WATER GARDEN〜水の王国 +++ 臥竜鳴動編・序あるいは外伝


こうして、千年の余もその翼を誇った双頭の黄金鷲は墜ち、
代わりて、真黒き翼竜が蒼天を羽ばたくこととなった。
これは、永きに渡った安寧な平和の終わりであり、
今後、東方から湧きいでた戦乱の暗雲に
永らく巻き込まれていく世界の最後の輝きともなった。
おお、神よ。
その慈しみ深き御手より、この罪深き竜に
一縷のお導きのあらんことを。

「年代記」より



彼女は、特に人目を引く、というタイプの娘ではなかった。貴族の目に留まって、側室として迎えられるほどの美貌を持つでもなく、貴婦人のサロンに出る事のできるような芸術的才能を持つでもない。無償で学問を教えてくれる神聖神殿付属の幼学校では、神学を中心とした知識をあれこれと詰め込まされたが、墓本的な帝国文字の読み書きや簡単な算数以外は全く覚えられなかった。そもそも知識欲に富んでいるという訳でもない。文字と数学を覚えたのも、それが唯一実用的な物だったからだ。
先年、父親が死んでからは、母と幼い弟妹、一家6人の生活を支える為に、食堂兼酒場である旅籠『白い木馬亭』で働いている。家計を動ける為に、娘が働きに出るというのも、この国ではよくある事だ。
つまり、アキラはごく一般的な下町の娘に他ならなかった訳だ。
それでも、くるくるとよく表情を変えるはしばみ色の瞳は魅力的といえない事もなかったし、銅色の癖のない髪を「美しい」と褒めてくれる人がいない訳でもない。…酒場の常連である酔っ払いの言葉が、どの程度信用できるか、は別として。
今日も、エール酒のたっぷり注がれたジョッキをその手にいくつも持ち、テーブルからテーブルへ注文を訊いて回る間、尻の辺りに伸ばされる手を慣れた動作で交わしながら、厨房と店内とを何度も往復する。そんな常と変わらぬ一日のはずだった。
「…だよな。……戦も………危険……」
「……東の野蛮人共も、すぐそこまで……」
そんな言葉が、そこここで交わされている。
『白い木馬亭』は、一階が酒場、二階が宿屋になっている為、近所の常連客以外に、旅行客や商人といったような人々の姿も大勢見る事ができる。そういった人々は、大抵自分の通ってきた国々、街道についての情報を交換するものだ。多分ここは、カノール帝国の中でも、最新の情報が飛び交う場所の一つだろう。
そして、アキラが最近よく耳にする話の一つに、東方の新興国に関するものがあった。
『勇武王』、『獅子王』と称えられたという東方最大国シャナの王の急死。その息子である、第3妃の産んだ8番目の王子の即位。そして、その新王を巡る、血生臭い噂の数々。
普通、偉大な王に続いて王となった者は、先人の得た領土なり、財産なりを減らさぬように、堅実な政治を心掛けるものだ。誰だって、後世に残る『無能者』になりたい訳ではない。
しかし、新王は違った。『獅子王』の葬儀もそこそこに、彼が国王として手を付けた初めての仕事は、国境に位置する銅山の権利で長年争っていた隣国を、攻め滅ぼす事だった。
これによって、未だ十代だというかの王を『子猫』呼ばわりしていた者も口を閉ざす。
そして、代わりのようにシャナの名は、今までのような『尚武の国』ではなく、『好戦的な国』として囁かれる事になったのである。
(……そんな、戦なんて起こるはずないじゃない)
家の仕事。弟妹の世話。そして、『白い木馬亭』と家との往復。いつもと変わらない平和な生活。
そういったものは、永遠に続くのだと『決まっている』のだから。
その時、急に耳慣れない音の羅列がアキラの耳に飛び込んできた。そして、蹴倒された椅子が床に当たって立てる騒々しい音。
振り向くと、分厚い旅用マントに身を包んだ、見るからに旅の商人といった風情の男二人運れが、他のテーブルの客に食って掛かっている。どうやら、外国の人間のようで、その口から洩れる言葉は、アキラにはさっぱり判らなかった。
