夢見る魚





マッハにすら届かない速度での旅は、ある意味、この上ない贅沢である。
重力の楔に囚われ、地表を這い進む哀れな乗り物。
わたしは、周囲からの視線を避けるように、顔を外の景色へと向けた。
一体、誰が一介の宇宙軍宙尉の動向など、気に留めるというのだろう。その上、現在のわたしは士官としての軍服さえ身につけてはいない。どこから見ても、民間人の青年だろう。
長い間、ひどく長い間、地上から離れていた。さして社交的ではないわたしが、数少ない友人から縁遠くなるのにも、十分すぎるほどの時間が流れた。昔の友人の中にさえ、今のわたしから、昔のやせっぽちの少年を思い出す者はいないだろう。この地上でのわたしの行動など、せいぜい、その物慣れなさが悪目立ちする程度のものだ。
自意識過剰だと、自分で自分の行動を笑う。
列車の窓からは、昔ながらの田園風景がひどくゆっくりと流れていく。今後、幾百年の時が過ぎようとも、この景色が変わることなどありはしない。そのようにすら思える、懐かしい故郷。
故郷の家では、家族がわたしの帰りを待っている。生憎、時間の都合で前もって連絡を入れる事ができなかったが、戻れば、暖かな微笑で迎えてくれるはずだ。
ふと。わたしは、違和感を覚える。
家族が帰りを待っている。
当然である。
家族。
厳格な父親は、わたしに微笑みかけてくれた事も、抱きしめてくれた事もない。しかし、父がわたしを愛してくれている事、それを疑った事は決してなかった。父と別れて、宇宙軍士官学校の門をくぐる時も、わたしの背をそっと押した父の大きな手は、優しく、愛情に満ちていた…。


首に掛けられた鎖。
決して、振り返らない背中。
目の前で降ろされた鉄格子。



わたしは、小さく首を傾げた。
暖かな妻は、父と共に暮らしている。彼女のあの微笑みの前には、例え、父だっていつまでも強情ばかりではいられない。彼女は、…そう、彼女は、幸せに暮らしている。何一つ、不自由もなく。


泣き腫らした瞳。
彼を弾劾する唇。
そして、だらりと垂れ下がるブランケット。
たったひとり、膝を抱えてうずくまる女。



瞳を幾度か、瞬く。
そして、子供。
子供。
そう。息子だ、もちろん。息子は、もう随分と大きくなった事だろう。最後に会ったのは、いつだったろう。まだ、小さな赤ん坊だった。もう、しゃべるようになったか?それは、そうだろう。歩けるようには?無論だった。息子は、学校に通っているだろうか。それとも、わたし自身がそうであったように、父…息子にとっては祖父…の手ほどきを受けての学習に励んでいるのか。


絶対零度の虚空を漂う、永遠の赤子。
あの子は、寒がって泣いているわ…


先程から、どうにもおかしい。妄想じみた切れ切れのヴィジョンは、直接、脳に映し込まれていくかのようだ。
わたしは、溜め息をついて、シートに凭れた。おそらく、疲れているのだろう。久しぶりの地上の重力が、思ったよりも体に堪えているのかもしれない。
不可思議に規則的な揺れが、脳裏に響く。宇宙空間では決してあり得ないその運動は、ひどく珍しく、また、心地よい。
そっと、目を閉じる。眠りは、速やかに訪れた。





一際大きく体を揺すられて、急速に意識が浮上した。列車は、ステーションに停車したらしい。周囲で人々が乗り降りする、せわしない気配がする。わたしは軽く頭を振った。何だか、重くるしかった。
「よく眠っていたな」
目の前からの声に、わたしは弾かれたように顔を上げた。彼の存在を、すっかり忘れていた。なんて事だ。
「申し訳ありません、マルストロム宙尉」
「ハーヴ、だ。…ここは宇宙艦内じゃないし、今の俺は君の上官じゃない」
「はい、あの、…ハーヴ」
しどろもどろのわたしの言葉に、彼は目端だけで微笑んだ。
「わたしは、友人として、君の父上に紹介してもらえるんだろう?ニッキー」
「それを許していただけるなら。…ハーヴ」
彼の優しい手が、わたしの髪をそっと撫でた。それだけで、わたしもひどく優しい気持ちになれる。彼は、わたしにとっては掛け替えのない友人だった。


すっかり筋張ってしまったその手は、燃えるように熱かった。
わたしの息子。誰よりも、何よりも愛していたよ…


一瞬のフラッシュ・バック。取り留めもない連鎖的なヴィジョン。それを振り払うように、わたしは正面の座席に座った彼に、改めて向き直った。
「父と、親友にも紹介します。是非、会っていただきたいんです…」
わたしの意識は、そこで飛んだ。懐かしい思い出の故郷へと。





