ただ君を待つ





少年の垂らした釣り糸の先には、何もついてはいない。
水面にすら達さない糸の先には、何もない。
少年には、時間があるから。無限に続くその流れの中で、なにもしない事だけが、少年に課せられた、または少年が己に課した義務だったから。
少年はただ、釣り糸を垂れる。
この世界の何ものにも影響を及ぼさぬまま、ただ待っている。
何を?
終わりを告げる、彼の天使を。




少年は、笑わない。何よりもよく笑う、朗らかな子供だったのに。今では、泣く事もない。己に理不尽な運命を運んできたものに対しての怒りすらも。
あの日、あの時を最後に、少年の感情は、凍結してしまったかのようだった。




少年は、「ついてくるな」と言った。
動かぬ瞳で、真っ直ぐに見つめて。
もう、ついてこなくてもいい、とそう言ったのだ。
「何故ですか、坊ちゃん。グレミオを置いて、ひとりで何処へ行くっていうんです」
ほんの赤子だった頃から、ずっと一緒だった。この少年の成長こそが、わたしの人生そのものだった。
そして、この少年にとってもそうである事を、確かにわたしは知っていた。
今更、何処へ行けるというのか。
今更、何処へ行くというのか。わたしを置いて。
「…お前、僕がどんな思いをしたのかなんて、ちっとも考えてないんだろう」
この言葉に、わたしは心中で首を傾げた。
それは、わたしの科白ではないのか。
理不尽にもわたしを捨てて、ひとりで行こうとしているのは、少年の方ではないか。
しかし、それも少年の囁きが耳に届くまでだった。胸奥から絞り出すように、少年は、「お前が死んだ時…」と、呟いた。
わたしは、一度死んだ。
そうでなければ、この少年を護れない、と思ったから。ただ、少年を護る事ができれば、それでわたしは本望だったのだ。その後の事など、考えもしなかった。少年が、こんなにも傷つくなんて、思いもしなかったのだ。
「…お前が死んだ時、僕は本当に、何をする気にもなれなかったよ。もう、どこにもお前はいないのに、どうして、僕は生きてるんだろうって。本当は、僕ももう、とうに死んでしまっていて、お前と一緒にあの時、死んでて、自分でそれに気付いていないだけなんじゃないか、なんて、考えた。…本当に、本気でさ」
少年が、自嘲的に笑う。今まで、一度も見た事のない、その表情。
「…ただ、僕には義務があったから。たくさんの人がいて、みんなが僕のためについてきてて、だから生きていなくちゃいけなくて、…でも、もうそんな事どうでもよかった。…もう、本当にどうでもよかったんだ。……お前の事以外は」
ぎゅうぎゅうと、絞り上げるようにして、彼の口から発せられる言葉が、こんなにも痛いのは、きっと、全てが真実だから。
それでも、どうしたらよかったろう。どうすればよかったのだろう。
そんな血を吐くような少年の告白に、彼をこんなにも傷つけたという事実に胸を掻きむしられるような思いを抱きながらも、心の奥底で狂喜するこの浅ましさ。
決して、告げる事のできない、わたしの想い。
「だから、お前が還ってきた時、本当に怖かった」
「…わたしが、死人還りだから?」
わたしの復活を、不吉だと、気味が悪いと、そう思っている人がいる事も知っていた。わたしは、この少年の元に戻ってきたかった、ただそれだけだったから、他人がどのように思おうと、全く気にはしなかったのだけれど。
少年は、ふるふると首を横に振る。まるで、悪い事をして、わたしに怒られて、そして、小さな声で「ごめんなさい」と呟く寸前の、あの幼子だった頃のように。
「<魂喰らい>は、僕の大切な人を喰らう。お前は、きっとまた、食われてしまう…。そうしたら、どうしたらいいんだろう…、僕はもう、誰も失いたくなんかない………」
俯いた顔を逸らした少年の表情は、見えない。だけど、実際には発せられなかった、続く言葉は、わたしの耳には確かに届いていた。