しかし、酔っ払い同士の喧嘩など、ここでは大して珍しくもない。
アキラは、その手に持っているジョッキを危険の少なそうな場所に避難させると、取り敢えず、喧嘩を止めようと少し離れたところから声を掛けた。
この場合、決して不用意に間に割って入ったりしてはいけない。護身用の剣などを抜いたりする、ちょっとぷっつんした客がいないとも限らないのだから。
下手に近付いて、怪我でもしたら大損である。明日からの生活が成り立たなくなってしまうではないか。
「お客様、店内では他のお客様のご迷惑になるような事は慎んでいただきませんと」
にっこり。
昼のウェイトレス時のスマイルでまず言った。しかし、男達はそんな言葉が耳に入った様子もない。口汚なく罵り合っている。
バキッ。
景気のいい音がして、男が一人吹っ飛ばされてきた。軽く身を交わすと、背後でテーブルのひっくり返る音と何かがぶつかり合ったような派手な音が響く。
にっこり。
小首を傾げて、もう一度、ウェイトレス・スマイル。
そして、
「喧嘩なら、余所でやれって言ってんだよ!耳付いてんのか、このスカタン!!後で掃除するの、誰だと思ってんの!」
店内にアキラの怒声が響き渡った。
…もしかしたら、帝国語で言っても判らないかな−、なんて事もちょっぴり脳裏を過ぎったりしたが、それだと非常に都合が悪いので、相手は帝国語が話せる、という事に『決める』。
威勢のいいアキラの啖呵に、一瞬、シンとした店内だったが、すぐに他のテーブルの男達が喝采を送った。
すっとんきょうな行動を見せる酒場の看板娘は、男達には割合と好意的に受け止められている。
何せ皆酔っている。面白そうな見せ物は、大歓迎だ。
「よっ、美人のねーちゃん、格好いい!」
「いいぞー。もっとやれー」
「やだー、そんなー。『美人』だなんてー。もっと言って」
周囲の状況も顧みず、送られた声援に両手を上げて応えてしまうのは、これはもう性格だろう。
店内の大多数の客を味方にできた事を感じ取ったのか、アキラは腰に手を当て、大威張りで男達を振り返った。
「で、先に喧嘩を売ったのは、どっちな訳?!」
「そいつらが、いきなり殴り掛かってきやがったんだ。俺達は何にもしてねーよ」
形勢不利を悟ったらしい常連の男達の慌てたような口振りに、アキラは商人風の二人連れを睨みつけた。
「初対面の人間を侮辱するのが、帝国の礼儀なのか?」
綺麗な帝国語だった。
二人連れのうち、一人の青年がマントのフードを引き下ろし、アキラと目線を合わせる。
感情を読ませない黒い瞳。短く刈られた黒い髪。浅黒く日焼けた肌。マントを目深く被ったままの連れの男も、唯一布地に包まれていない部分である手が、青年と同じ色をしている。
一目で判る、彼等は東方人種だった。
旅行用マントを目深く被っていたため、今の今まで全然気付かなかったのだ。それは、他の客達にとっても同じであったのか、息を飲むような気配の後、気まずい沈黙が店内を被った。
「……そういえばあいつら、『東の野蛮人』って…」
ぼそぼそと周囲で起こった囁き声に押されたのか、不承不承、常連の男が謝罪の言葉らしきものを口にする。しかし、殴られた男の方は、未だ不服そうな様子だ。
「冗談じゃねーよ。俺はそいつに殴られたんだぞ。なのに、何で俺が」
「まぁ、確かに先に手を出したのは、こっちでしたから。それについては、本当に悪かったと思っています。すみませんでした」
苦笑を洩らしながら、東方の青年が両手を軽く上げた。『もうこれ以上、やり合う気はない』というポーズだ。そして青年は、横でそっぽをむいている連れを肘で軽く突いた。一緒に謝れ、と言っているらしい。…この連れの方が男を殴ったのを、アキラはしっかりと見ていた。
