欲望に似ているのに、どこか神聖な響き


そしてすべての音は
世界へと降り注ぐ



ヴァイオリンは、人の声に似た響きを持つという。華やかな高音のソプラノから、温かなアルトまで、柔らかな女性の声そのものであると。だから、ヴァイオリンを歌わせる事を体感するには、まず実際に、自分で歌ってみる事が望ましい。
本当かな、とつい疑惑の眼を向けてしまうのは、それを言う人の常日頃の行いのせいであるのだけれど、それでも、音楽に関しては全くの素人を自認する香穂子は、この音楽教諭の言に神妙に頷いた。



香穂子は弓を構え、最初の数小節を流し弾く。エリック・サティ。軽やかに可愛らしいメロディの、だけど情熱的な恋の歌。魔法のヴァイオリンは、この曲をかくも軽やかに愛らしく、かつ情熱的に響かせる。そして、続くメロディを、金澤に教わったように深く静かに息を吸い、喉と胸とを拓いて声に乗せてみる。
途端に駄目になったのが、自分でも判った。
ファータ達も遠巻きに、心配そうにこちらを見ている。彼らが笑わない、歌わない、踊らないというのは、相当に本当に、駄目なのだ。
深々と溜息をつくと、手早くヴァイオリンを片付ける。この辺りの楽器扱いに関してだけは、流石に慣れたものだった。そして、振り向く。そこに、白いジャケットの壁があった。
「やあ、日野さん。もう練習はお終いかい?」
「ぎえ!柚木センパイ!」

気配がなかった気配がなかった気配がなかった。

香穂子の脳内呟きは、外にだだ漏れだった。要するに、柚木に丸わかりだった。しかし、それをさらりと無視して、柚木は微笑う。高雅かつ穏やかな優等生の笑み。
「最近、金澤先生の講習を受けているんだってね」
話には聞いているよ、と彼は言った。大変だね、とまるで心から心配しているような様子で。勿論、柚木の本当の顔を知る香穂子はそれを真っ当に受け取ったりはすまいと思ったけれど、予想に反して、それとも予想通りにだろうか、香穂子は何の裏心も感じさせない様子でこっくりと頷いた。「大変なんです」と。「レニングラードは今、サンクトペテルブルクだとか、ドイツの首都はボンじゃない、とか。そんな事言って先生と遊んでいるばかりじゃないんですよ」と溜息混じりに、妙にしみじみとした様子でそう語る。
どうやら、局地的に20世紀地理ネタが流行っているらしい。それがクラシック音楽に関わりのある都市についてであるあたりが辛うじて、完全な遊びではないと抗弁できるラインだろうか。
放課後、香穂子は金澤から音楽の補習を受けている。今回の変則的なコンクールは、普通科の香穂子にはあまりにハンデがありすぎる、というのは表向きの事。
他の参加者と引き比べて、あまりにも差がありすぎては、選抜した学院側の責任が問われる訳だ。
楽典、ソルフェージュ、発声。コンクール担当教諭から直接指導を受けるなど依怙贔屓もいいところだと憤慨して、実際に補習授業に乗り込んだ音楽科の生徒達の毒気を抜くくらい、それはごくごく初歩的な部分だけだったという。ファンクラブを自称する女生徒達が、聞かれもしないのに口々に語った。あんなにレベルの低い子が柚木様と同じ舞台に立つだなんて、と。
憎々しげな彼女達に滲む嫉妬と羨望にこそ、柚木は笑いたくなったものだったけれど。
「ああっ、そういえば、先生から聞きましたよ。先輩、リリ見えてるって!」
ファータの見え方には個人差がある、と金澤は言った。ファータが全く見えない者がいる。大部分の人間はこれに当たる。何かの拍子に映る目端に淡い光の玉や半透明な羽を見たという者もいる。学院内では既に伝説となる妖精目撃談の大半は、こういったものだ。しかし、学内コンクール参加者だったら、アルジェントというファータとして高位であるリリの姿は、小さな妖精の姿として見えている。それがこのコンクールに参加するための絶対条件であり、必要最低資格であるのだと。
本当はみんな見えているのに、見えてない振りをするなんて非道い。私だけが変なのかと思ってしまったじゃないかと憤る香穂子に対して、柚木はふっと笑った。鼻で嗤った、と言って間違いない、それは所作だった。
「見えていないなんて、だれも言っていないだろう」
バカだね、と続け、それだけであっさり話を流す。香穂子の話に興味がないと端的に示すその行為に香穂子はぶんむくれたが、それこそ柚木にはどうでもよかった。実際、妖精が見えるだなんて馬鹿げた事を口走って、これまで積み上げてきた優等生のイメージを台無しにしなければならない道理がどこにある。運悪く巻き込まれてしまったものは、冷静かつ速やかにこの場を通り抜けてしまえばいい。目に入れたくないものは、目に入れず。結局、それが最も効率よく状況を収束させる。
柚木にとって、音楽の妖精などまさに見えない振りで通り過ぎればいいだけの代物で、それこそ何の興味もないものだった。今、興味はそんなものの上にはなくて。
「『ジュ・トゥ・ヴ』ね…」
柚木は、香穂子の歌っていた曲の名を呟く。
音楽科の人間ならば、そのメロディから曲名を導き出すなどできて当然の事。音楽科でなくても、知る者は多いだろう。それくらい、この曲は有名だ。
エリック・サティ。ベルエポックを代表するフランスのピアノ詩人。音楽界の異端児と言われながら、続く印象派の先触れとなった作曲家。シンプルかつ憂愁に満ちた曲調は、本来ならば柚木も好むところではある。

