胸の黄金〜ナバール

剣士ナバール。性別、男。その他、本名、国籍、年齢、一切不明。
アカネイア大陸には珍しい、漆黒の髪と瞳。常に冷静沈着であり、その性情は冷酷非情。
彼の持つ異国風な造りの曲刀は、目の前のどのような敵をも切り裂き、彼の行くところ、戦乱の炎と血煙とに包まれる、という。
乱が彼を呼ぶのか。それとも、彼が厄災を運ぶのか。
ナバール。
『紅の剣士』、又は『死神』とも囁かれる、流れ者の傭兵。
その日、ナバールは不機嫌だった。常の如く、その表情には何も表れてはいなかったから、それと気付いた者など、いなかったであろうが。
彼が無造作に足を向けた方向から、それとは判らない程のさりげなさで、しかし確実に、人影が引いていく。少し離れて、それでも目端で彼の姿を追う人々の視線は歯牙にも掛けず、ナバールは歩みながら、考えた。
何故、こんなにも胸がムカムカするのだろう。
待遇自体は、盗賊団の用心棒の方がよかったが、軍にしてはここも、破格に扱いがいい。軍隊、殊に国家正規軍に於いて、傭兵などというものは、戦場では使い捨て同然にされるのがオチである、という現状を省みるならば。
ここもまた、軍隊である以上、軍律、というものも存在していたが、数々の戦場、そして 『軍』というものを見てきた彼の目には、信じ難いほどに緩やかに映る。そして何よりも、用心棒時代とは比べ物にならぬ、その戦闘量。今まで、雇い主の素性などには、さして関心を抱いた事などなかったが、彼の現在の雇い主、大陸の半分をその手中にしたドルーア帝国に追われる身であり、しかも、帝国にとってはかなりの重要人物であるらしい。彼が軍に加わってから、まだ日も浅いというのに、小競り合いレベルの戦闘であれば、もう幾度となく起きている。 つまり、そこそこの待遇、息の詰まらない程度の自由、そして彼を楽しませてくれる戦闘と、ナバールにとって、ここアリティア軍は願ったり適ったりな雇用先であった訳だ。
なのに、何故、こんなにも胸がムカムカするのか。『何故』か、は判らなかったが、『何』が、彼を不機嫌にさせるのか、それはよく判っていた。
「お早う、ナバール」
そして今日も、『原因』がナバールを物怖じしない瞳で見つめて、柔らかく笑い掛ける。
「今日は、天気がよくて、気持ちがいいね」
先日、雨の日には、「雨粒が綺麗で、静かないい日だね」などと言っていた。ナバールは、その日の天気などには全く興味がない。大地がぬかるむと、足場が不安定になり、戦闘中に不利になる。だから、雨が降るよりは、晴れていてくれた方が有り難い。その程度の認識しか持ち合わせていないのだ。
どうやら彼は、根本的にナバールとは感覚が違うようだ。ナバールと同感覚を持つ人間など、そうはいないであろうが、目の前の人物にもまた、世間一般の常識から見て、稀有な感覚の持ち主であるように思える。
ナバールの最も苦手とする人間であり、できるなら顔を合わせたくないと、そう思っている筈なのに、何故こう、ばったりと出会ってしまうのだろう。いつの間にか、本陣に程近いところを歩いていた自分に舌打ちする。
彼の現在の雇い主。小国アリティアの王太子、マルス。
尤も、本人の弁に因ると、『元』王太子なのだそうだが。…しかし、変わった少年だと思う。如何に故国を滅ぼされたとはいえ、こんなに気安げに傭兵に声を掛ける王族など、あまりいない。いや、傭兵だけではない。自国の貴族階級に属する騎士達と盗賊に対する態度すら、全く変わらないのだ。他国に在ってさえ、王族など、人を人とも思わぬ輩であるのが普通であるのに、三貴王国の『元』王太子ともあろう者が。
興味の有無とは全く別に、己の剣を好条件で貸し付ける事を生業とする傭兵として、ナバールも『三貴王国』に対する多少の知識は持っている。
アカネイア、グルニア、そして、アリティア。
百年前に起こったとされるドルーア戦役の三英雄を、建国、あるいは中興の祖とするこの三つの王国は、『三貴王国』と呼ばれ、他国とははっきり一線を画する存在となっている。彼等自身、強い自負心を持ち、異国人を排斥する風潮もある。要するに、気位が高いのだ、とナバールは皮肉げに思う。特にアリティアは、国力自体は小かったが、『光の公主』という尊称さえ持つ当代一の英雄の国である。そのような国の王太子が、このような人物であろうとは、思いもよらなかった。
おとなしげな、線の細い風貌、ふんわりした笑顔、ナバールには理解し難い、ぷよぷよとした物言いと、御しやすい旗印以外の何物にも見えなかったが、しかし、数度の戦闘で、彼が単なる飾り物の大将ではない事もまた、判ってきていた。
軍の布陣、戦略眼、戦闘中の用兵ぶりも、周囲の助けはあるにせよ、なかなかのもの。もう少し経験を積めば、『名将』と呼ばれる部類の司令にだってなれるだろう。そして、ごく稀にその瞳を過ぎる影。緩やかな笑顔の下で、一体、何を考えているのか。
本心が読めない。
『緩やかな笑顔』を『氷のような無表情』と言い換えれば、それはそのまま、ナバール自身に対してよく言われてきた事であったが、彼本人はそのようなものに取り合った事などなかった。興味がなかったから。なのに、目の前の少年に対するこの思いは、何なのだろう。
彼の心を知りたい、と、そう思っているとでも?この自分が?
「どうかした?ナバール」
「…何が」
己の無反応に対する問いではない。ナバールがマルスへ言葉を返さない、など、よくある事だったから。…赤毛の宮廷騎士は、そんな彼に対して、「無礼だ」とよく怒っているが。
「何だか、不機嫌そうな顔をしているから」
さらりと口にされたマルスの言葉に対して生み出された感情を、一体、どう表現すればよいのだろう。
ドロドロした何かがつかえているかのような、胸苦しさ。未だかつて、経験した事のない類いの感情。
息が詰まる。口中に苦いものが溢れる。こんな感情は、知らない。
元々、喜怒哀楽に薄い彼の心を、こんなにも簡単に動かしてしまう、己よりもかなり年下であろう少年に、何だかひどく腹が立つ。憎しみめいた思いすら、揺らめき立つ程に。
ナバールは、無言でマルスに背を向けると、足早に元来た道を歩み出す。マルスの問うような声を背中に感じたが、振り返りもせず、その場を去った。
今まで、他者に心を動かした事のない人間には、己の感情の正体が判らない。
そして、ナバールはますます不機嫌になった。
END・
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