幼い日、父親と二人で暮らした家は、ぽつんとそこにあった。
わたしは、家へと上がる坂道を途中から駆けだした。段々、近くなる小さな家。傾いた柵と、立て付けの悪い木戸。最後の記憶のままの姿だ。全く、変わっていない。待ちきれない思いで、家に飛び込む。しかし、そこには誰もいなかった。
拍子抜けしたような思いで、わたしは周囲を見回した。
そうだ。昼間の作業のため、父は外に出ているのだ。当然じゃないか。
まだ、昼夜の時間帯に対する感覚が狂ったままのようだ。わたしは、手にしていた荷物を床に置くと、台所の椅子に腰を下ろした。相変わらず、ぐらぐらと頼りない。
父が戻ってくるまで、まだ当分掛かるだろう。わたしは、思いを巡らせた。父が、どこにいるのかは分からない。ならば、久しぶりに友人に会いに行ってみたら、どうだろう?
その思いつきは、甘くわたしの心を騒がせた。
わたしのたったひとりの親友。最後に共に行ったフットボールの試合で暴動に巻き込まれて、彼は大怪我を負ったのだ。しかし、その後、わたしはすぐに士官学校の入学のため、月に向かわねばならず、親友の元に見舞いに行く事もできなかった。彼は、怒っているだろうか?いや。そうではない。学校でわたしは、彼からの手紙を受け取った。その手紙はひどくわたしを慰めてくれたし、彼特有の求愛すれすれの友情表現すらもが、涙が出るほど嬉しかった。それがなければ、学校での先輩の苛めに耐え切れたかどうかも危ういものだったではないか。
彼に、再び会える。あまりにも長い間、会っていない親友。彼はどんな顔をしていただろう。
彼とは一枚のフォトチップさえ撮った事がなかった事に、わたしは士官学校に入るまで気づかなかった。わたしは、目の前に現れた青年を、在りし日の親友と見分ける事ができるだろうか?
金の巻き毛。明るい色の瞳。それはよく、覚えている。しかし、彼の顔は?
最後に見た彼の顔。毛布の下の彼の顔。違う。あれは、彼じゃない。だって、顔が違うじゃないか。彼の顔じゃないじゃないか。あれは、既に顔ですらないじゃないか。顔。元は顔であったもの。潰され、血にまみれ、誰とも判別の付かなくなった、肉の塊。
あれは、彼じゃない。あれは、彼じゃない。あれは彼じゃない。彼じゃない。あれは彼じゃない。彼じゃない。彼じゃない。彼じゃない。彼じゃないあれはあれはあれはあれはあれはあれはあれは





いつの間に、眠っていたのだろう。ひどく嫌な夢を見ていたような気がする。
「大丈夫ですか?サー」
心配そうな声が降る。あの声は…。
「アレクセイか?」
「イエス、サー」
わたしは、ぐったりと艦長席に凭れ掛かった。胸は、どっさりと砂袋でも詰め込んだかのように重い。くそ、このいまいましい肺め。わたしは、今にも口を突いて出そうになった涜神の言葉を何とか飲み下した。神よ、お許し下さい。
「俺は、どれくらいの間、意識を失っていた?」
「ほんの数秒間です。…あの、サー。もう、お休みになった方がよろしいのではないでしょうか。まだ、お体も本調子ではありませんから」
「聞かれたことにだけ、答えればいい」
「イエス、サー。ソリー、サー」
冷たく言い放ってから、わたしはひどく後悔した。アレクセイは、わたしの友人ではなかったか。
「いや。すまない、アレクセイ。こんな言い方をするつもりは、なかったんだ。ただ、俺は…、くそっ」
わたしは、頭に手を差し入れて、掻き回した。途端に、髪はぐちゃぐちゃになる。アレクセイは、目を見張ったようだった。
「すまない。やはり、休ませてもらった方がいいようだ。艦橋の当直は……に、代わってもらって」
「は?誰ですか?」
「副官の…」
誰だった?
しかし、わたしの一瞬の逡巡は、背後から新たに現れた人物が解決してくれた。
「タマロフ宙尉。艦長に代わって、わたしが当直に立つ。…だが、しばらく待っていてくれ。艦長を部屋までお連れするから」
「子供じゃないぞ、ヴァクス。部屋へくらい、ひとりで戻れる」
我ながら、すねた口調だった。艦長として相応しいとは、とても思われない。今日のわたしは、本当におかしい。それでも、足はすっかり萎えていて、どうにも体を支えきれない。ヴァクスは、周囲に気づかれない程度にさりげなく、わたしを自分の肩に縋らせて、ゆっくりと立ち上がらせた。
「ありがとう、ヴァクス」
彼にだけ、聞こえるくらいの小さな声で囁く。艦長が言うべき言葉ではないと同時に、胸が痛くて、声を発するのは辛かったのだ。ああ、息が苦しい。わたしは、一体どこでこんな怪我を負ったのだったろう?
意識は、闇の中へと消えた。





