飛行機雲のストレート


そしてすべての音は
世界へと降り注ぐ



放課後の音楽棟の屋上は、春から初夏に差し掛かるこの時期、最高に気持ちのいい場所のひとつとなる。爽やかな風が通るそこで聴く音楽は最高だと、最近の火原はそう思っている。特にそれが、最近仲良くなった普通科の女の子の奏でる音だったりした場合には。
彼女は音楽に関しては初心者に近かったけれど、学内コンクールの参加者に選ばれた。音楽科の生徒の中には、そのために彼女を悪く言う者もいるという事を火原は知っている。特に自分の音に自信があって、このコンクールに参加したいと思っていた者達にとっては、許し難いものであったらしい。何故、彼女を悪く言うのだろう。あちこちで彼女に対する悪口を耳にする度、火原はいつも義憤に駆られ、そして少し悲しく思う。彼女は少しも悪くない。ただ、妖精が見えてしまっただけだ。件のコンクール参加者の選出基準を今の火原はよく知っていて、だからこそ更に怒りを覚えるのだ。彼女は少しも悪くないのに、と。
それに彼女は努力している。先日行われた第2セレクションでは、第1セレクションの時よりもずっと綺麗な音を奏でていた。彼女が火原よりも順位が上だったのも当然の事だ。
屋上に至る階段を駆け上がる。細く響いてくるヴァイオリンの音は、今ではよく聴き知ったもの。彼女が来ている。知らず浮かぶ口元の微笑み。心が浮き立つ。足取りも軽く、更に駆け上がるスピードを速める。薄暗い階段から、光が溢れる屋上へ。彼女がいるのは屋上の更に上、より風が通る場所。「一番上って何だか気持ちよくないですか?」と内緒事のように告げた彼女に、一も二もなく同意した。「仲間仲間」とはしゃいだ彼女の『仲間』なのが本当に嬉しい。
階段室が塔屋となったその上には、物見台のような場所がある。更に上には空しかない。空しか見えない場所だ。外部階段を上がると、金属板でできた踏み台を叩く靴音故だろうか、それまで背を向けていた少女が振り向いた。
普通科のモスグリーンのセーラー服。赤茶の髪を自然に背に流した彼女が笑う。
「火原先輩、こんにちわ」
「こんにちわ、日野ちゃん」
日野香穂子は普通科の二年生だ。火原は常日頃から友人が多く、その友人網は音楽科はおろか普通科にも及んでいたけれど、彼女と仲良くなったのは最近の事である。正確には、妖精が絡んだ件の学内コンクールが開催されるまでは、互いに見知らぬ者同士だった。なのに、今では友人達のバスケの誘いを蹴って彼女を捜しにきてしまうくらい、彼女と過ごすのが好きなのだ。コンクールなんて全然ガラじゃないけれど、こんな出会いがあるのなら悪くないな、と火原は思う。
「新しい曲の練習?」
「そうなんです。金澤先生から新しいお題をもらって」
香穂子が楽しそうに応じる。火原が見る彼女はいつも楽しそうだ。
香穂子は音楽教諭の金澤から音楽の補習を受けている。実は芸術専攻は美術なのだとは、火原は当人から聞いていた。彼女にとって、このコンクールに参加する事は多分、火原の想像以上に大変な事で、それでも彼女はいつも楽しそうなのだ。今はヴァイオリンを上手に弾けるようになるのが嬉しいのだと。
それは火原にも覚えのある感覚で、火原はただ、香穂子を微笑ましく思う。
その時、にこにこしていた香穂子が、あっと何事か思い出したように、一転ばつの悪そうな顔になった。
「……あー」
そわそわと視線を彷徨わせる。
「誠にもって申し訳ないのですが、ワタクシちょっと先輩に謝罪しなくてはならない事がありまして」
「え、何?」
怖ず怖ずそわそわと常らしからぬその様子。きょろきょろと視線は泳ぎ続け、火原はちょっと心配になる。そして香穂子は勢いよく頭を下げた。既に平身低頭の域だった。
「ほんっとーにすみません!この間お約束した、練習中の歌をお聴かせするって話ですが、ちょっとできなくなりまして」
「え。どうしたの?課題中断になった?」
「いや、そういう訳でもないのです。課題は無事、合格点をもらえたのですが、諸処の事情がありまして、人前で歌うのが憚られる事態に…」
「あ、合格したんだね。おめでとう」
「ありがとうございます」
ぺこり。香穂子が頭を下げた。
話がずれた。
金澤の補習の課題で出たと言っていた歌唱レッスン。どのように歌えばいいのかと彼女が頭を悩ませていたのは、前にここ、音楽棟屋上の物見台で会った時の事だった。恋の歌、その表現について。それが彼女に出された課題。