連れの男は、面倒臭そうに目線を上げた。その顔が、思ったよりもずっと若そうなのに、アキラは驚いた。まだ少年と言ってもいい年なのではないだろうか。
きつい目をした少年が、ひた、とその目を男達に向ける。
「□□□!□□□□□□□□□!!」
万国共通の中指を突き立てるサインと共に少年の言い放った言葉を理解できなかったのは、アキラにとっては幸いだったのかもしれない。…まあ、周囲の東方の言葉が判るらしい男達のにやにやとした笑いや指笛で、大まかな意味は判ってしまったのだが。
「本当にすみませんでした。お詫びといってはなんですが、一杯ご馳走させてもらいますよ」
少年の後頭部に平手を食らわして、青年は男達に平謝りに謝っている。青年の人懐っこそうな笑顔とその有り難い申し出に、男達も警戒心を解いたようだ。
軽い仕種で指を鳴らして、青年に笑い掛けた。
「そりや、有り難い。こっちも悪かったよ。あんた達が東方の人間だなんて気付かなくて。…いや、これはあんた達を侮辱してるとか、そう言うんじゃなくてだな」
「ええ、判ります」
男達の言い訳めいた言葉に、青年は笑顔で頷く。
「お姉さん、騒いですみませんでした。何か壊れた物とかあったら、言って下さい。弁償しますから」
青年が、アキラに向き直った。心からの謝罪の滲むその表情に、アキラも思わず笑い掛ける。
「大丈夫よ、ジョッキも割れたりはしなかったし」
『白い木馬亭』の食器類は、全て木で作られている。何度も言うようだが、こういった事はここでは珍しくない。食器を割れにくいもので作るのは当然の事だ。
お互いに謝罪し合った後は、大分周辺の空気が軟化した。しかし、相変わらず青年達のテーブルは周囲の視線を集めている。帝国内で、東方人種を見掛ける事も珍しければ、酒場で彼等を見掛ける事は、皆無と言って過言ではない。…『宗教上の戒律』とやらで、飲酒は禁止されているはずだから。
周囲の男達が、興味深そうに青年達のテーブルを窺った。揚げいも、肉と野菜の炒め物、そして、火酒のジョッキ。周囲の好奇の視線に気付いていないのか、青年は、無造作に自分のジョッキを手に取った。一息に呷る。周囲の視線が、息を詰めて見守った。アキラも思わず握り拳を作る。
ジョッキをゆっくりとテーブルに戻すと、青年は周囲の男達に笑いを含んだ目を向けた。
「こういう時、『この一杯の為に生きてる』って言葉を、実感しますね」
どっと周囲が沸いた。
「兄ちゃん、いけるクチじゃねーか。東方の奴なんて、洒も飲めねーつまんねー奴等だと思ってたけどな!」
「気にいったぜ!一杯奢らしてくれよ」
青年に声をかける男達も多くなった。この一幕で、彼はすっかりと周囲に溶け込んだ様子だ。……連れの少年と違って。
仏頂面でどっかりと椅子に腰を下ろした少年は、青年に宥められているようだ。やっぱりアキラには理解できない言葉ながら、青年の発する声は、とても優しそうに響いていた。
「あ、すみませーん、お姉さん。火酒3杯とエール酒1杯、追加でー」
「…あ、はーい」
いかん。仕事中だというのに、ぼーっとしてしまった。
つい、あの二人に見とれて。
東方の青年からの注文の品を取りに、アキラは慌てて厨房に走っていった。



火酒とエール酒を持って、テーブルに戻ってくると、アキラはエール酒を少年の目の前に置いた。
少年は、むっかりした表情で、アキラを見上げた。アキラもつい、見つめ返してしまう。
先程までは、東方人種というだけでびっくりしてしまったが、少年は、割と綺麗な顔をしていた。顔立ちだけを見れば、西方の人間だといっても通ったろう。
秀でた額。よく通った鼻梁。きりりと引き結ばれたはっきりとしたラインを描く唇。時に、酷薄な印象さえも抱かせる、きつすぎるその瞳さえなければ、極上の部類に入っただろう。いや、後5年もすれば、それさえも魅力になるかもしれない。
少年から目を離さないまま、アキラは思った。
