多分世界は薔薇色〜ポストペット編


ラ・ヴィアン・ローズ
まこと 人生は薔薇色



我はフェラーリという。オカガメである。何故、カメなのに、『フェラーリ』なのか。前に一度、マスターに問うてみた事がある。結果、ただ一言。「カメだから」とのたもうた。
その言の因果関係は、我には今一つ、不明であったのだが、マスターの勝ち誇ったような笑みを見るにつけ、更に問うてみる気は失せた。
まぁ、そういう事なのだろう、と思うことにする。
『マスター』とは、我の飼い主の名称である。これまた、生まれたばかりの我に向かって、マスターが「ご主人様(マスター)とお呼び」と言ったのだ。
そういう訳なので、我の飼い主は『マスター』である。
「フェラーリちゃん、フェラーリちゃん」
ててててて。
そのようにしか表現しようのない音とともに、我の名を呼ぶ甲高い声がする。小さい手についた小さすぎる爪先で、引っかくようにして戸を叩くので、そのような音がするのだ。
戸を開く前から、叩く相手が誰なのか、明瞭すぎるくらい明瞭に分かってしまって、我は思わず、溜め息をついた。それでも、のろのろと、未だにいささか間抜けな音の続く戸へと向かう。開けたくない、という気持ちからという訳でなく、我の体はあまり素早い動作に向いていないのである。…まぁ、確かに、開けたい気持ちでいっぱいだったとは、到底言えないが。
部屋の戸を開くと、毛糸玉が転がり込んできた。
これはまさに、文字通り、である。
如何にも触り心地のよさそうな、ふわふわの毛皮に包まれた、愛らしい生き物。
あいねは、くりくりとした大きな目をより一層大きく見開いて、我を見上げた。その瞳に、喜びや愉しみ以外のものが宿っているのを、我はついぞ見た事がない。
あいねは、ハムスターである。我と同じマスターの元に住む、兄弟分、という事になるらしい。本来ならば、我よりもいささか早く生まれたあいねの方が、姉、となるはずなのだが、あいねは「いろんな意味で可哀相」なので、なるべく我が面倒を見るように、とマスターに厳命されている。その意味では、妹分である、と言えるだろう。
「フェラーリちゃん、フェラーリちゃん、あんね、あんね」
あのね、ときちんと発音できない彼女は、常のように言葉を連呼する。癖なのだ。しかし、その後の言葉は続かなかった。不審そうに、周囲をきょろきょろと見回している。どうやら、我の部屋の様子が常といささか違うのを感じたらしい。
気づいた訳ではない。感じるだけである。
昨日、一日かけて清掃し、少々、家具の配置なども変えてみたので、印象が変わっていても、それは当然であるのだが。
物事の記憶に供される頭脳の領域が、あいねは極端に小さいのである。
ともするうちに、彼女の視点が一点で止まる。
途端に、ぱっと明るくなる表情。
「あ。クッキー」
3日前、マスターがくれたものであったが、甘いものを好まない我は、受け取った当初のまま、ビンに詰めっぱなしで、放置していたのだ。
「食してもいいぞ。ただし、きちんと手を洗った後でな」
「はあい」
あいねが、これは変わりようのない我の部屋の洗面所へと向かって、ちょこまかと駆けていく。
これで、我を訪ねてきた当初の目的が何であったのか、すっかり忘れ去ってしまった事は、明々白々であった。




「フェラーリちゃん、フェラーリちゃん、あんね、あんね」
「物を食しながら、話すでない」
あいねの口からは、クッキーの残骸が、ぼろぼろと零れ落ちていた。実際、口に入るより、零れる量の方が多いくらいだ。そう指摘してやると、あいねは黙り込んだ。我は、清掃したばかりの部屋の床の隙間に、菓子屑が入り込む事を厭うたのであるが、あいねは、折角のクッキーが勿体無い、とでもいう風に感じたらしい。素直に黙々と一枚、これは奇麗に平らげた。
「…あれ。なんのおはなししてたんだっけ」
「『オニキス』のことであろう」
我は、深く溜め息。
しかし、我の言葉で、遥か彼方に飛び去りかけていた記憶の服の端を握り止るという偉業を成し遂げたあいねは、目を輝かせた。
「うん。オニキスちゃんがね。こうでね。こうでね。こうなの」
『こうで、こうで』と言いながら、体を丸めたり、反ってみたりしているが、別にあいねは、体操をしている訳ではない。おそらく、オニキス某(なにがし)の挙動を真似ているのだろう。
あいねの言葉の端々から推察…それは時に、かなり大胆な発想の飛躍を必要とする…するに、オニキス某は、あいねが生まれた時から、ずっと担当として受け持ってきた家のペット、であるらしい。
我ではなく、あいねを担当として据えた、ということは、飼い主はマスターにとって、かなり私的な知り合いであろうか。
つらつらと考える我の前で、そっくり返っていたあいねが遂に、転んだ。向かって背面に、2回3回と慣性の法則に従って勢いよく転げたが、摩擦抵抗により次第に速度を落とし、ついに止まる。
ぽて、という気抜けする擬音付きで床に延びたあいねは、しばらくして、えへへ、と笑いながら起き上がった。
どうやら、面白かったらしい。
あいねは、これでオニキス某の話題を忘れ去ったであろうが、当然、我は忘れなかった。
あいねお気に入りのペット、オニキス某。
これは、調査しておかねばなるまい。