火原にとって、『恋』は楽しいもの。誰かを好きになるという事は、心が浮き立つ。わくわくする。全てが新鮮で、全部が良くて、正しい。光輝くそんな気持ちだ。
火原の意見が彼女の助けになったかは判らない。多分、あまり参考にはならなかった。けれど、香穂子は照れくさそうに笑って礼を言った。親身に話を聞いてくれたのが嬉しい、とそう言って。蕩けるような香穂子の顔を、その様子を目にして、火原は彼女に何か言いたいと思った。何か伝えなくてはと思った。だけど、何を言うべきなのか判らなかった。
何故だか酷く恥ずかしくなって、火原は話を変えた。その時、金澤から合格をもらえたら歌を聞かせてほしいと彼女に頼んだのだ。
恋を表現するという課題に香穂子はどのような答えを出すのか、知りたいと思った。それは単純な願望。
これまた単純に、数小節分だけ耳が拾った香穂子の歌声をもっと聞きたかっただけ、でもあるのだけれど。
しかし、香穂子の話はさっぱり要領を得ない。理解できたのは、火原に歌声を披露する事はできない、という事。え、それってどういう事?思考が軽く空転する。
火原の前で、香穂子は火原以外の何かを気にしていた。火原と香穂子、明らかに二人しかいないこの物見台で神経質に背後に目を配るその様に、火原は幾度か目を瞬く。
「本当にすみません。だけど、どうか深くは聞かないで下さい。私の身とか精神とかの安全を護るためだと思って!是非!」
どうかこの通り!と、香穂子は手を合わせた。有無を言わさない。反論を許さない。その様子にはあらゆるものを圧倒する何かがあった。
「えっと、…いいよ?そんなに気にしないで?」
火原にそれ以外の何が言えただろう。
「ほんっとすみません。ありがとうございます!これで命、繋がりました!」
「えー。そんな大袈裟な」
「いや!全然、大袈裟なんかじゃありませんよ。命の恩人ですよ!」
既に拝みの体制だった。ぺこぺこと何度も頭を下げる。香穂子特有の言い回しにはもう随分慣れたけれど、やはりちょっと大袈裟だと思う。
香穂子は文字通り命を拾ったとでもいった晴れ晴れとした様子で、手にしていたヴァイオリンを再度肩に当てた。
「代わりと言っては何なんですが、火原先輩。今の曲、ちょっと聴いてみてもらえませんか?それで、講評もらえたら嬉しいです」
言うなり、彼女は弓を引く。揺れない音がすいと出た。火原は思わず息を飲む。
初級者向けの単純なメロディ。けれど判る。彼女の進歩が。
香穂子は日毎に上手くなる。毎日毎日。昨日より今日、今日より明日。今の彼女の演奏を聴いて、初心者だと思う者などもう何処にもいないだろう。
きっと、これからもっと上手くなる。音楽科のヴァイオリン専攻の生徒と比べても遜色ない程に上手く。
最後の一音が細く、けれど弱くはない響きを持って流れた。
「凄い!凄いよ、日野ちゃん!」
夢中で拍手した。凄い、という言葉しか口から出ない。技術という面でも勿論だったが、何より既に彼女の音には、彼女固有の響きがある。それがどんなに凄い事か。
凄い凄いと手を叩く火原に、香穂子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「火原先輩、優しいなぁ」
アレですか!オケ部では、褒めて伸ばす、とかそういう教育方針だとか!
照れ隠しに洒落のめす。自分の凄さには至って無頓着な風で、火原の感動が伝わった様子もない。
「ああ、俺、もっと上手に伝えられたらいいのになぁ」
こんな時は己の語彙の貧困さが恨めしい。溜息を吐くと、「先輩こそ大袈裟ですよ」と彼女が笑う。ちっとも大袈裟なんかじゃないのに。だけど、彼女が笑っているのはいい。ほんわりと胸の奥が暖かくなる。
二人の上には、ただ青い空。爽やかな風だけが吹き抜ける。笑う彼女に笑い返して。ほんわり、ほんわり。ああ、なんて気持ちいいんだろう。
「私、これまで音楽科の人って、別世界の住人みたいに思ってたんですけど」
平和そうに、それでもやはり嬉しそうににこにこ笑いながら、香穂子は言った。
「必ずしもそうじゃないんですよね。火原先輩と仲良くなって、ピアノの伴奏だって、困ってたら森さんが声かけてくれて。…あ。先輩に対して『仲良く』とか、失礼でしたか!」