(惜しい)と。
(うーん。後5年、いや、せめて3年、年食ってたら、完璧、好みだったんだけどなぁ)
アキラの思考…煩悩ともいう…を読み取った訳でもないだろうが、少年はぷい、と目を反らせた。…その、一種不気味な注視に耐えられなくなったのかもしれない。
そのまま、自分の目の前のエール酒を青年の方に押しやる。そして、アキラの持っている火酒を自分に寄越すように身振りで示唆した。
少年の言いたい事を正確に読み取った青年は、苦笑してアキラに手を差し出した。
「火酒は僕に下さい。彼にはまだ無理ですから」
(そりゃ、そーだ)
心底納得して、アキラは青年に火酒を差し出す。
途端に、少年の目が座った。
ひったくる様にして、アキラの手から火酒を奪い取る。そして、そのまま一息に呷った。
(うっっ)
アキラは、息を飲んだ。そして多分、青年も息を飲んだ。少年は、酒を一気飲みすると、下ろす音も荒々しく、テーブルにジョッキを戻した。
店内のざわめきが、やけに耳に付く。
少年は動かない。二人も動かない。
「…つかぬ事を訊くけど…」
「…何です?」
「あの子、今までに酒を飲んだ事は?」
「皆無です」
即答で返ってきた青年の言葉に、アキラはゆっくりと息を吐く。
初心者に火酒はきつすぎる。
なんといっても、「火酒3杯で火竜も潰せる」なんて囃し歌があるくらいなのだ。竜族の酒豪ぶりは、物語の中にも枚挙に暇がない。
(…だ、大丈夫かな)
アキラが、他のテーブルの注文取り&少年の状態がちょっとだけ心配になった頃、少年がテーブルに倒れ込むように突っ伏した。
「ひょえ?!」
「すみません!お水下さい!!」
すかさず、青年が少年に屈み込みながら、アキラを振り返る。
後も見ずに、アキラは走った。



「お、お水…」
「ありがとうございます」
青年は、アキラから水を受け取ると、すっかり前後不覚状態らしい少年の顔を仰向けた。フードが肩に落ちて、その容貌が露わになる。
瞳を閉ざした少年は、ひどく幼く見えた。まだ十代も半ば。多分、それが当たっているのだろう。酒の所為で上気した頬が、健康的に日焼けした肌を彩る。汗で額に張り付いた黒髪が、妙に色っぽい…ような気がする。
アキラはつくづく思った。
(惜しい。これは、惜しすぎる)と。
(………うーん、3年なんて、悠長な事言ってられないかも。その間に他にお手付きされないとも限らないもんね)
少年が、他の誰かにお手付きされたからといって、アキラには何の関係もありはしない、といってしまえばそれまでなのだが、そこはそれ、本人、非常に盛り上がっているので、多少の事には目を瞑る事にする。
アキラの凝視に不穏なものを感じ取ったのか、青年が少年を微妙に自分の背後に隠すような挙動を見せた。
「…彼に…何か?」
「え?いえいえ、たいした事じゃないの。ただ、ちょっと…何処かで見た事ある顔だなー、って思って」
青年の訝しげな視線に対して、アキラは、焦ったように手を振りながら言った。勿論、嘘八百である。こんなに好みの顔に会った事があったら、忘れる訳がないのだ、アキラの場合。
だが、その答えに対して、青年の瞳が微妙に色を変えた事など、アキラが気が付くはずもない。
「あ、その子、水飲まなさそう?」
とにかく話題を変えよう、と、アキラは少年に注意を戻した。
「…ええ、完全に目を回しているみたいですね」
自分を見つめる青年の視線が、探るようなものに変化している事にも、アキラは無論気付かない。
「どれどれ」
ぴぴぴぴぴ。
青年の手にしていた水の入ったコップの中に指先を浸し、少年の顔に水を飛ばしてみた。
水滴は頬を伝い落ちるが、少年は目を覚まさない。唐突なアキラの行動に目を点にした青年が何も言い出せぬうちに、水入りコップを青年の手から、無造作にもぎ取る。
「…この技だけは、使いたくなかったのよねえ…」
