「ただちょっと言っておきたかっただけ」





中国は時に、ふらりと日本宅を訪れる。それは大抵が夕暮れ時、更に言うなら黄昏時で、それは彼が日本に会いに来るという事実を自分でも否定したい故なのかもしれないと日本は思っている。誰彼時。人影は見えてもそれが誰かは判らない。勿論、日本に来訪者を見誤らせる事などなく、それは明らかに中国であったのだが、それでも黄昏時、庭に直接現れる者を誰何する事も、来訪目的を問う事もない。既に周囲は暗く夜の気配が漂い始めて、それでも明かりを付けぬまま、二人並んで縁側に座る。茶なり酒なり、その時用意するものは気分だ。
二人はぽつぽつと会話をする。それはいつも他愛のない話ばかりだった。過去の遺恨も現在の両国間に横たわる種々の問題も口の端には上らせないというのが、どちらから言うともなく定められた規則のようなものとなっていた。
日本は彼とこうして過ごすのが、嫌いではなかった。いつの間にやら、彼の訪ないを待つ心地にまでなっている己に苦笑した事も一度ならずある。既に習い性となっている、気を遣う、という挙動をあまり必要としないせいかもしれない。所詮は中国さんですしね、と中国に対して失礼千万な事を考える。
それでも、相手にとってよりよいもてなしを心掛けるのは、日本にとっては気遣いを超えた本能のようなものだ。今回出した茶請けは中国菓子。和菓子よりは彼の口に合うだろうと思ったのだけれど、どうやら怪しんでもいる様子だった。ああ、と日本は察する。この菓子は見るからに中国本国のものではない。洋風でもあり、その折衷具合はどこか日本的でもある。何も告げなければ、日本で作られた品かと思ってくれそうだったが、日本は正直に言う事にした。そもそも、隠す必要もない話だ。
「香港さんから頂いたものです。最近は時々こちらにいらして下さるんですよ。私のところの料理を気に入って下さっていて」
彼は香港や台湾が日本に近づくのを快く思っていない。恐らく、己の懐にある、またはそのように思っている存在が己のあずかり知らぬところで行動しているのが気に入らないのだろう。日本の倍ほども年齢を重ねたこの老国はひどく子供っぽい側面を持っている。
案の定、「聞いていないね」と彼は顔を蹙めたが、「何かあった折りに、ついでに立ち寄っていかれるだけですから」と、軽く告げる。言うほどもない話なのだと。誰だって、道端で出会った人について、全て報告する訳でもないだろう。それと同じ事だと。
それに少し不服そうな顔をしていた中国は、しかしやがて溜息を吐いて、出された緑茶に口を付けた。完全に納得はしていないが、許容はした。そんな中国の内心が手に取るように判って、日本は袖の影でこっそり苦笑した。日本が笑ったと気づいたら、また機嫌が悪くなるだろうから、あくまでもこっそりと。
日本にとって、香港はある意味とても大切な存在だ。中国のように否応もない時古く化石した絆がある訳でなく、韓国のように日本の全てを否定するでもなく、台湾のように日本の全てを肯定するでもない。香港は己の見たままの日本をただ、そういう存在だと認識しているに過ぎない。少なくとも、日本はそのように感じている。
イギリスさんのお宅にいる期間が長かったからでしょうか。
情と切り離した認識論は、何処か西欧的でもある。ああ、またイギリスだ。日本は今更のように気づいた。本当に己はイギリスと縁がある存在と縁がある。なのに、イギリス自身とは縁がないとは皮肉な話だ。
イギリスとは一度、同盟を結んだ事があった。ロシアとの戦争の前、日本がまだ力ない東の果ての小国であった頃の話だ。苛烈で傲慢な、力に満ちた西の大国。幾度か互いに行き来した。それだけであったけれども、彼は物慣れない日本にも親切に接してくれた。己の懐に入った者にはひどく優しい人なのだと感じられた。けれど日本は、彼の懐に入り切れなかった。ほんの少し遠い。そういった縁なのだろうと思う。
ああ、そういえば。
目の前の老国もまた、イギリスとは縁がある。一度阿片に病んだ彼は今でもイギリスを「あへん」と呼ぶ。忘れはしないと皮肉を込めて。
「何ね」
言葉もなく微笑んだ日本を訝しんだ中国からの問いに、日本は応えた。
「イギリスさんとは不可思議なえにしがあるなぁと思いまして」
先の香港の話と中国自身と。日本の言いたい事が判ったのだろう中国は心底嫌そうに顔を蹙める。
「そんな縁、豚にでも喰わせてしまえばいいよろし」
敵のように中国は言う。実際、不倶戴天とも言うべき敵であると思っているのかもしれない。中国にとってイギリスに煮え湯を飲まされた過去は決して忘れられぬ忌むべきものであるのだろう。
中国は、日本のイギリスへの想いを知っている。
普段、全く相手に気など遣わない、気など回さない、故に相手の変調を前もって気づくなどという事が一切ない中国にそれを指摘された時には、それはそれは驚いたものだが、今では中国が知っていてくれるのはありがたいと思っている。何しろ、日本の想いをイギリスに暴露するなんて、中国なら決してしないだろうから。「する訳ないある。忌々しい」と吐き捨てる中国の姿まで鮮明に思い浮かんでしまって、日本はますます微笑う。ますます中国に仏頂面をさせると判ってはいるのだが。
もし気づかれたのが、彼の元弟であり何故か己に懐いている年若い大国か、彼の悪友…当人達は口を揃えて否定するだろうけれど、日本から見た彼等は悪友という名の友人関係以外の何物でもない…である、昔から己の文化を好意的な興味を持って見てくれる欧州の青年だったら、面白がって日本の想いを彼に告げて、彼をからかった事だろう。彼等に全く悪意はないだろうが、細やかな心遣いというものはあの二人には期待できない。彼に迷惑を掛けるのは、日本にとって本意ではない。
だからこそ、たまに心を偽らず、気づかれまいと気を張る事もせず、こうして彼に関する事でも話をできる相手があるというのは嬉しい事だった。中国にとってはとんだ災難というものかも知れないが、少々の事は甘受してもらいたい。それこそ、中国と日本とは古い古い知り合いなのだから。
夜の湿った空気が庭を満たしていた。自然に近い状態に作られた日本の庭には、そこに生きる小さな者の気配がそこかしこに感じられる。夏は蛍の光が過ぎり、秋は虫の声が響く。春の暖かな風も冬の張りつめて凍る空気も、移り変わる季節を感じさせる物事を日本は愛していたけれど、こうして古い知り合いが隣にいるのも悪くない。そう思っていたのだけれど、相手は日本のように満ち足りた気分でいた訳でもなかったらしい。
「…いい加減、堕としちまえばいいある」
彼は如何にも不機嫌そうな様子で呟いた。