「いや!そんなの、全然だよ!てか、俺、先輩とかガラじゃないしさ!と、友達、とか思ってくれた方が!!」
もうすっかり仲良しで、友達のつもりだった火原としては、ちょっとショックだ。その上、何とか出した『友達』という単語は、「いえいえ、そこまで図々しくはしませんから安心して下さい」とか適当に流された。ますますショックだった。軽口めいて付け加えられた「そんな、友人の座を争ったりできませんよー」との言葉の意味を彼女に問う事も忘れてしまう程に。
やはり彼女にとっても音楽科はよい印象がないのだろうか。お高くとまっている、とはよく耳にする。火原の普通科の友人達も音楽科を称して、冗談めかして言ったりする。確かにそういうところもある。あると思う。火原だって時に堅苦しく感じる、そういう部分が。だが。だが、しかし!
「日野ちゃんは、音楽科に友達はいないの?」
人とつき合えば、中に入ってしまえば印象など変わる。実際、今、香穂子だってそう言った。火原と仲良くなった、森と知り合った、と。
「セレクションが始まるまでは、いなかったです。本当に、近くて遠い場所、だったんですよね、音楽科って」
はにかむ彼女に、急速に心がしぼむ。そうか。やっぱり壁があったのか。彼女にとっては火原も、馴染みづらいタイプだったのか。
いや。いやいや。それはこれまでの話だ。過去形だ。遙か昔の話だ。今は全く違うのだ。だって、火原は香穂子と仲良くなったのだ!…先輩後輩としてだけど。
自分の考えに自分で凹む。対する香穂子は空いた手で、困った風に頭を掻いた。
「それに私、元々あんまり友達って多くなくてですね」
人付き合いも苦手な方だし、ご迷惑掛けてないといいんですけど。
「え。全然、そんな風に見えないのに」
「そうですか?何かとドン引きされるんですよね、何故か」
何故だか、ちょっぴり判るような気がしたが、そこは素早く否定する。日野香穂子はとても魅力的な少女だ。頑張り家で音楽にひたむきで。一緒にいて気持ちがいい。話していて楽しいし、始めはギスギスしていた他のコンクール参加者だって、香穂子を挟んで今では皆が交友関係を築いている。人と話すのが苦手そうな一年生達や、気難しい月森や。火原の親友である柚木は万人に優しいけれど、みんなに優しい訳じゃない。矛盾しているようだけれど、火原はそんな風に感じている。
それに、コンクールに心底嫌々ながらつき合っているのだというのがよく判る彼とも。
「土浦とかすごく仲良さそうに見えるよ」
つき合っているんじゃないか、と火原の音楽科の友人達が言っていた。これは、香穂子に聞かせたくない話だった。何故、聞かせたくないのか、自分でも判らなかったけれど。
「えー、そうかなぁ。そんな事もないんじゃないかと思うんですけど」
香穂子が不服そうに唇を尖らせた。
「土浦くん、ああ見えて、女の子に人気があるんですよ」
どきりとした。それが不服なのだろうか。
「なのに、いっつも『俺は興味なんかないぜ』って顔してるんですよ。贅沢者め!だったら、ひとりくらい分けてくれって話ですよね!」
なのに言ったら、叩くしさ。乱暴者め!
香穂子はぷりぷり怒り出した。『凄く』ではなく、『もの凄く』仲が良さそうだった。
普通科同士だから、と思ってしまうのは、先程までのショックを引き摺っているせいか。それとも、僻みだろうか。ああ、何で俺、音楽科なんだろう。これまで、こんな風に思った事なんかなかったのに。
「喧嘩できるくらい仲良しって事だよ。いいじゃない」
上手に笑えているか自信はなかったけれど、声は普通に出た。まるで何も気になんかしていないかのように。
火原の言葉を認めたくないと顔に書いた香穂子が、えー、と不満の声を上げた。
けれど、悪口が軽口になるくらいの関係だ。仲が悪い訳がない。それは香穂子だって判っている。
「…まあ、確かにすぐに馴染んだなぁとは思いますけど」
不承不承認めた後、しかしすぐに「でも、それはあくまでも、私の歩み寄りの結果ですよ!?」と続ける。
土浦が聞いていたら、香穂子の後頭部を平手打ち、「全部俺の努力と譲歩の賜だろうが」と言ったかも知れないが。
「土浦くんとは個人的な感情抜きに、縁がある、っていうんでしょうか。同じ船に乗っている、というか。同期の桜といいましょうか」
その時、香穂子はいい言葉を思いついたといった様子で満足そうに微笑んだ。