一人ごちた彼女に。
ばっしゃん。
青年が訊き返すより前に、アキラは少年の顔にコップの水をぶちまけていた。
少年の頬が、ぴくりと動いた。どうやら、意識が浮上してきたらしい。
(後の掃除が大変だから、できるだけやりたくなかったんだけど)
まあ、仕方がないだろう。お陰で少年も、気が付いたようだし。
思いながら、アキラは少年の顔を覗き込む。
水の滴る少年の顔。
(…取り敢えず、売買予約という手もあるな)
「…あーのー……」
「あ、気が付いたみたいよ」
何か言いたげな青年の様子には気が付かなかった事にして、アキラはにこやかに振り返った。
その時。
「うぎゃ?!」
なにかが身を起こし掛けたアキラを引き戻した。
「ちょっと、何…」
胸元に縋り付いている物体、……それは、先程までノビていた少年だった。



「ちょっとちょっとちょっとーっ!」
少年はアキラの言葉など耳にも入っていないかのように…実際入っていないのだろう…より一層、強く抱きついてくる。
(こっこのエロガキャー)
右手が震える拳を作る。少年の次の言葉がなかったら、本当にひっぱたいていたかもしれない。
少年はその時、ようやっと耳に入るほどの呟きで、何か言った。その呟きの醸す響きが、何か心を引っ掻いた。
「…何て言ったの?」
少年が、という主語は、言わなくても青年には伝わった。
「……『お母さん』…って、言ったんです…」
振り上げた握り拳が、そのまま止まった。この状態と少年の行動は、どの様に解釈すればいいのだろう。
困惑を露わにしたアキラの様子に、青年が、ここぞとばかりに勢い込んで弁解しだした。
「すみません。だけど、彼はごく幼い時に母親を亡くして、それ以来、ずっと愛情というものに無縁な教育を強いられてきたんです。だから、きっと、あなたの事も、母親と間違えているのだと…」
さも悲しげに、眉根を寄せて辛そうに語る青年の姿に、しかし、アキラは誤魔化されたりはしない。
「…あんたらのトコでは、母親にこーいう事をするんか?え?」
片頬をひくつかせながら、アキラは胸を揉みしだく形に置かれた少年の手をむんずと掴んで、捻り上げた。
少年の口から苦鳴が洩れる。
「ふざけんな!そーいう事をしたけりゃ、余所へお行き!!」
アキラは『客商売』という言葉を、場合に応じて忘れる事のできる人間だった。
フーフーと息も荒いアキラに手を取られたまま、少年が藻掻いた。少年の捲し立てる理解不能な言葉が、アキラの耳に飛び込んでくる。
(…そーいや、帝国語できないんだっけ、この子)
何だか、怒る気が殺げてしまった。
(これ以上、子供の悪戯で腹立てるのも、大人げないかも…)
アキラは、キリリと青年に向き直った。
「な、何でしょう」
何だか及び腰の青年に向かって、少年を突き放す。
「これからはちゃんと監督しておいてちょうだい。女性(レディ)に対する態度ぐらい教えておいてよね」
「誰が貴婦人(レディ)だ、この暴力女」
今聞こえてきた声は、幻聴の類なのだろうか。青年が発した言葉とは思えない、柄の悪さ。
信じられない思いで、アキラはまじまじと青年を見つめた。青年が、ばつの悪そうな顔をしている。でも…。
(今の声って、何だか変わった訛りがあったような…)
青年の帝国語は、何の訛りもない、正確な発音だった。…という事は…。
アキラは、首だけを動かすように、ぎこちなく頭を巡らせた。ふてくされきった少年の姿。
「あーん?何か、言いたい事でもあるんかよ。さっきっから、人の事ジロジロ見やがって、気色ワリィ…」
「……あんた、帝国語喋れんなら、先に言いなさいよねーっ!!」
「何で、お前に言わなきゃなんねーんだよ。そんな事、俺の勝手だろ」
まさに正論。少年は何も言わなかっただけで、帝国語が話せないと決め付けてしまったのは、アキラだ。
しかし。
(かっ可愛くない)
