騎士の誓い


我が肉 我が血 我が魂こそ 我が剣
剣の主となるに異存なくんば
我が剣を受け賜え



その瞬間、彼の肩が小さく揺れるのが判った。
久しぶりに見た彼の背中は、少し小さくなったような気がする。元々、彼等4人の騎士の中でも、線の細く見える方だったが。
ほんの一瞬、胸を突いた哀しみは、しかし、すぐに怒りへと取って代わる。ほんの先程まで彼を支配し、そして今も彼を捕らえて離さない憤怒。
ウルフは、目の前にある彼の背中を睨み据えた。
「どういう事だよ」
再び繰り返された言葉は、駆け通しに駆けた直後の押さえきれない息切れを滲ませて、弾んだ。
あの戦いが終わって後、彼は、今までの仲間達と決して交わろうとしなかった。主君の死を悼む苦しさも、悲しみも、全く同じであるはずなのに。
それでも、そっとしておいてやろうと思っていた。ほんのしばらくの間だと思ったから。彼にも、心の整理をつける時間は必要で、落ち着けば、戻ってくるのだと思っていたから。
「…お前、騎士団を除隊するって、どういう事だよ」
元来、ウルフは感情的になりやすい。つい先程、聞いたばかりの情報は、そんな彼の頭に血を上らせて、冷静な思考能力を奪うには充分だった。ほんの少し前まではここにいた、と言われて、何も考えぬまま、小高い丘に作られた墓所へとただ、走った。馬に乗るという考えすらも、思い浮かばなかった。だけど、彼がそこにいるだろう事は、疑いもしなかった。だから、『あの人』の墓所の前に佇む彼が目に飛び込んできても、驚きなど少しも感じなかった。
「返事しろよ。こっちを向いて、俺を見ろよ、ロシェ!」
『あの人』も、彼等仲間達も捨てるのか、という、沸騰寸前の怒り。
何かの間違いだと言ってほしい、という、一縷の望み。
そんなウルフの心情など歯牙にも掛けぬかのように、かの情報の真偽の程は、ロシェの物言わぬ背中が語っていた。



