WATER GARDEN〜水の王国 +++ 深緑のエデン編・外伝


蒼天 我が上に 落ちきたらんとも
地割れて 我を 呑み込まんとも
我が思い 変わることなし
よし 運命が我らをわかつとも
我が心 御身よりわかつことのかなうもの
そは 《死》よりおいて 他になし

婚姻の聖句より



一年を通じて、祭りというものは多々あれども、ここカガリヤに於いて、新年の祭りのすぐ後にやってくる建国祭ほど、盛況を誇るものはないであろう。
日頃、質実勤勉なこの街の人々も、この日ばかりは男も女も、老いも若きも、朝からとっておきの晴れ着を身に纏い、今日という日を互いに祝い合う。
まず家族、そして、ごく親しい人々。
一年を無事に過ごしてこれた事を祝い、今後の一年も豊かな年である事を祈る。西方最大の祭日である神聖神澱の『聖者生誕祭』の日も、礼拝後はいつも通りの仕事に明け暮れる人々にとって、この日こそが真の祝祭日なのだ。
ごく近しい者との挨拶をすませた人々は、港へと向かう。そこに拓ける海原は、カガリヤの人々にとって、身近な自然以上の意味を持つ。何よりも、海洋貿易で生きているという自覚のあるこの国の人々にとって海は、生きていく上で欠く事のできない、何者にも代え難い大切な存在なのである。



チカモリが、この国と同じ名で呼ぱれる港に馬車で乗りつけた時には、そこはもう群衆で一杯だった。大公から向けられた美麗な馬車を断って、自らの目立たぬ小型のもので来たものだから、途中から先に進めなくなってしまったのだ。
「いいわ、お前はここでお帰りなさいo日暮れ頃に至玉宮まで迎えにきてくれれぱいいから」
眼前の道を塞ぐ人の波に困惑する御者にそう言い置いて、チカモリは素早く馬車から下り立った。
ベルベットの光沢を持った、柔らかな真紺のドレス。飾り物は小さなイヤリングがひとつ。女にしてはかなり短い髪は、布をべールのように纏う事で目立たなくした。これならば、街娘でも通るだろう。……街娘にしては、ドレスが立派すぎるかも知れないが。
チカモリは、己の身を包むドレスに改めて目を向けた。飾り布もレースもリボンも使わない、ごくシンプルなドレスながら、その布の手触りといい、縫いを感じさせない流れるようなラインといい、見る者が見れば、最高級、と瞠目するであろう一品である。
大公からの降るようにあったプレゼントの中で、唯一、いつものように送り返したりせずに、はにかんだ礼状を書いたもの。
「お、お待ち下さい、お嬢様。このような所に供も連れずに。もし何かございましたら…」
その時の事を思い出し、しばし穏やかな思いに浸ったチカモリだったが、その驚愕を交えた声に我に返って、御者に目を向ける。
「何を言っているの。今日は無礼講でしょ。お前も屋敷に帰って、ゆっくりするといいわ」
後はその制止の言葉も耳に入らぬげに、すぐに雑踏の中に紛れて行く。ぴんと姿勢を立てたその姿の醸す気迫のようなものも、到底、ただの街娘に持ち得るようなものではなかったのだが。