目を開けると、染み一つない白い天井があった。眩しくて、顔をしかめる。すると、すぐに頭上に影が射して、目に痛い白から逃れられたわたしは、ほっと息をついた。
「わたしが解りますか?サー」
「ああ。当然だろう、トリヴァー」
声は喉の奥に詰まって、掠れた。しかし、彼は見るからに安堵した表情を浮かべて、椅子に体を投げ出した。
途端に、また目が痛くなる。トリヴァーはすぐにそれに気づいたらしく、周囲の照明を暗めに設定し直した。それで、ようやっと普通に目を開けられるようになった。
周囲を注意深く、見渡す。全て白一色で塗り込められた室内に、特有のオキシフル臭が漂っている。全く見覚えはなかったが、どうにも見間違いようのない場所だ。
ここは、明らかに病室だった。わたしはベッドに身を横たえており、枕元に置かれた椅子に、トリヴァーは座っている。上着が少々、よれよれになっているところを見ると、どうやら、彼はずっとこの場に留まっていたらしい。つまりは、わたしが目を覚ますまでの間、という事だが。
「…で、どうして俺はこんなところにいるんだ?」
「覚えてないんですか?」
トリヴァーは、あからさまに呆れたような口調で言う。宙佐に対する礼儀というものを守れないのか。かっとなったが、生憎と体は自由に動かない。わたしの答えを待つ事なく、トリヴァーは続けた。
「新造艦就航式に出席されたのは、さすがに覚えているでしょう。テロに巻き込まれたんですよ。人権擁護団体や平和至上主義者は軍という存在自体を許し難いものとして捉えていますし、宇宙軍に振り分けられる予算に不満を持っている連中も多いですからね」
相変わらず、罰当たりな口をきく。わたしの不快感を、当然、彼は理解しているはずだが、それを改める事もまた、当然ない。肩を竦めて、更に言う。
「死者はなし。重軽傷者若干名。あなたは、重傷の部類に入りました。あなたが目覚めたと聞いたら、見舞客とホロジンの記者達は大挙して押し寄せてくるでしょう」
「止めてくれ、トリヴァー」
わたしの呻き声をどう取ったのか、トリヴァーはそのまま、口をつぐんでくれた。一瞬にして、わたしは、トリヴァーの語った式典での記憶を取り戻していた。そして、わたしが今まで見ていた夢も。
いきなりの爆風。世界を白く染めた閃光。そして、全身を襲った焼け付くような痛み。
「で。ご気分は如何です?」
「…最悪だ」
薬の副作用だろうか。視界はぐるぐると回っていたし、胸を突く吐き気は耐え難いほどだった。余程、強い鎮痛剤を使ったらしい。しかし、本当に辛かったのは、そんな身体的なことではなかった。あの取り留めのない夢の数々。あれも、薬の影響だったのだろうか。
どれだけ痛くても構わない。今後、二度とその薬を使わせないようにしなくては。
わたしは、さぞかし哀れな様相を呈していたのだろう。トリヴァーが、ほとんど優しげと言っていい様子で更に告げた。だが、その内容に、わたしは身を強張らせた。わたしはまるで、したたる毒を注入されて、体の麻痺した生け贄だった。
「あなたの執務室の見習生達の面倒は、キーン候補生が見ています。早く体を治して、自分の仕事を彼に押しつけている現状を改善するべきですね」
わたしの預かりものの見習生。そして、トマス・キーン候補生。
わたしの罪。わたしの中の悪の証明。わたしは彼等を騙して、艦に乗せ、無慈悲にも死地へと追いやった。
「何を言っているんだ、トリヴァー。彼等は、死んだ。…俺が殺したんだ。“魚”との戦いの中で、彼等を欺いて」
彼は、よく知っているはずだ。あの時、共にいた彼は、わたしの魂が地獄に堕ちた瞬間も、ちゃんと見ている。
それとも、まだ足りないのか。彼は、まだわたしを傷つけたいのか。
トリヴァーは、わたしが何を言っているのか理解できない、とでもいった風な顔を作った。そして、ぬけぬけとこう続けたのだ。
「あなたこそ、何を言ってるんです。それに“魚”?なんですか、それは」
その時、わたしの脳の一部は、凍り付いた。しかし、体中の血液は沸騰したかのようだった。
わたしは、『“魚”退治の漁師』として、分不相応な地位を与えられ、道化師じみた見せ物となったのではなかったか。それは、わたしの罪に対して与えられた罰でもあった。
“魚”さえ現れなければ、わたしが宙佐となる事も、士官学校校長という地位を得る事も決してなかった。だから、トリヴァーがわたしの副官としてつき、わたしが士官学校校長であるという事実は、そのまま、“魚”の存在を証明する事となる。
わたしは、トリヴァーの言葉のなかの欺瞞をはっきりと感じ取れるほどには冷静だった。そして、彼が決して嘘をついていない事、わたしを傷つけようという意図など、露ほども持ち合わせていない事を読み取れるほどにも。
これもまた、夢か。まだ、目覚めてはいないのか。まだ、わたしは苦しまなくてはならないのか。それもまた、わたしへの罰だというのか。
わたしは、不自由な体なりに、ベッドの中でできるだけ、後ずさった。目の前の、よく見知っているのに全く知らない男の存在が、恐ろしかった。そんなわたしの行動に、彼は無表情のままに、ベッド横に設置されたブザーを押した。誰かが走ってくる気配がする。喉元を迫り上がってくる圧迫感。膨れ上がる恐怖。
「もう、止めてくれ!俺を眠らせてくれ!!これ以上、苦しめるな!頼む、止めてくれ、頼む…」
腕に、小さな異物感。何か冷たいものが血管に注入されて、わたしの意識は白濁していった。