しかし、『ジュ・トゥ・ヴ』とはね。

セクハラ教師、と心中毒づく。しかし、本当にただ単純なセクハラだったのなら、こんな気分にはならなかったろう。
金澤は軽口で香穂子をあしらいながら、それでも時折、ひどく柔らかな視線を彼女に注ぐ。金澤本人にも未だ自覚はないようだったが、周囲を観察し、合わせる事を習い性としている柚木はすぐに気がついた。
気に入らない。そう。ひどく気に入らない。
コレは柚木の私物だから。他人に手垢を付けられるような行為は、腹が立つ。
易々と手垢を付けられる私物の方にも腹が立つ。
しかし、気分そのままの視線を向けても、当の香穂子はいつも通りのほほんとした様子のままだ。自覚というものがまるでない。柚木は大仰に溜息を吐く。自覚され、金澤を意識されても困るけれど。
今、香穂子にとって金澤の補習は有用だ。音楽的な素養というものが欠けているのが最大の弱点である彼女にそれを与える事は、彼女の成長にとって何よりも大切であり、与えてやれる存在として音楽教師である金澤は最良であるといえるのだから。
そして、この柚木の玩具が少しは咬みごたえのある相手になれば、より叩き甲斐があるというものだ。
「お前、この曲がラブソングだって判ってる?」
冷ややかに斜目に向ける柚木に対して、
「判ってますよ。だから、ラブを研究しようと、姉からDVDだの本だの借りて、見たりしてみたんですったら。オシャレっぽいフランス映画も見たし、ロマンス小説の類も見てみたし。ハーレクインだとか、ボーイズラブとか色々」
一部、不穏当な単語が耳に入ったが、柚木は品よくそれを聞かなかった事にした。
「だけどもう、あまりにも難しい世界でしてね。ジュテームだのモナムールだの、どーしろってんですか私に。そもそも、オシャレロマンスなんか、私には無縁なんですよーっ」
逆ギレするところか、それは、とか。無縁な方が問題だろう、女として、とか。
香穂子の言は、まさに突っ込みどころ満載であったが、柚木はただ、軽く肩を竦めてみせた。
「いいよ、歌って」
「へ?」
「音楽には、オーディエンスに聴かせて、評価されて成長する部分もあるからね。聴いてやるから、歌ってごらんって言ってるんだよ」
「え、い、いや、結構ですよ」
「…へえ?」
「だって、柚木センパイのお時間取らせたら、悪いですから」
「ふうん?」
「それにあの、からっきしなんで、お耳障りにしかならないし」
「それで?」
「…申し訳ありません。日野香穂子、一曲歌わせていただきます」



「…あ、あの、…どうでしたでしょうかね?」
恐々とお伺いを立てる香穂子に対して、柚木の反応はひたすら冷ややかだった。
「下手くそ」
「ううっ。それはよく判っているところなので、それ以外で何かございましたらば」
「そもそも、判ってない。その一語に尽きるね」
音程は外れてはいない。ピッチも悪くない。だが、それだけだ。それだけの歌では、カラオケと全く変わるところがない。人に聞かせる、伝える音楽は、それでは足りない。成り立たない。
「まず、最初の一節。
『貴方の悩みが私には判るの 愛しい貴方』
お前の理解が伝わってこない。それに…、………なんだ?」
激しく手を叩き始めた香穂子に胡乱な視線を向ける柚木に対して、
「センパイ、色っぽいです!」
力強く熱っぽく、香穂子は言った。
「ブラボーハラショー。いや、もう、流石『柚木サマ』ですよ」
嫌みかおべんちゃらか、と言いたかったが、どちらも違う事は判っていた。そもそも、そんな気の回る事ができる奴ではなかった。キラキラする目を見るまでもなく、香穂子は完全に本気で真剣にそう思っているのだ。
「…兎も角」
柚木は深々と息を吐く。
「気持ちが乗っているって事が一番なんだよ。理解できないものは、理解できる形に置き換えればいい。…誰かのために何かをしたい気持ちは、恋だけではないだろう?」
恋だけではない。それをわざわざ付け加えたのは何故だろう。恋愛なんて判らないと当人が言い切ったのはつい先刻。だからだ、と自答する。そもそも、この色気のない女に色恋事なんて理解できる筈もないだろう?
しかし、そんな柚木の心情に反して、香穂子は難しい顔をして押し黙る。何かをしてやりたい何者かについて、考えているのか。胸の奥がちりと焦げる。
「…だけど、私だってリリの考えてる事が全部理解できるって訳でも」