いつもならば港に浮かんでいる沢山の商船も、何処へ行ったものやら、一隻も目に入らない。たった一つ、港の中央に位置するように横付けされている、大公の御用船を除いては。
その御用船から放射状に、人々はぎっしりと集まっていた。街の人、観光客。諸外国の大使や元老院に議席を持つカガリヤ貴族などは、特別に設けられた貴賓席に既についている。場所取りに余念のなかった人々も今では大分落ち着いて、お喋りに興じる余裕も生じてきたらしい。隣り合わせになった人と挨拶を交わし、取り止めもない事を語り合う。
しかし、そのざわめきも、正午に近くなるにつれて、徐々に興奮に満ちたものとなり、全ての者の意識が、港から大橋で繋がれた一直線に伸びる路の終点、大公宮…別名、至玉宮…に集中してくるのが判る。
遠く、馬車の引かれる音が響いてくるような気がする。
いや、気のせいではない。石畳を踏む轍の音。
大公の馬車。
御用船の前まできて、ゆっくりと止まった馬車から、壮麗な衣装に身を包んだ大公が姿を現すと、歓声が爆発する。カガリヤの結婚衣装の上に、ベルベットの光沢を持つ真紺のマント。ほんの3年程前に即位したまだうら若いといっていいイナバ大公は、しかし、早くも国内外に名君の誉れも高い。尚かつ、壮麗な衣装に負けない容姿、その堂々とした物腰に、誇らかな気持ちを隠し切れない民衆は、熟狂的な歓呼の声をもって大公を迎えた。
その大公は常のごとく、何者にも動じない鷹揚さで御用船へと歩む。
いよいよカガリヤの建国祭、海との婚姻祭が始まる。
チカモリはその様子を少し離れた場所から見ていた。大公から程近い場所に設けられている貴賓席に、ひとつだけ空席があるのが目に入る。 大公がチカモリの為にと用意した席だった。
それを見るともなく眺めながら、チカモリは昨晩の事を思い返していた。



裾を引きずるドレスが密やかな衣擦れの音を立てる。華やかな色合いのドレスに負けぬ、艶やかな淑女達が笑いさんざめく。そして、ドレスの波を渡る、趣向を凝らした衣装を身に纏った貴公子達。
しかし、建国祭の前夜に催される大公主催のこのパーティで、最も異彩を放っていたのは、この人物であったろう。
肩口までで切り揃えられた髪。体にぴったりとしたパンツ。膝まで届くスリムなブーツ。金糸銀糸で縫い取られた、腰まですっぽりと包み込む上着。背に揺れる短い飾りマントを見るまでもなく、それは西方文化、殊にカナンの貴公子の衣装であった。
しかし、細身の肢体を繊細華麗な衣装で包んだその人物は、男性にしては面立ちが端麗すぎる。そして、そのきっぱりとした気性を現す目の光は、女性としては強すぎた。
チカモリ女伯爵。
チカモリ老伯爵の孫娘であった彼女の異例の爵位継承以来、彼女はここカガリヤ社交界の台風の目のような存在となっている。
一つには、今までカガリヤに於いて、女が爵位を継いだ前例はない事。
そして、もう一つ。今年18になる彼女が生まれるよりもずっと前に、前チカモリ伯爵が行方知れずになっているという事。
つまり、彼女がチカモリ伯爵家の血を引かない事は明白なのである。
なのに、彼女は大公のお声掛かりで爵位を継いだ。その理由を、大公の彼女に対する周囲を気にせぬ溺愛ぶりに求める貴族達は多かった。ゆくゆくは、彼女を大公夫人にする為の爵位なのだろう、と。
その噂に端を発する諸貴族達の追従やその裏での陰口にも、しかし、チカモリ女伯はあくまでも平静を保っていた。今日も他の貴族達を避けて窓際に佇んでいる。
周囲が急に湧いた。
大公の登場だ。
臣下の礼をとる貴族達に鷹揚に頷きかけ、イナバ大公はゆったりと周囲を見渡した。すぐに、壁際でグラスを傾けているチカモリに気付いて、そちらに歩み寄る。
「伯爵。久しいではないか」
イナバ大公は、どのような席であっても、国賓待遇の客でもいない限りは、初めにチカモリに声を掛ける。だから、怪しげな噂が飛ぶんだ、と半ば苦々しげに思いながら、そんな心は一片も外に出さず、チカモリはゆっくりとグラスをテーブルに戻し、臣下の礼をとった。
「つい先だっての園遊会でもお会いしましたが」
チカモリの皮肉交じりの言葉にも動ぜず、イナバは笑う。彼に対して、こんな恐れ知らずの言葉を吐けるのも、彼女くらいのものだろう。
「まあ、そういうな。そなたの顔をゆっくり見る事ができるのは、随分と久し振りなのだからな」
そして、チカモリの手を取った。
「ファースト・ダンスとラスト・ダンスは、当然付き合ってもらえるのであろうな?」
「私、このような姿なのですが…」
「余はいっこうに構わぬぞ」
そして、悪戯っぽい笑みを浮かべたイナバに、いつも押し切られてしまうのだ。
チカモリは、これでまた噂に拍車を掛けてしまう、と小さく溜息を洩らしながらも、ホールに一歩を踏み出した。