初めて訪ねる家、というのは、その圧迫感から、多少の緊張を強いるものである。
我も少々、緊張していたが、それは常の場合とはまた、少々違う。
今度のオニキス某の家への配達物は、我に届させてくれるよう、マスターへと頼み込んだのは、つい先日の事だったが、機会は思ったよりも早くにやってきた。
手紙をきっちりと懐へと仕舞い込み、黙々と歩む事、数時間。
ついに我はやってきた。
目の前には、オニキス某の家の扉がある。
しかし。
我は、小首を傾げた。
どこかで見たような建物である。特に、2階部分など、何度も訪れたことがあるような気がする。これが、既視感というものか。
いささかの沈思黙考の末、我は、扉の前を外れて、2階部分へと続く脇階段の方角へと歩み寄った。
そっくり、うりふたつである。
更にそこでまた、少々、考える。
これは、いかなることだろう。
沈思黙考中は、動かざること山の如しとなるのが、我の常である。が、そんな我の姿を部屋の中から確認できたものか、2階の部屋の主が、扉を開けて顔を覗かせた。
「フェラーリさんじゃありませんか」
そこには、青みがかった体毛も美しい、ネコのタンザナイトが立っていた。
「やはり、タンザナイト殿の家だったか」
示唆された道順が全く違っていたので、気づかなかったのだ。
「おや、わたしのところへのご来訪ではありませんので?」
タンザナイトは、首を傾げてみせる。
「いや、残念ながら」
我は、首を横に振った。タンザナイトのように、優雅な挙動とはいかないが、まぁ、仕方がない。我は、常に独特の気品を失わない彼とは違って、いささか無骨なるカメなのだから。
彼はどんな時でも、落ち着いた物言い、物腰を崩さない。
我は、この友人のそんなところが、とても気に入っている。
そして、我は、我の生真面目さがタンザナイトの意に叶っているのであろうことを知っている。
我らは、とてもよい友人同士である。
「今日は、一階に用があってな」
そう言った途端に、タンザナイトの眉がぴくりと動いた。
「…一階へ、ですか。それは、大変なことですね。仕事とはいえ、ご苦労様です」
おや。
「どうでしょう。帰り道、わたしのところに、お寄りになりませんか。何にもありませんが、お茶くらいならお出しできますから」
何やら、気を遣われているようだ。
まるで、一階にて我が、ひどい目に遭うであろう事を確信でもしているかのような。
ふと、心の内に差した疑問に、問うてみる。
「タンザナイト殿は、一階の住人について、何かご存知か」
なにやら、口惜しそうに眉根を寄せたタンザナイトは、不承不承、といった様子で、重い口を開くまでには、いささかの間があった。
「…知るも知らぬも」
ため息混じりの言である。
「わたしの兄弟分なのですよ。あちらの方が先に生まれたので、わたしが弟、ということになってしまうらしいのですがね」
どこかで聞いたような話だ。
そうなると、やはり、これもどこかで聞いたような状況になっているのであろうか。
「…あー。とすると、タンザナイト殿が何くれと世話を焼いている、という事なのであろうか」
「『世話』ですか」
タンザナイトは、苦笑したようだった。我は、何かおかしな事でも言ったであろうか。
「いえ、ただ単に、気が合わない、というだけの話です。お互い、もう子供でもありませんしね。干渉し合わない、というように、折り合いはつけておりますよ」
大人である。
我とあいねとの関係とは、えらい違いである。
しかし、オニキス某がタンザナイトの兄弟分である、という事実は、我にとって、緊張をほぐす要因とはなってくれたようだった。
我は、帰り道、タンザナイトの部屋へと寄る事を約束し、再び、一階の扉へと向かったのだった。