どうせ失うんだったら、始めから、いらない。
だから、お前はもう、僕の傍にいなくてもいい。

本当は、そんな事は、求めてはいない。わたしも、少年も。
わたしは、それを知っている。
正確には、少年は確かに、わたしと離れる事を求めてはいた。しかし、より以上の感情でもって、離れたくないと欲している。
理屈ではない。ただ、わたしには、判るのだ。
少年が己のものとした、呪いの紋章と同化した、わたしの魂がそう告げる。
ねぇ、坊ちゃん。
わたし達は、離れてはいけないんですよ。
「…坊ちゃん。私は、決して、食われたりしません。ずっと、坊ちゃんの傍にいますから」
「何で、そんな事言えるんだ…」
恨めしそうに上げた顔は、拗ねているように見える。涙目になっているのを隠そうとして、しきりに鼻の頭を擦って。
昔から変わらぬ、少年の表情。
「グレミオが、坊ちゃんとの約束を破った事がありますか?」
「………」
「大丈夫ですよ。絶対、お傍から離れませんから」
「……………」
もう、昔のように抱え上げる事はできない少年の体。
引き寄せ、抱きしめても、彼は拒絶しようとはしなかった。
わたしの腕の中、ただ細かく震えていたその肩が、何よりも愛おしく、哀しかった。




<魂喰らい>は、宿主の心を汲み取って、宿主にとって、大切な相手を好んで喰らう。
故に、<魂喰らい>は呪われた紋章、とそう云われてきた。<魂喰らい>の宿主は、己の最も大切な者を生け贄にして、世界を支配すらできる、まさに神にも等しい力を得るのだと。
だけど、それは少し、違う。
一度、<魂喰らい>と同化して、なおかつ、現世へと生還したわたしだけが、知っている事実。
<魂喰らい>との同化は、わたしにとって、何よりも自然な事だった、といったら、驚かれるだろうか。
同化。
それは、その状況を正しく説明する言葉である。
体も心も溶けていく。しかし、それは無となる、という意味には能わない。
<魂喰らい>の本質。それは、己の宿主に対する、絶対の愛情。
ただ、彼の役に立ちたい、と、それのみを願う。それが何よりも強い欲求であり、世界最大級の呪詛でもあった。

 コワガラナイ デ
 ドウカ ワタシノコトヲ スキニナッテ

まるで、子供が母親を慕うような、純粋な好意。その愛情。

 アノコ ノ スキナ アイテ ニ ナレバ アノコ ハ ワタシ ノ コトヲ スキニ ナッテ クレル?

<魂喰らい>は触手を伸ばす。そろり、そろりと。そして、入念に吟味する。これは、本当にあの子の大切なもの?
そうでなくては、全く意味がないのだから。

 コレ ハ アノコ ノ スキナモノ
 コレ ハ スデニ ワタシ ソノモノ
 ダカラ ワタシ ハ アノコ ノ スキナモノ

わたしはあなた。あなたはわたし。
身も心も溶け合って。
そして、同化は成るのだ。




幸せだ、とそう言ったら、少年はどんな顔をするだろう。

少年は、もう誰も好きにならない。誰も、大切な人を作らない。
もう誰も、<魂喰らい>の生け贄にさせたくはないから。

もう、あの子は、「わたし」しか愛さない。

それを喜んだのは、<魂喰らい>だろうか。それとも、わたし自身だろうか。

終末の時まで、「わたし」達は一緒にいるのだ。
この仄暗い、世界の果てで。
ただ、ふたりきり。




やがて、彼は<魂喰らい>を、「わたし」を抱いて、共に闇に沈むだろう。
裁きの天使が顕れて、私達を断罪する。
「わたし」達は、その時を待っている。
彼が、本当の意味で、「わたし」だけのものとなる日を。




ただ、待っている。



END



当時、B/Mとシーフォート別館サイトのカウンタ3000HITを踏まれた
にゃんこさんのリクエストを遂行するために、再度、足掻いてみた跡。
…だけど、グレぼんに世間一般の幸せってないよね?<言い切り








 ◆◆ INDEX〜NEWTON