結論だけ言う。
次に目覚めた時に、また世界が変わっているという事はなかった。目の前で、何か見知らぬ者でも見るかのような視線を送るトリヴァーに、わたしはいくつかの調査命令を下した。彼は、わたしを狂ったものとでも思っただろう。しかし、その命令に異議を唱えることもなく、黙って部屋を出ていった。次にトリヴァーが部屋に入ってきた時に持ってきた報告内容にも、わたしは全く驚かなかった。
「フィリップ・タイア宙尉。軍司令室本部に所属」
「ヴァクス・ホルサー宙尉。現在、<ヴィクトリア>艦長として、ホープネーション星系を航天中」
そして、見習生とトマス・キーン候補生は、相変わらず、士官学校に学んでいる。
“魚”はいない。だから、“魚”による死者もまた存在しない。“魚”は、その存在自体が、ぬぐい去られたかのように消えていた。わたしの記憶以外からは。
なにかが狂っているのは確かだった。わたしが狂ったのか、それとも世界が狂ってしまったのか。
ほどなく退院したわたしは、半ば機械的に士官学校へと戻った。そこでは子供達が、わたしを出迎えてくれた。その中には、当然のようにトマス・キーン候補生の姿もあった。そして、日々の業務に戻る。退屈な、それでも充実した地上勤務。
わたしは、この世界で生きていくことにした。そうしてはならない理由は、何もなかった。
父は死んでしまったが、アマンダとネイサンは、カーディフの家で暮らしている。士官学校にいるよりも、ネートにはいい環境だと言うのだ。彼女の友人であるエディ・ボスとアニーが、近くに住むことになったから、寂しくはないと、手紙にはある。
士官学校には、たまに、古い友人が訪ねてきてくれる。わたしの記憶の中で、遠くに去っていった友人も。悲惨な最期を遂げた友人も。
先日は、マルストロム宙尉に会った。彼の死は、“魚”とは一切、関わりがなかったにも係わらず、である。
破綻しかかっているのは、この世界か、それともわたしの精神なのか。
緩やかな綻びを内包しつつも、日々は、穏やかに流れていく。
愛おしい日常にすがるようにして、今日もわたしは渋々と眠りにつく。
夜に目を瞑る事、そして朝、目を開ける事だけが、わたしは怖い。明日には、この世界は跡形もなくなっているかもしれない。
このような願いを持つという事それ自体、わたしに許されるべきことではないというのは、よく分かっています。しかし、それでも願わくば、神よ。
この世界が消えるより前に、わたしの命をお取り下さい。わたしは、もう真実(ゆめ)など見たくはないのです。




 そして、わたしは目を開く。



END



第4部に対する涙の抗議でございましたが
ビミョーに抗議になってないっぽいところが、なんとも言えず。
まぁ、こんな話ではありますが、
個人時には、最もシーがシーらしく書けた話だった気がします。
…こんな話ってとこが、シーらしいのかもな。<非道い








 ◆◆ INDEX〜NEWTON