コンコン、と行儀よく、二つ、扉を叩いてみる。
反応はない。
今度は、少々強めに、もう二回。
少々、待ってみたが、相変わらずの無反応である。
留守であろうか。
少し、待ってみるべきか。
その時である。
がすん、と鈍い音がした。と同時に、目の前が真っ白になる。目がちかちかして、足下がふらついた。
かくり、と足が崩れて、額に広がっていた痺れが、ひどくじんじんとした痛みへと変わって、その時、ようやっと我は現状を把握した。
勢いよく開かれた外開きの扉に、我は額を強打されたのである。
「…なんだよ、お前」
頭上からの声に、痛みをこらえて顔を上げると、そこには、不貞不貞しいほどに堂々と構えたペンギンが立っていた。




あいねの体操もどきの挙動が、脳裏に蘇る。
胸、というより、腹を張って、少々、がに股気味に、ちょこちょこちょこちょこ。
…なるほど、ペンギンであったか。
納得しつつも、扉に寄りかかったペンギン…確実に彼が、オニキス某であろう…を見つめていた我の前で、彼の表情がむっとしたようなものへと変貌する。
「とっとと出せ」
彼は一体、何を言い出したのであろうか。
おそらく、そんな疑問が顔に現れてしまっていたのであろう、オニキス某が、声を荒げる。
「手紙だよ、手紙。お前、仕事で来たんじゃねーのかよ」
初対面のペットが、家を訪ねてくる理由といったら、飼い主からの手紙を言付かって、という以外には有り得ない。
一目瞭然、一点の曇りない、全くの正論である。
我は、気恥ずかしさを誤魔化すように、慌てて懐を探った。
目の前では、オニキス某が、何やらぶつくさと愚痴っている。言葉の端々から推察…これは、日々、あいねに鍛えられている我には、無意識に働く本能にすら近い…するに、どうやら、まだ就寝中であったのに、我が訪ねてきたので、起きざるを得なかった、というところであるらしい。
我に言わせれば、昼、こんなにも日が高くなったというのに、未だ寝ている、という方が、少々、問題であるのだが。
大切に仕舞い込んだマスターからの預かりものは、随分と懐深くに入り込んでしまっていた。なかなか、手に触れてこない。オニキス某は、目に見えて不機嫌そうになる。
焦った我は、その手を極限まで伸ばして、手紙を探す。
あった。
ようやっとそれを掴み出した、その一瞬、我は中空へと浮いた。




どすん、と甲羅から衝撃がくる。
足の下には、いや、上には、空がある。
何が起こったのかよく理解できぬまま、手足をばたばたと動かした。だが、それも中空を掻くだけだ。
頭上に、オニキス某のびっくりしたような顔が、ひっくりかえって浮いている。
「…まさか、こんなにキレーにきまるとは、思わなかったよなー」
そう言いながら、オニキス某は、その大きな足を、ふりふりと横に振ってみせた。
それで我は理解した。全く、理解しがたいことではあったが、いやいやながらも、理解した。
その安定感には定評のあるカメであるところの我は、やはり、その不安定感で定評あるペンギンのオニキス某に、足払いを掛けられ、転んだのである。
少々、呆然としてしまったところで、それは致し方なし、とされて、当然であると思う。
オニキス某は、我の甲羅の手を掛けて、我をひっくり返した。それで、我はまた、手足を地に付けることができた。
それでも、最前に蒙った心理的衝撃に半ば呆然としたままの我に対して、オニキス某は、如何にも呆れ返ったように鼻で嗤って、こう言い放った。
「ドンくせー」
我は、己の頭脳と冷静な判断力には、多少の自信を持っていた。多少、挙動は遅かったが、仕事も正確かつ堅実である。なによりも、たゆまぬ努力に裏打ちされた実績は高く評価されており、だからこそ、マスターからも絶大なる信頼を寄せられているのである。
その我が、ペンギンに足払いを掛けられて転び、あまつさえ、鈍くさいと嘲笑われる。
我の自尊心は、粉々に打ち砕かれた。
度重なる衝撃に、心身の力を使い果たしたかのような我が、タンザナイトとの約束を思い出したのは、行きの倍は時間が掛かったろう帰り道、丘を仰いで、己の家の見えるあたりまで来てからの事だった。