「俺は認めないぞ。お前が、狼騎士団を辞めるなんて。近衛の中でも、特に『あの人』のお気に入りだったお前が辞めるなんて、そんなの、『あの人』への裏切りじゃないのかよ!」
ウルフの激越な口調にも、ロシェの無表情な横顔は少しも揺るぎはしなかった。
主君の死以来、ロシェの表情はほとんど動かず、その口からは必要最低限の言葉しか発せられない。
「…ちゃんとメシ食ってんのかよ、そんなに痩せちまって」
怒りは、長続きしなかった。例えウルフが殴りかかっても、彼は避けもせず、それを甘受するだろうと判っていたせいかもしれない。
それは、ウルフの問いへの答えだったのか、それとも彼の気遣いそのものへのものだったのか、ロシェは小さく数度、首を横に振った。
彼から引き出せた挙動は、それだけだった。その後はまた、彼の顔はまっすぐ、小さな石碑へと向けられた。そして今、ようやっと追いついてきた仲間達が目にしたのは、彫像のように立ち尽くす彼の姿。ウルフがこの場にやってきた時、目にしたのと全く同じ姿。
こんなに小さな石の下に、彼等の主君は眠っている。オレルアンの王弟、聖アカネイアの最後の国王。そして、大陸全土を巻き込む戦乱の端緒を開いた、独裁者。
彼等の元へと遺体を返すという事が、どんなに大変だったか、ウルフにだって判った。
戦勝国であるアリティアの王子は、未だ国王位についていないとはいえ、彼が実質的に国の施政者であり、既に『王』である事を疑う者は誰もいない。そんな彼が、先の大戦のよしみ、などという甘いつてに左右されて行動する訳にはいかないというのも、判ってはいたのだ。それ程に、彼等の主君の犯した『罪』は重かった。
それでも、アリティアの王子は、彼にできる限りの誠意をもって、動いてくれたのだと思う。気の遠くなるような長い戦後処理の果てに王子から持ち出された、「アカネイア聖王家の墓所ではなく、彼の生まれ故郷オレルアンに眠らせてやってほしい」との申し出は、彼等騎士達にとっては、涙が出るほどに嬉しいものだった。
例えそれが、聖アカネイア側からの「反逆者を聖王家の墓所に入れる事などできない」という言い分から出たものであったとしても。
しかし、同じような理由で、オレルアン王家の墓所にも入れなかった。何よりも、彼等の国王がそれを拒否した。
そして結局、『あの人』は今、草原が見渡せる小高い丘に眠っている。彼の上にあるのは、墓碑銘もない、小さな石がひとつ。
ウルフでも抱えて持ち上げてしまえそうな石。それだけが、『あの人』が確かに存在した事を示す縁(よすが)
草原の風が、彼等の間を通り抜け、駆け去っていく。草原だけは、今も昔も変わらない。もう『あの人』がここにいない、なんて信じられない程に。今でも、振り向けば『あの人』が立っている。そんな気さえする。愛馬に跨って、豪放な声で笑いながら、言う。『遅いぞ、ウルフ。そんな事で俺の騎士を名乗れるか』…
「……僕は、『あの人』を裏切った…」
吐息混じりの呟きは、その風向きによっては、ウルフの耳には届かなかったろう。
「騎士の誓いを破って、『あの人』だけに捧げた剣を、『あの人』の胸へと埋めた。…僕は、もう騎士じゃない。騎士になんか、なれない」
彼の瞳は動かない。淡々とした物言いは、それでも彼の心に、未だ癒えぬ傷跡が大きく口を開けているのを示している。哀しみが深すぎると、泣く事すらできなくなるのだと、ウルフは彼を見ていて、初めて知った。
「草原に還りましょう」
あの時。そう言って、彼ははんなりと微笑った。
「石造りの街になんか、初めから来ちゃいけなかったんですよ。息が詰まるって、ガラじゃないって、ご自分でもずっとそうおっしゃってたじゃないですか。草原に帰れば、楽に息ができるようになります。そうしたら、ゆっくりできますよ…」
『あの人』を前にした彼の綺麗な微笑みに、ウルフの中にあった、ロシェに対する怒りは消えた。ロシェは、『あの人』を裏切ったりしていない。ただ、ウルフ達とは忠誠の尽くし方が違っていただけだ。ロシェの方が正しかったのかもしれない、とさえ思えて、だったら、自分の方が間違っていたのか、と思って、そう思う事があまりにも苦しかったから、ロシェに当たり散らしただけだ。
温厚なロシェに、ウルフが八つ当たりをする事など珍しくもない事だったから。
「お前のせいだ」と、『あの人』を失った怒りと哀しみをぶつけても、彼はいつものように苦笑して受け止めてくれるはずだったから。
彼がそんなにも傷ついているなんて、思わなかったから。
「王は、『あの人』を憎まれていた」
ぽつりぽつりと彼は呟く。答えなど期待していないという事のよく判る、独白。今、ここにウルフがいるのだという事も、理解しているのだろうか、ウルフには判らない。
危うい均衡を維持していた精神が、大きく揺らぎかけている事を示す、どこも見つめていない瞳。
「自分にはない、『あの人』の、人を惹きつける魅力を憎んでいたんだ、王は」
決して忘れないと思う。忘れられないと思う。「アリティアに協力して、聖アカネイアを討て」と命じられて、深く頭を垂れて、王が退出するのを見送った時、感情に駆られて顔を上げかけてしまった彼の目端に映った王の、満足げな微笑みを。
それは、私怨だったのではないだろうか。本当は、『あの人』は全くの常態で、ロシェがきちんと話せばいつものようにぶっすりとむくれて、または苦笑して、それとも怒りに駆られて、それでも最後には判ってくれたのではないだろうか。
「…ああ、そうか。全部、嘘だったんだ。『あの人』が狂気に陥った、なんて、あるはずがなかったんだ…」
『あの人』が狂っていた、などと、真実ではなかったのだ。何故、あの時、それを信じてしまったのだろう。『あの人』にだけ捧げた剣だったのに。何故、あの時、死んでしまわなかったのだろう。『あの人』の後を追うのが、当然だったのに。
戦慄く手が、当てられた頬に爪を立てる。掻き毟りかけたそれを、痛いほどに握りしめ、引き離す存在があった。
「『あの人』は、最後まで、戻られなかった。…本当に、狂ってしまっていた」
その瞬間、背後から上がりかけた反論は、腕の一降りで切って捨てて、ウルフは冷徹に言の葉を紡ぐ。ロシェの瞳が、徐々に焦点を取り戻していくのを目の当たりにしながら、更に続ける。
「だから、お前は正しい事をした。『あの人』は、討たれなくてはならなかった」
目の前に在るのは、彼の友であり、仲間であった者。そして、今現在も友であり、仲間である者。
ロシェの瞳は今や、はっきりとウルフを認識している。
「一番の気に入りだったお前が、『あの人』を諭す道を進んだ事を、きっと『あの人』は受け入れて下さる。喜んで下さるに決まってる」
ウルフの目の前で、ロシェの顔がゆっくりと引き歪んでいった。その頬を一粒の涙が伝って落ちるのと、ウルフがロシェの頭を己の胸元へと引き寄せるのとは、ほぼ同時の事だった。
ロシェは、拒絶しなかった。ウルフの胸に顔を埋めたまま、涙を絶え間なく流し続けた。今まで塞き止めていた分を全て、流そうとしているとでもいった風だった。
『あの人』は、不意に正気を取り戻す事があった。その時は、完全な常態で、昔通りの彼等の愛する主君そのままだった。だから、狂気に陥った時はただ、発作を起こしているのだと、『あの人』は病気なのだと、そのうち、元に戻るのだと、そんな言い訳を半ば無理矢理呑み込んで、彼等はずっと『あの人』に付き従ってきたのだ。
だけど、そんな真実が何になるというのだろう。ウルフは、彼の頭を抱えたまま、背後の仲間達を振り返る。…今までの仲間達を、と言うべきか。彼等は、竦んだようにウルフを見つめている。
ウルフの口角が、微笑の形に引き上げられる。
真実と忠節とに立てた誓願も地に堕ちた。
己も、既に騎士ではない。
全てを偽りに塗り固めて、真実を覆い隠して、それでも彼を救いたかった。
唯一絶対と誓った主君も、騎士の誇りも捨て去って、それでも、護りたいものがあった。


『馬鹿か、お前は。忠節なんてものは、人に、ではなく、自分の心に立てるものだ。そんな事も知らんのか』


風に乗って届いたのは、都合のいい幻聴だろうか。
『あの人』が穏やかに微笑って、見つめている。そんな気がした。



END






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