日本はまじまじと中国を見つめた。明かりといったら外の微弱な自然光のみで、けれど流石に隣に座る相手の表情くらいは見えた。中国はむっつりと面白くもなさそうな顔をして手の中の湯飲みを弄っている。日本が用意した、中国が訪れた時にだけ使う彼専用の湯飲み。
中国と湯飲みとの間を幾度かうろうろと彷徨った日本の視線がようやっと中国へと戻って、幾度か口を開いては閉じるを繰り返した後、日本は恐る恐るといった様子で言った。
「………えーと、もしかして、イギリスさんの事を言ってますか?」
「他に誰がいるね。香港か?」
「いえ。私は貴方の弟さんに手を出すほど、悪趣味ではありませんよ」
香港さんが魅力的ではないとは言いませんけど、と言い足すと、胡乱気な様子で睨まれた。だから、手は出さないと言っているのに。香港さんへのフォローすら認められませんか。どれだけ信用ないんでしょうね私。
直情径行の中国の面には、今現在の彼の感情が包み隠さず現れていて、日本は「話を逸らすつもりはありませんよ」と軽く両の手を挙げる。己の信用のなさ加減を突き詰めるよりは、話を元に戻した方が建設的だ。
「中国さん。そういう関係というのは、基本的に互いの合意の上に成り立つものなんですよ」
判ります?と小首を傾げたら、中国はむっとしたような顔をした。だから何だ、と言いたいらしい。勿論、イギリスにも選ぶ権利というものがあるだろう、と言いたいのだ。けれど、中国には伝わらない。仕方がないので、更に言い足す。
「西方のお国は、男同士の性愛を忌避する傾向がありまして」
文化の違いってのはあるよな、と言いにくそうに呟いて、その赤い目をうろうろさせた後、欧州ではそういうのはあんまり言わない方がいいぞ、と忠告してくれたのは、日本の古い友人だった。西欧流の陸での戦い方と国家の規範は如何なるべきかを教えてくれた恩師でもあったが、日本は彼の念弟にはならなかった。彼等の神がそれを許さないのだという。禁忌なのだと。
歴史と国民の思想、特に宗教は国である彼等の人となりへと反映される。長らく男色文化を育んできたような東方とは事情が違うのだ。
「そんなの関係ないね」
「いや、ありますから」
もの凄く重要ですから。聞いて下さいよ人の話を。
続けようとした日本は、しかし、先に中国の放った台詞に、言うべき言葉を失った。
「お前が堕とそうとして、堕ちない者などいないね」
まじまじと、どころではなく、ぽかんと中国を見つめる。彼は自分が何を言っているか判っているのだろうか。中国の目には日本は傾城傾国とでも映っているのか。まさか。
中国が日本の事を未だ弟のように、どこかで自分の庇護下にあるもののように思っているという事は知っている。だからこれは、うちの子はこんなに賢いから、などというような親バカ全開の台詞なのだ恐らく。実に痛い。
身贔屓にも程があるでしょう、と日本は言いたかった。しかし、その代わりにひとつ、深く静かな溜息。
「中国さんが私を高く買って下さるのは、とても嬉しいのですが…」
中国だって、彼等とはそれなりに付き合いがあるはずだ。なのに何故、気づいていないのだろう。気づかない人だからか。他者に興味を持たない、気を遣わないから気づかない。日本は軽い頭痛を覚える。
「生憎と彼等の目には、私はそんなに魅力的には映らないのですよ」
残念ながら、と日本はもうひとつ溜息。
「オリエンタルと持て囃されるにも、彼等なりの基準があるんです。中国さんのように華やかでもなく、韓国さんのように精悍でもない私は、ただの貧相な小男にすぎません」
日本にだって自尊心はある。自分がただみっともない、全く見るにも耐えぬ存在であると心底思っている訳でもない。けれども、評価は常に他者がするものだ。
確かに、亜細亜では日本は受け入れられている。好意を持ってかどうかは判らないけれど、少なくとも日本を取るに足らぬものだと見る者は何処にもいない。特に中国には、日本の外見もその固有言語の響きも好ましく映っているらしい。多大なる身贔屓が影響している事も考え合わせるべきではあるが。
けれど、欧米にはそれは決して通用しない。
力さえあれば受け入れられはする。彼等の世界はただひたすらに実力主義だ。それでも開国して力を蓄え、彼等の中に分け入った日本にとって、黄色い猿、イエローペリルと見下され悪罵されたのはそう古い昔の話でもなく、日本の記憶には今でも鮮明に残っている。
今度は呆気にとられて黙り込んだのは中国の方だった。
「………お前、本気で言ってるあるか??」
「こんな事、冗談で言うはずないでしょう」
中国よりも日本の方が彼等の考え方を知っている。日本は亜細亜以外のあらゆる場所の国、勿論西欧にも友人と呼べる国を数多く持っている。一部で八方美人と陰口を叩かれるくらいに。
彼等の目に映る日本には、魅力がない。そもそも、彼等には男を恋愛対象とする文化的素地もない。
その上、イギリスの日本に対する感情は古い知り合いに対するものでしかないと、日本は知っている。主要八カ国として、世界会議以外にも顔を合わせる機会も多い現在、友好的な関係を構築していくべきだと割り切っているのだろう彼は、己にも親切に紳士的に接してはくれるけれど、実際には過去、彼と敵対した事もあった己は恐らく、どちらかといえば嫌われている、と思う。日本の気持ちがイギリスに知れたら、さだめし彼を困惑させる事だろう。更に言うなら、嫌がられるだろうと思う。もし、己がイギリスの立場だったら、と考え合わせて、日本は即答したものだ。「面倒くさい」と。
なのに、外交関係が続く限り、両国間の付き合いは続く。双方共に居心地の悪い思いをする事になる。
それこそ、冗談ではなかった。
「ですから、もうこのお話は終わりにして下さい。そもそも、始めから私にはイギリスさんをどうこうする気はないんですから」
日本だって最早、情人を作る気などない。昔ならいざ知らず、今の日本は随分と年を取っていて、情熱を持続させなければならない関係を新たに構築する事など考えただけでも億劫だった。