「やれやれ、君主言葉も疲れるよ」
「板に付いているように見えますが。威厳に溢れているようにも見えますし」
「昔っからののんき者だからな。それを『鷹揚な威厳』と取ってもらえたりして、こっちの方が戸惑ってしまう」
照れたように笑うイナバを前にチカモリは、結構、自分の事が判っているんだな、と思ったが口には出さなかった。
カガリヤに昔から伝わる、古い古い旋律のワルツ。ホールの真ん中で、二人はゆっくりとターンを切った。大公のダンスを邪魔しないよう、周囲の貴族達も極力、近付かない位置で踊っている。その話し声が他に洩れる事はあるまいが、小さく囁き合っている二人はまるで、周囲からは恋人同士の語らいのシーンのように見えるのかもしれない。…男装したチカモリの美少年ぶりが、多少、妖しさを醸してはいたのだが。
「今度、ケンタにイグチの名を継がせようと思ってる」
「イグチ…」
それは、50年程前に絶えた子爵家のひとつだった。チカモリはイナバからよく聞かされ、しかし、一度も会った事のない少年の名を呟いた。
「イグチ・ケンタ…ですか。よろしいんじゃございません?いい名前ですわ」
「そう思うか?」
途端に相好を崩す大公を前に、チカモリは呆れた。
多分、イグチ家を選んだのは、ケンタの名の響きに一番よく似合う、とかそういった理由なのだろう。
(本当に子供みたいなんだから…)
これでいて、元老院議会では議長、公式外交の場では第一級外交官として辣腕を振るってしまうのだから、人間って判らない、と思うのだ。
だけど、チカモリは知っている。
イナバが、本当の自分の顔を見せてくれるのは、気を許したほんの少数の人々にだけなのだ。
彼は自分に心を開いてくれている。
その思いはチカモリの口元に微かな、しかし、確かに誇らかな笑みを浮かばせる。
「だがな、どうも十人委員会の大老達(じじいども)が難癖つけてきそうな気がするんだ」
(…そりゃ、つけるでしょうね…)
チカモリは、軽やかにワルツのステップを踏みながら考える。
イグチ子爵家は、直系血族が絶えた為に没落したが、元々は大公家とも血縁を持った古い家柄なのだ。そんなに気安く、与えるの何のとできるようなものでは決してない。ましてやケンタには、チカモリのように、血は引いていなくとも伯爵夫人の子である、とかいう既成事実がある訳でもない。もし、過去のイグチ家の持つ領地と財産をそのまま受け継がせる事になりでもしたら、カガリヤ貴族の経済勢力図はたやすく塗り替えられてしまうだろう。たった15才の孤児ひとりの為に。
そこまで考えて、チカモリは眉根を寄せた。何だか、嫌な予感がする。
「そこで、お前にも手伝ってほしい」
予感は的中した。
そんな十人委員会はおろか、元老院議会からの非難をも集中すると判り切っている問題に、わざわざ自分を引きずり込もうというのか、このオッサンは。
「…それは、女の身でありながら、やはりご自身の手で伯爵位を継承させた臣下に対する命ですか?」
挑戦的に見返すチカモリの視線を外すことなく見つめ返し、イナバは小さく笑った。
「いや、この世でたった一人の異母妹(いもうと)に対する嘆願だ」
チカモリも思わず苦笑する。…笑うしかなかった。
もうすぐ、曲が終わる。
「では、その『たった一人の異母妹』からのご忠告。ラスト・ダンスのパートナーくらい、私(いもうと)以外の相手をお見つけなさい。そうでないと、私も恋人一人作れません」
言い捨てるとチカモリは、男性式にダンスの最後の礼を取って踵を返すと、また先程までいた壁際に歩を向け、振り返りもしない。そのつれない様子に苦笑すると、イナバはゆっくりと…周囲によると、鷹揚な威厳を持って…大公席へと足を運んだ。