リ リ か よ

との高速の突っ込みもやはり、柚木は入れなかった。
「他人を全部理解できる人間なんか、いる訳がないだろう。理解できると言い切る奴がいたら、そいつはとんでもない嘘つきか偽善者だ」
軽く肩を竦める。口にするまでもない自明の理。
「シンパシーっていうのは、一部が共鳴する事だ。それ以外の部分は想像する。推測する。そして判ったつもりになる。恋愛なんて、大部分が思いこみでできあがっているものだからな」
それでも、香穂子はその柚木の言葉に不服があるようだった。判りやすく眉根を寄せて、柚木を見上げた。
「……恋愛は、思いこみ、ですか?」
「それ以外の何だ?」
見下す女の返答に、柚木は期待したのだろうか。自分でも判らない。それでも、不可思議な思いはあった。胸の奥から湧くような疼き。それは期待だっただろうか。彼女が何の気負いもない、常の様子でさらりと言った。
「思いやり、かな、と私は思います」
そして、照れたように笑った。
「人を好きになる気持ちには、確かにセンパイの言う通りの部分もあると思うんですけど。『誰かのために何かをしたい気持ち』は、思いこみだけではできないですよ。私、リリについての思いこみ部分、相当少ないと思いますもん。面倒ばっかりかけられてるし」
結局基準はリリなのか、とか。そもそも、リリは恋愛対象なのか、とか。言いたい事は幾らもあったのだけれど。
「…恋愛をDVDや本で研究している女の台詞とは思えないな」
柚木は鼻で嗤いながら、垂れた髪を背後へと跳ね上げた。
「やー、それを言われたら、お終いですけどね」
あはは、と香穂子は笑う。柚木の言に応えながら、柚木の言葉に少しも堪えた様子はない。衒いもなく、ただ朗らかに笑う。
こいつといると、調子が狂う。
香穂子の前で初めて本性を晒した時もそうだった。あまりにも予測がつかなくて理解できなくて、あまりにも苛々して、当たり散らした。常ならば決してしない愚行。けれど、香穂子は変わらなかった。周囲に柚木の正体を告げることもしなかった。昨日と変わらぬ、のほほんとした顔をして柚木の側に寄ってきた。センパイが完璧すぎない人で安心した、とそう言って。
香穂子は常に柚木を裏切る。柚木の予想を裏切って、思いも寄らない答えを導き、道など外れてもいいのだとばかりに笑う。
だから、あの時、彼女に素顔を見せたのかもしれない。心の何処かでそれを知っていたから。

「だけど、センパイって本当に親切ですよね。人の事『玩具』だの『奴隷』だの言う割りには、面倒見がいいっていうか」

「…馬鹿だな、お前は」

ああ、本当に馬鹿だ。

「お前が俺の『玩具』で『奴隷』だからに決まってるだろう?」

お前が俺の『物』だから。

「面倒もみてやるさ。俺が飽きるまでは。お前が俺を楽しませてくれる間はね」

この突拍子もない女に飽きる未来なんて、今は想像すらできなかったけれど。

「…ほら、もう一度歌えよ。聴いててやるから」





貴方の悩みが私には判るの 愛しい貴方
だから貴方の願い通り
私は貴方のものになってあげる

分別なんか遠くへ退けておいて
悲しみなんかどこにもない
私たちが幸せでいられる大切な一瞬がとても欲しいの

あなたが欲しいの

私は後悔なんてしないわ
私の望みはたったひとつ
貴方の側にぴったりと寄り添って一生暮らすこと

貴方の唇は私のもの
貴方の体の温もりも私のもの
そして私の全てはみんな貴方のもの

恋の夢の中にとっぷりと身を浸して
私たち二人の魂を入れ替えましょう





落ち着いた響きの柔らかな声。耳に心地いいアルトがほんの少し高音になり、歌う恋の歌。

「お前、へたくそだけどね」

分別なんか遠くへ退けた大切な一瞬は、今ここに。
屋上にふたりだけでいられる間に。

「お前の声は、そう悪くないよ」

柚木が微笑う。冷笑でも皮肉げでもない、常の優等生めいたものでもない、仄かな微笑で。

「本当ですか?」
嬉しそうに、香穂子の声が弾む。むくれたふくれっ面から発せられる声も。屈託なく笑うその響きも。泣き出す寸前の震える声音さえ、全て柚木の物。勿論、香穂子の囁く恋の歌も。

柚木だけの、これは物だ。

他の者には触れさせない。柚木が飽きるまでは、全部、柚木の物なのだから。



「わー、嬉しい。柚木センパイのお墨付きだー。上手に歌えるようになったら披露するって、火原先輩に約束してるんですよ。これは、何とかなりそうだー」

「…お前、余程、お仕置きされたいみたいだね」

「え。何で?」



END



ジュ・トゥ・ヴ(お前が欲しい)/エリック・サティ
歌詞として、男声バージョンと女声バージョンが存在する。

作中で使ったのは、女声バージョン。何だかとっても不倫ソング。
そして、個人的に木×日、金×日ソング。
…まさか、本編で吉羅さまソングになっちゃうとは。<がくり








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