマはとみに忙しく、落ち着いて会う事もできなかった。そのために、へそを曲げているのだろう。久しぶりに顔を見せたオグマに、むくれた顔を見せたいのだろう、と。
少女は、オーブンの薪を、不器用な様子でかき回す。その瞬間、火が燃料口を舐めるように吹き出した。
「きゃ…」
片腕に抱えるようにして、少女をオーブンから引き離す。
「…大丈夫か?」
「う、うん…」
おずおずと、少女が頷く。しかし、指先を庇うような一瞬の仕草をオグマは見逃さなかった。
「火に触れたのか」
「熱い空気にびっくりしただけ」
少女の言い訳は、意に介さなかった。ただ、彼女の手を取り、開かせた。オグマが来るまでにも、長い間、オーブンと格闘していたのだろう。そこには、今だけのものではない、小さな火傷が幾つもできていた。
「続きは俺がやっておくから、姫は休んでいるといい」
宥めるオグマの腕の中、少女は身を捩る。
「それじゃ、意味ないもの!」
刺すような声だった。
眉を顰めた硬い表情も、不機嫌さ故、とは見えなかった。それよりももっと、思い詰めたものを感じさせた。
「…どうした?」
先からの言葉と同じ、しかし、より柔らかい物言いに、少女は泣き出しそうな顔になる。
だけれど、口元を固く引き結んで、オグマの手から己の手を引き抜き、拳で大きく顔を擦り、そして、少女はなおも言った。
「何でもない」
幾らかの沈黙があった。やがて洩れた吐息は、溜息のようにも響いた。
「…俺は、いない方がいいか?」
オグマの言に、腕の中で少女は身を固くした。
それが、答えなのだろう。
身動ぎもない少女から、オグマは静かに腕を引く。彼女が負担に思わぬように。
が、しかし、それを引き留めるかのように、今度は少女がオグマの胸に背を預けてきた。
それがどういう意味なのか、計りかねているオグマの胸元で、俯く少女が何事かを呟いた。
「…姫?」
促す声に
「…言って」
少女が返す。
「姫、何か…」
「『もっと頑張れ』って、言って」
見上げる瞳は硬く、張り詰めていた。オグマの知る、生きる力に溢れた夢見る瞳の色は、影すらもなかった。
涙を堪える子供の顔に、ただ、オグマは息を呑む。
彼女は、いつからこんな瞳をするようになってしまったのだろう。己は、いつから彼女にこんな瞳をさせていたのだろう。
もう、何日も何週間も、少女と会っていなかった。怪我をした等の報告は受けていなかったけれども、外的なものだけが、身を傷つける訳ではない。
いかに現在、小康状態を保っていようとも、ここは故郷ではなく、現在は戦時なのだから。
しかし、少女は、ただ胸を突かれて押し黙るオグマを気にする風もなかった。
「マルス様も、ニーナ様も、とても立派に義務を果たされているんだもの。私ももっと、頑張らなくちゃ駄目なの。だから、言って」
妙に大人びて響く、押さえた口調で、更に続ける。
「『もっと頑張れ』って、言って」
オグマは、ひとつ息を吸い、また、息を吐いた。それを、少女は静かに見つめている。オグマのどんなに小さな言葉も、聞き漏らすまいとするかのように。
「姫」
オグマは、仄かに笑う。
「姫は、頑張らなくていい」
少女は、大きな目をなお、大きく見開いた。
少女も、いつまでも子供ではない。いつまでも、オグマの手を必要とはしない。自立し、大人になる。それは、彼女にとって、喜ばしい事だ。
だけれど、大人になる、という事は、こんなに悲壮感漂う顔をする事ではない。断じて。
「そうなりたいと願望して、努力する事と、無理をする事は違う」
少女の反論の口を塞いで、オグマは言った。
「マルス王子と聖王女は、姫に無理をするよう言ったのか?」
ならば、こちらにも考えがある、と言わんばかりのオグマの言に、少女は大きく首を振る。
「じゃあ、無理をしてほしいと考えていると思うのか?」
もっとはっきりと、首は横に振られた。
少女の健やかな精神が、傷つけられる事がなければいい。
少女が好意を抱き、憧れる二人のように、立派な王族となる事で、それが歪むのだとしたら、そんなものにはならなくてもいい。
大人になど、ならなくてもいい。
本当の思いは、決して口にはしない。できない。
それは、オグマの我が儘だったから。
彼女の手を離したくないのは、多分、オグマの方だったから。
「…お二人は、姫に冷たいか?」
「そんなんじゃない…」
小さく首を振りながら呟いて、俯いた少女は、己の肩に掛かったオグマの腕を抱え込む。子供が人形を抱くように、今、彼女は自身を抱きしめている。
胸に溢れる愛おしさは、幼い日から彼が見守り続けた子供への情愛でしか、あり得ない。
いつか、彼女は、オグマの手を離れていく。
身を切る痛みも、そのうちに消える。
だから、もう少し、このままでいてもいいだろう。ほんの数分の間だけ。
ただ、彼女の頭上に、吐息のみの口づけを落として。
「無理はするな。姫は、そのままで在ればいい」
「…無理じゃないもの」
むくれた様で、更にオグマへと寄りかかる。その口調に、先程までの悲壮感はなかった。
「オーブンを決まった温度に暖める事くらい、私にもできるもの」
見上げる瞳も、悪戯っぽい笑いを秘めた、オグマがよく知る彼女のもの。
直前までの、今にも壊れてしまいそうな雰囲気など、欠片もない。
「大丈夫。オグマがいつもやってたのを、ただ見てたわけじゃないのよ」
どんな苦難も、軽やかに飛び越える。マルス王子が持つような圧倒的引力はなく、聖王女に備わった劇的なオーラもない。それでも、人々の心をつかみ、魅了する。困難と戦う力を、勇気を与えてくれる少女。
「信用できない?」
既に答えのわかっている問いを口にする。力強く、鮮やかな瞳。
これだから、彼女には勝てないのだ。
ほんの二言三言、言葉を交わし、オグマは厨房を退出する。もう、心配の種はない。
相当数の不完全な菓子が作られる事にはなりそうだったが、取り敢えず、食べて体を壊す、という程のものでもないだろう。
オグマは、彼女がそれを、聖アカネイアの王女とアリティアの王子への差し入れにするつもりである、という事実をまだ知らない。
「…あぁあっ?!」
背後から、小さな悲鳴の後に、何かが崩れ落ちる音がした。


「…姫、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だったら!」


溶かしバターの芳ばしい香りは暖かく、人を幸せな気持ちにしてくれる。
バターの香りと、熱く焼けたオーブンと。
何よりも、オグマを幸福にしてくれる、彼女の笑顔。



END



まいこさんに捧げる44444HIT御礼の品。
随分遅くなってしまいましたが、どうぞ、お納め下さいませ。m(_ _)m
最近、私の中でもこの二人は微妙に進化しているようです。
まいこさんの好みに合うか、微妙なところではあるのですが。(汗)
ともあれ、久しぶりのオグマとシーダ、とても楽しかったです。
リクエスト、ありがとうございました。








 ◆◆ INDEX〜PASCAL