イナバの『異母妹』という言葉に生じた、泣き出してしまいたいような感情は一体何だったのだろう。
チカモリは考える。イナバから贈られた、彼の身に付けているマントと同じ布で作られたドレスの手触りを楽しみながら、考えてみる。
初めて会ったのは、ほんの小さな頃だった。当時、本来の当主である息子の失踪によって、前伯爵に当たる老伯爵が当主代理として、大公の前に控えていた。その彼女の血の繋がらない祖父が、大公に彼女の顔を見せる為に至玉官に連れてきたのだ。何も知らなかった彼女は、重厚な威厳に満ちた大公の視線の前に固くなって、立ち竦んで怯えていた。どうしたらいいか判らなかった彼女を救い出してくれたのが、当時は公子だったイナバだった。
「父上、あの子とあっちで遊んできてもいいでしょう?僕、あんな妹が欲しかったんだ」
その時から、10才年上の公子は彼女の憧れの人だった。今から思えば、あの時にはもう祖父も、本当の父である大公も、イナバも全て知っていたのだと判る。
(…それを、大公崩御の前日までバックレてやがったのよね、あの男は…)
優しくドレスの裾をさ迷っていた手が思わず、強く握り締められる。が、ドレスが皺になる、と思い直し、慌ててその手を外した。
御用船では婚姻の儀式がいよいよクライマックスに差し掛かっているらしい。司祭の口から流れる聖句に重なって、イナバ大公の朗々とした声が響いた。
「お前と結婚する、海よ。永遠にお前が私のものであるように」
そして、背後に控える小姓から純金造りの指輪を受け取ると、無造作に海へと掲げた。
「私は永遠にお前と共にある」
そのまま、指輪は海中に落とされる。そして、爆発的な歓声。これで建国祭の始まりを飾る、婚姻の儀式は終わる。この後は祝杯だ。至玉宮前で一週間に亘って振る舞われるワインを味わう為に、皆で宮に向かうのだ。
「…ちぇっ、つまんねーじゃねーか。こんな芝居じみたモン見てたってよ」
「タカちゃんってば。これはずーっと昔から続けられてきた、伝統のある…」
「『タカちゃん』なんて、呼ぶんじゃねーって言ってんだろ!おめーは!!」
「だって……」
「『だって』じゃねーよ!」
「…うん」
チカモリは、すぐ近くに一風変わった少年二人組がいるのに気が付いた。典型的な隊商の衣装だ。身を包んだローブ状のマントからも察せられる逞しい体付き。浅黒く日焼けしたその少年が、己よりも更に一回り近く大きな少年に食ってかかっている。これだけならば、ただ『変わってる』だけで終わったであろうチカモリの気を引いたのは、続く少年の言葉だった。
「よーするに、海なしではお前達は生きちゃいけねーんだって、みんなに自覚させるのと、外国に国民の一致団結ぶりと海への執着を印象づける為にやってる事なんだろ。とんだ茶番じゃねーか」
口調は乱暴ながらも真実を見通したその言葉に、チカモリが改めて少年達に目を向けようとした時、周囲は沸き起こる大歓声に飲み込まれた。
「万歳、大公万歳」
「カガリヤ万歳」
「海に乾杯」
群衆の波から、少年達を捜し出そうと目を凝らしてみたが、もう先程まで居た場所に彼等はいなかった。多分、大きな少年が周囲の熟狂を思い計って、過激な口を利く少年をこの場から連れ出したのだろう。
いささか掻き立てられていた好奇心も、それで失せた。そのまま、チカモリは気を熟狂の中心に立つ大公に移した。
群衆の歓呼の声に答えて手を振るイナバ大公のマントが、海風に煽られてゆっくりと広がる。陽光に露わにされたそれは、神聖神殿の教義では『忌負』の色とされながらも、カガリヤでは『高貴』を表し、大公家の者にしか纏う事を許されない紫の色をしていた。



END
(1994.11.27発表) 



さすが、自分の楽しみのためのみに書いてただけの事はある。
見事なまでに、ワタクシの好みを露呈しておりますよ。
がっちりしてて男くさくて、しかし、いい意味で子供っぽい男。
めちゃ気丈なんだけど、なにげに可愛らしいヒロイン。
決して許されぬ相手に対する、ほのかすぎる恋心。
いやはや、なんとも。








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