「運命共同体ってカンジですね」

『運命共同体』とは、何だかとっても意味深な単語のような気がする。少なくとも、『仲のいい友達』より上だろう。そして勿論、『ちょっと色々話をする、科の違う先輩』よりもずっとずっと上だ。
何とはなしにしょんぼりとした気分になって、火原はその場にしゃがみ込む。香穂子は再び、ヴァイオリンを弾き始めた。


ロンドンデリー・エア。


シンプルで緩やかな旋律が如何にも民謡らしい素朴な恋の歌。多分、火原だったらこの曲は明るく陽気に、そう、希望に満ちた風に演奏する。いつか気持ちは通じるかも知れない、叶うかもしれない恋だというように。

香穂子の紡ぎ出す音楽は愁いに満ちて、少し寂しくて、どこか悲しい。なのに、とても綺麗だ。叶わないと知っているけれど、後悔なんかしない。そう決めているみたいな潔い音がする。たった一人でそこに立つ、それでも決して揺るがぬ強さ。
火原よりも、ずっと深い音がする。

火原は、みんなと楽しく過ごすのが好きだった。今でも好きだ。みんなが楽しければいいと思う。音楽だって、人を楽しませるためにある。わくわくしてハッピーな気分になって、よかったなぁ面白かったなぁと思えればいい。

見上げれば澄んで青い、青すぎる空。ほんのひとつの塵が真白な雲を作り出す。何処までも真っ直ぐに、一筆で描かれたその一線。鮮やかな色のコントラスト。世界を分けるようなストレート。


まるで、火原と香穂子とを決定的に分けているような、そんな気がした。



END



ロンドンデリーの歌/アイルランド民謡
この美しい旋律には、詩人達が幾つもの歌詞を残している。
中でも有名な歌詞から、「ダニーボーイ」の名でも呼ばれる。








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