だから、今のままでいい。今のままが一番いいのだ。


完全に心を隠して、イギリスとの間に距離と節度を持った抑制の利いた友好関係を築く事。たまにいつもの八つ橋を緩め、中国と心を覗かせる会話を交わす事。日本は現状に満足している。
「今までのようにこっそり観察して、今日も可愛いなぁなんて思っているだけでいいんですよ。退屈な会議に一服の清涼剤。これぞ癒しというものです」
「………癒し」
中国が如何にも嫌そうに呟いた。
「アレが癒しになるって、お前は悪趣味あるよ」
男の趣味、最悪ある。
ぶつくさと腐しながら、それでも日本の気持ちに目こぼしをする。中国は中国なりに日本を心配しているのだ。
「ええ、本当に」
つい、笑ってしまう。
「だからさっきから、なにねお前は。言いたい事があるならはっきり言うよろし」
きりきりと怒り出した中国に対して、謝罪の言葉を口にする。笑いながらのそれは、ますます中国を怒らせると判ってはいたが、どうにも止められなかった。隠したくもなかった。
お茶のお代わりを入れてきます、と座を立ちながら、胸に生まれたほんのりと暖かな想いに、日本はそっと目を伏せる。水屋へと立ち去り際、ふいと立ち止まり、ついでのように口にした。


「貴方の事も大好きなくらいですから、私も相当に悪趣味ですよね」



END



ただちょっと言っておきたかっただけです。

中国と日本

* 
* 
「…ちょっと待つあるよ。日本。もしやお前、我の事も『可愛い』なんて思ってる訳じゃねーあるな」
「気になるのは、そっちの方なんですか?」


勿論、可愛いと思っています。








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