オニキス某は、確かに、あいねには、よろしくない友人である。あいねの教育に、多大なる障害を及ぼすであろう事は、目に見えている。だから我は、徹底して、あいねの周辺から、オニキス某を排除せしめねばならない。それが、マスターから下された我の使命である。
しかし、我は、疲れ切っていた。
タンザナイトとの約束も、結果的にすっぽかした事になってしまい、それだけでも、我にとっては、信じ難い、心に重い出来事であったのだが、何よりも、オニキス某と出会い…それは、時間にして、ほんの数分のことであったろう…は、我の気力を根こそぎ奪い取り、枯渇させるものだった。
我にはもう、再び、オニキス某と対峙する事を想像する気力さえも残っていなかった。今後、そのような勇気が湧いて出ることがあろうとも、思えなかった。


マスター。我は、もう駄目です。所詮、我は愚鈍なカメなのです。
我に、この仕事は、荷が重すぎます。

しかし、仕事を返上し、更なる恥を晒すのもまた、我には耐えられぬ。
いっそ、置き手紙を残して、出奔せしか。


鬱々とした思考の檻に囚われた我を、現実世界へと引き戻したのは、部屋の戸を叩く音、だった。
ててててて。
「…あいねか」
「フェラーリちゃん、フェラーリちゃん」
ててててて。
「戸は開いておるゆえ、勝手に入れ」
…いや、あいねには戸が開けられぬのであった。我が事ながら、随分と呆けているようだ。
疲れた心と体とに鞭打って、我は、部屋の戸を開ける。すると、ふかふかとした毛糸玉が室内に転がり込んでくる。
「フェラーリちゃん、フェラーリちゃん、あんね、あんね」
「…オニキスの話ならば、今は聞きとうないぞ」
「????オニキスちゃん??」
「…の話をしにきたのでは、ないのか?」
ここ2、3日、ずっとその話題ばかりであったのに。
「違うよう。あんね、あんね、タクヤちゃんがかっこいいんだよう」
タクヤ。
なんだ、それは。
「あんね、あんね、タクヤちゃんがね、タクヤちゃんがね…」
相変わらず、幸せいっぱい夢いっぱいとでもいった笑顔を振り撒いたあいねの顔は、真っ赤に紅潮していた。
「タクヤちゃんがね、こんなお手紙書いたんだって!」
あいねは、その小さな手には、不釣り合いなほどに大きな紙を振りまわし、手足をばたつかせている。はあはあと息を荒げて、余程、興奮しているようだ。このままでは、呼吸困難と頭に血が上った事によって、また目を回してひっくり返る。
我は、ひどく気は進まなかったのだが、しょうことなしに、あいねの手より紙を取り、書かれていた文章を読んだ。


まった? ゴメン! 
 略してマタンゴ!!
 いつもクミさんのメールを運ぶイヌ、
 タクヤだよ。
 ときどき兄貴風吹かすよ!
 ロックンロール兄貴ウインド。
 ビュービュー




 マスター。
 どうか、お願いです。
 我を解放して下さい。
 我は、本当にもう駄目です。






<『マスター』からの追記>

その後、フェラーリとオニキスの関係は、なかなか面白い発展の仕方をしているようだ。
フェラーリを見かければ、オニキスはフェラーリに嫌がらせをし、

( 証拠物件:フェラーリからの手紙

  「ふらついた奴」
  > フェラーリの行く手を阻むのは誰だ。
  > いきなし幅寄せして来るやつはオニキスだ。
  > 寝不足なのか動揺しているのか。
  > フェラーリのことが好きなのか。
  >
  > -----
  > フェラーリ
 )

フェラーリの訪問が滞ると、オニキスは、「フェラーリをよこせ」と催促する。

( 証拠物件:オニキスからのメール

  「ご機嫌伺い」
  > マスターのとこのオニキスです。
  >
  > フェラーリは元気ですか。
  > どうしてもと言うならまた遊びに来てもいいです。
  > 特別に許可するです。
  > よこせです。
  >
  > これが言いたかったのです。
  >
  > 以上。
  >
  >
  > ついしん。。。
  >
  > 敬語は疲れるですね。やはり。
  >
  > -----
  > オニキス
 )

このまま、オニキスとラブラブ街道をばく進しても、それはそれで興味深し。
フェラーリの行く手に拓けるのは、薔薇色の世界か。

さあ、フェラーリの

明日はどっちだ。



END






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