クールな外見に反して、猛烈な毒舌家だったらしい。
アキラは、テーブルに向き直った。結果、少年には背を向けることになる。少年に対しては沈黙を守ったが、震える肩がその怒りを物語っている。…もしかしたら、『お客様は神様』という言葉が、久方振りにその脳裏に蘇ってきたのかもしれない。
「…喋ってない時は、あんなに可愛かったのに…」
テーブルのコップ類を片付けながらの呟きは、図らずも少年の耳に入ってしまったらしい。
「俺はもう、『可愛い』なんて言われるような年じゃねー!今年で15になるんだからな!!」
真っ赤になって怒る少年は、どうやら自分が子供である事をかなり気にしているらしい。しかし、この台詞はアキラには、全く逆効果だった。
「15?!子供じゃん!!嫁入り前のうら若き娘の乳、揉むような所業を犯しておいて、たったの15?!」
もう彼女の中には、『お客様〜』という言葉はない。鼻高々、鬼の首を取ったかのよう、とはこういう状態を言うのだ。
「子供だと?!んじゃ、テメーは何才だってんだよ!!」
「ふふーん、私はもう20才になったもんねーだ」
その割りには、少年との程度は同レベルのようである。アキラの台詞に少年は、小馬鹿にするような溜息を吐きながら首を振った。
「…嫁き遅れ」
「うきーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっ」
遂に爆発したアキラに少年の身の危険を感じたのか、青年は大慌てで立ち上がった。
「おっ、お勘定お願いします!…出ますよ!支度して下さい!!」
後半は、少年に対して掛けられた言葉だ。
支度といっても少年の場合、マントを被り直すだけだから、簡単なものだった。結果、あっという間に青年達は店から出る事になる。しかし、足早に店から立ち去ろうとする青年のマントを引っ張って、少年が何かを耳打ちした。嫌そうに眉根を寄せる青年に、何事か厳しい声で言う。不承不承青年は何か懐から引き出して、少年に手渡した。
少年はアキラに向き直って、如何にも嬉しげに笑った。
「おら、いー年して男もいない可哀相なお姉様に、プレゼントだ。これで男をひっかけるんだな」
アキラの足元に投げ出された小さな革袋。怒り心頭に達したアキラが何も言えないうちに、二人連れは店内から出て行った。外の通りからは、少年の心底楽しそうな笑い声が響く。それは、ゆっくりと遠ざかっていった。
そして、後に残されたアキラは、というと。
「…っむかつく、むかつく、むかつくーっっっ!!なにさ、こんなもの!!こーしてくれる!!こーしてくれる!!」
少年の投げて寄越した革袋の上で、ジャンプしていた。しつこくしつこく、革袋を踏み締め続けるアキラの姿に恐怖を覚えたのか、常連の男の一人が、恐る恐る言い出した。
「おいー、アキラー。別にその袋には罪はねーだろー?許してやれよー」
「うんにゃ、持ち主の罪は持ち物の罪よ」
「謝罪の気持ちだったのかもしんねーし…」
「あの言い種のどこらへんに謝罪の気持ちがあったっていうのよ」
御説ご尤も。
もともと、東方の二人組に対して、何の恩義がある訳でもないその男は、自分がアキラの不興を買ってまで、彼等の弁護をしよう、という気は毛頭なかった。
「ま、いいけどね」
あっさりとこの話題からは、手を引く。
「んじゃ、その袋。いらないんだったら、俺にくれよ」
他の男が口を出した。
「何かいい物入ってるかもしんねーし」
「あーん?いいものー?」
その時だった。アキラの渾身のキックに遂に堪え切れなくなったのか、革袋の口が緩んで、その中身が零れ出した。
人々の目を射るその黄金の輝き。
「…カガリヤ金貨だぜ…」
店内の誰かが呟いた。
カガリヤ金貨。貿易経済都市カガリヤの政府が発行している貨幣である。ほぼ純金で作られたそれ自体の価値と相まって、今現在、西方世界で最も信用度の高い金貨という事になる。大口の商取引等では、カガリヤ金貨を使うというのが、通例なのだが。
