いつか


『また、いつか』
それは、約束された永遠の明日



「この傷…」
伸ばされた少女の指が、彼の頬をそっとなぞる。
「なくならないのね…。ずっと昔っから」
白く浮いた傷は、随分と薄くなってはいた。しかし、かなり深い傷だったのだろう事は、容易に想像がつく。これが、なまくらな刃物での傷であったなら、大きな引き攣れを残した事だろう。手入れのいいナイフのようなもので切られたものらしく、それが表情を作るのに大きな影響を与えていないのを、幸いと称すべきか。
少女は眉根を少し寄せた。その表情は、痛ましそう、とも、少し眩しそう、とも取れる。
「痛かった?」
剣士にとって、顔につけられた傷、というのは、また普通の傷とは別の意味を持つ。それは、その傷の深さ以上に、彼らの誇りを傷つける。
静かに首を横に振り、彼女を慰撫する言葉を発しかけたオグマの唇に、少女はその指をあてがった。
「ちゃんと言ってくれなくちゃ駄目」
怒ったように唇を尖らせて、それでもその瞳は、悪戯っぽくきらきらと輝かせて、彼女は続ける。
「オグマは私のこと、何でも知ってるのに、私はオグマのこと、知らないことばっかり。そんなの不公平だもの」
こんな時、オグマはいつも、彼女に対して、何と言っていいのか、わからない。日々、戦いに明け暮れた剣闘士時代だって、こんな風に思ったことは、一度だってなかった。
「何でも話して。私の知らないオグマのこと。全部知りたいの。オグマのこと」
決して、勝てない、などと思うようなことは。
「…姫と出会う前のことなど、何の意味もない」
なかなか、口は思ったようには動かない。結果、その言葉はぽつぽつと、呟くようだった。そもそも、任務を離れたオグマは口下手で、殊に女性への応対となると、その口は常の倍も重くなった。
少女が『女性』ではなく、『子供』であった頃には、こんなことはなかったのに。
しかし、それでも、現在の状況を厭うている訳では、当然ない。少女が彼に笑いかける。そっと、その頬に触れる。そんな何気ない動作のひとつひとつに湧き起こる、身の内のむずつくような感覚は、すぐに暖かな幸福感に取って代わる。
ひどく甘やかな戸惑い。
「姫と出会うまで、俺は、本当の意味で生きていなかった。だから、姫の知っている俺が、俺の全部だ」
鞭打たれる奴隷の前に飛び出してきた幼女。泣きじゃくりながら、それでも彼にしがみついて離れなかった。汗と血と埃とにまみれた、薄汚れた奴隷に。
何が起こったのかわからず、何故、背を爆ぜ割る鞭が届かなくなったのか知らず、ただ呆然と、目の前の子供を見つめた。子供は、涙を一杯にためた大きな瞳で、彼を見上げた。そして、震える唇がそっと動いた。
『痛い?』と。
実際、それはもう、彼の痛覚の限界をとうに超えていた。気を失わなかったのは、背を打つ鞭の衝撃のため、倒れなかったのは、彼の腕を高く掲げさせる形で据えられた鎖に、半ば吊られていたからだ。その鞭も止まったため、幾度も意識が遠のいた。しかし、それでも。
『…痛くないよ…』
目の前の幼子のために、そっと微笑みさえ、した。
子供はほっとしたように彼に微笑み返した。彼の言葉の全てを信じた子供。なんと純粋な魂。
その瞬間、この幼子を護りたいと、護らなくてはならないと思った。
この子供が傷つかないように、少女がいつも笑っていられるように。彼女が、幸せでいられるように。
その時から、彼の世界は変わった。
彼女と出会って、それから、彼の人生は始まったのだ。
「……何だか、誤魔化されたような気がするわ…」
ちょっとむくれた表情を裏切る紅潮した頬は、少女の内心を如実に物語る。
それを受けて浮かべられたオグマの微笑。目尻に入る笑いじわが優しげ。
彼女も今ではわかっている。オグマはとっても優しくて、誰に対しても親切だったけれど、こんな風に微笑いかけてくれるのは、彼女に対してだけなのだと。もうずっと昔から、そうだったのだと。
オグマが傍にいる。そして、自分に、自分だけに笑いかける。
己だけに与えられる特権。それに比するものなど、決してありはしない。どんな地位も名誉も富さえも。
だから、己はこの世で最も恵まれた、幸福な人間なのだと。
今では、彼女は知っている。
「どうしても知りたいと言うのなら、またいつか話そう…」
これ以上、何を望むというのだろう。オグマはずっと傍にいるのだ。
少女は、微笑みの形に刻んだ唇を、そっと彼の耳元へと寄せる。
「『いつか』話して。約束よ」
その言葉に隠された言外の意味を読み取って、オグマは淡く微笑んだ。
「ああ、いつか…」
ベッドに横たえた彼女の身を、大事に上掛けに包み込んで。
「お休み、姫」
そして、上掛け越しに彼女の下腹の辺りに、そっと唇を寄せる。
「…お休み、坊や」
少女が自信たっぷりに断言した。「絶対、男の子よ」と。
誇らかに笑んだ彼女が、彼に息子を与えてくれるのは、半年ほど後の事。
この世に生まれ出る前から存在する、母と子との絆、というものに、いたく感銘を受けたオグマに対して、

「だって、生まれたのが女の子だったら、オグマのこと、取られちゃうかもしれないじゃない」

少女が己の発言の真相を吐露したのは、更にずっと未来になってから。



  いつか話そう。

  今日も、明日も、明後日も
  今はもう、ずっと傍にいる貴方に。



END






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