「…俺、カガリヤ金貨なんて初めて見た」
下町の人間には、あまり馴染みのないものであるのも、また事実である。
「うおーっ、あんなに一杯」
人々の注視と興奮に満ちた囁きの中、アキラはいそいそと袋を拾い上げた。
「アキラー、その袋、いらないんじゃなかったのかよー」
「誰がそんな事、言った?」
「『持ち主の罪は、持ち物の罪』じゃなかったのか?」
「これはあの子供の持ち物じゃなくて、私の拾い物よ」
屈理屈をこねさせたら、アキラの右に出る者はいない。
常日頃、行きずりの嫌なお客は一夜で忘れてしまう事にしているけれど、あの東方の二人連れの事は、当分忘れられそうにない。そして、また何処かで再会するような気がするのだ。
まだ、漠然とした予感ながら、それは多分、当たっている。
周囲のブーイングには全く耳を貸さず、袋の中の金貨の数を勘定しながら、アキラは思った。



「あんなに目立ってどうすんですか!」
青年が苛立たしげに少年を向き直った。少年は、物憂げに髪をかき上げる。
「…うー、頭がぐらぐらするー…」
「当たり前です。火酒なんか一気飲みしたんですから。たまには良い薬です。本当に、いつもいつも人にいらん世話ばっかり掛けさせるんだから…」
丁寧な口調でズバズバと物を言う。どうやら、青年の本質も、外見だけでは計れないものであるようだ。
少年は、ふてくされたように唇を尖らせた。何か反論があるらしい。
「大体、あんなにカガリヤ金貨なんか置いてきて!帝国での通貨レート、知らないんですか?!」
腹立ち交じりのその言葉に、少年は一瞬虚を衝かれた。しかし、ここで「知らない」と答えたら、ぶん殴られそうな勢いなので、無言でそっぽを向く事を答えとする。青年自身も、別段答えを求めていた訳でもないらしい。少年の返答は待たずに、そのまま続ける。
「カガリヤ金貨一枚で、家族5人が一ヶ月暮らせますよ!それを、あんなにたくさんあげて、どーするんです。怪しまれちゃいますよ!!」
「…だって、あの女…」
少年の不承不承の呟きに、青年は耳をそばだてる。
「何だか、変だったんだ。あの女みたいな視線には、今まで会ったことがない。何て言うのか、こう…」
その感覚を上手く表現する言葉が見付からないらしい少年が、もどかしげに握った拳を組み替える。
「凄く、気持ちが悪かった…」
少年の顔に視線を投げたまま、青年も先程の酒場の娘を思い浮かべていた。
少年へと注がれた視線は、今まで彼の浴びてきたものと、大きく違う。憎悪、軽侮、怒り、裏に反抗を秘めた恭順。卑屈な追従。そんなものは、微塵も含んではいなかった。最も近いものがあるとすれば、それは、値踏み…だろうか。そして、少年を『見た事がある』と言った彼女。今まで、少年の西方の表舞台に顔を出すような機会は、ほぼ皆無であったにも係わらず、だ。
「気の所為ですよ」
しかし、青年の口から出たのは、そんな言葉だった。
あの娘については、しばらくは目を離さないようにして、様子を見よう。我々の正体に気付いていないのならばそれでよし。しかし、気付いているようならば、何かとんでもない事でも言い出さないうちに、手っ取り早く『事故死』してもらった方がいいのかもしれない。
そんな物騒な事を考えているとは夢にも思われない、悪戯っ子めいた表情の中に、青年は少々意地悪げな笑みを映した。
(まあ、いい。あの娘の始末については、後でゆっくり考えよう。それよりも、今は…)
青年は続ける。
「それに、それは『だから派手な行動を取っても大丈夫』という事にはなりませんね」
「…そんなに目立ってはいなかった…」
「大いに目立っていましたよ。俺達は物見遊山で帝国まできた訳じゃないんですよ。判ってます?国内の情勢や兵の配置、軍備状況を調べるためにやってきた、いわば、間者です。誰かに顔を覚えられてしまうような行動はなるべく慎むべきなんです。大体、今回の潜入は、あーたがお偉いさん達の反対押し退けて、俺への同行を強行したんでしょーが。少しぐらい、大人しくしててほしい、と俺が願ったって、罰は当たらないと思いますがね」
全く情け容赦がない。子供のように口を尖らせての少年の言は、立て板に水、と捲し立てる青年にあっさりと潰された。
「…だって、それは俺の所為ばかりじゃ…」
「陛下」
やんわりと少年を遮った青年の言葉は、しかし、有無を言わせぬ力を秘めていた。幼少の頃、目付役という名目で側付きになった3つ上の青年は、気の置けぬ友人から、一瞬にして、年に似合わぬ切れ者と評判も高い国王側近の顔になる。『陛下』と呼ばれた少年を彩っていた子供っぽい表情も、拭い去られるように消えた。
「…済まなかった。通貨レートに関しては、確かに俺の認識不足だった」
青年を見据えて、一語一語噛み締めるように言う。
「これからは経済に関しても、もっと目を向けるようにする」
己の不明を恥じいるような少年の言に、青年は明るい笑みでもって答えた。
「判りゃ、いいんです」
本当は、今回のような不慮の事故は、ある程度予測していたのだ。何も言わず、何もせず、ただ大人しく付いてくるだけ、なんて、この年下の主君にできるはずもない、と高を括っていたから。…と、真実を洩らせば、少年がガーガー言う事も判り切っているし、甘やかすのもよくないので、取り敢えず、怒っておいただけの事だ。しかし、今回は、事故がいい方向に向いたようだ。災い転じて福と成す、とは、まさにこの事だ。
これで少年は、今後、他国の経済、というものにも多少なりと意識を向けるようになるだろう。それは、少年の王としての統率力、支配力を磨くだけではなく、彼等の国の力自体の増加にも繋がる事になる。
青年の笑みが深くなる。
少年も、不敵な視線を返した。
まだまだ、自分は力が足りない。だが、手に入れる。欲しいものは全て自分の手で。その為に、手段を選ぶ気は毛頭ない。今までも、そうやってここまで来たのだから。例え、後世の人間に『悪魔』と罵られる事になろうとも構わない。きっと後梅はしないだろう。
たった一人の理解者でもある青年の目の中に、燃える野望の火を見てとって、少年は口角を笑いの形に吊り上げた。
きっと、今の自分の目も、彼と同じ色をしているであろうから。
千年の時を経た世界最古の国。その歴史を感じさせる古い石畳とさらに旧い神々の神殿の残る帝都。世界に唯一人の皇帝の居ます街。
(いつか、全てを手に入れる)
「行くぞ、チバ」
青年…チバ…とその背後、遠く映る皇帝宮…金翼宮…とに背を向けた少年は、東方方面に開かれた城門に向かって、大きく一歩を踏み出した。



東方の新興国であり、また、最強国でもある沙那王国は、若干14才の慶彦王子の即位後、2年を経ずして、狩野流帝国を滅ぼす事により、名実共に世界最大最強国となる。
沙那帝国初代皇帝、征服王、又は、殺人王とも、後の歴史書に語られる事になる希代の英雄も、しかし、まだ、東方の辺境国の少年王でしかない。
今は昔。これは、そんな遥かな過去の物語である。



END
(1995.1.18発表) 



こちら、昔、友人への誕生日プレゼントとして書いた物でした。
あ、ちゃんとしたプレゼントもありましたよ。この限定1部コピー本は、あくまでもおまけ。
作中登場のアキラは、彼女のペンネームから取りました。
彼女リクエストのヨシヒコ陛下×アキラ。
だがしかし。渡した後でクレームついた。
「なんで、陛下と結婚するお姫様じゃないのよぅ」<アキラ
無茶言うな。








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