バイオリン弾きの左手


そしてすべての音は
世界へと降り注ぐ



手慣れた様子で大地に降り立つ。いかに木登りには慣れているといっても、地に足がつくというのは、それだけで安心感がある。最近できた友人達のように、羽が生えているという訳ではない人間の身としては。
安堵の息を小さく吐いて、
「はい。到着」
言うなり、香穂子の胸の下に張り付いていた猫が慌てたように飛び降りた。
「…あんた今、鳩尾蹴ったね…」
ちょっと痛かった、と恨みがましく呟くも、既に目に入るのは脱兎の如く走り去る猫の後ろ姿ばかり。そして、その後を飛び去る光が網膜を過ぎり、翻った。彼らが羽をひらめかせると光の粒が軌跡を描く。光る筋はただ、一直線に猫の後を追っていった。
人の眼には映らないものを猫は見るというが、学院のそこここに隠れ住む音楽の妖精ファータは、同じく学院の敷地に住み着いた猫たちとは不思議な関係にあるらしい。縄張り争いでもしているのか、しょっちゅう喧嘩をしている。香穂子も、雀ならぬファータを咥えた猫を追いかけ回した事が幾度かあった。といって、ファータ達も猫をからかって遊んでいるようなので、自業自得といえばいえるのだが。
まぁ、あれはあれでいいのだろうなと思う。少なくとも、互いに納得しているようではあるし。
…そう言えば昔、そんな話があったなぁ。大昔のアニメで。
取り敢えず、香穂子は彼らの懇願のままに、無事、猫を拾い上げた。後は彼らが何とかする番だ。いつもの隠れ家兼練習所に置きっぱなしのヴァイオリンがどこかに消える事はないだろうが、もう少し練習できるならばしておきたい。彼らがいないのならば、基礎をさらっておくのもいいな、などと先の予定を考えるともなく考えつつ、香穂子は体を転換させる。その瞬間、上機嫌に口ずさんでいた猫と鼠のドタバタ劇のテーマ曲がぱったり止んだ。
再び反転、そのまま逃亡を図ろうとした香穂子に対し、その襟首をがっしと掴む手が一瞬早かった。引き戻されてそれこそ猫の子のように振れた香穂子は、
「……私は無実ですーっ」
べしょべしょとした声で訴えたが、
「後ろ暗いところのある人間は、みんなそう言うよなぁ」
猫達の元締めは、如何にも悪い様子でにったりと笑った。



金澤曰く。「酔っぱらいは常に自分は『酔っていない』という」
妙に説得力のあるその言葉に、つい頷きそうになってしまった。
「いや。いやいやいやいや。本当に何もしてませんから。冤罪です」
「なら、何で逃げる?」
「それは、警官を見たら反射的に逃げるのと同じです。純粋に心理的なものです」
「…いや。後ろ暗いところがなければ、逃げないだろう」
「逃げますよ。何せ、不審物持ってるんですから。ここ最近、常時携行してますもん」
確信的に主語を伏せた香穂子の言に、これまで冗談を含んだ軽さを滲ませていた金澤の様子が不意に真面目なものになる。
妖精に貰った魔法のヴァイオリン。金澤はリリを知っている。だけど警察はそうじゃない。
怪しまれて職務質問なんかされて、万が一にもバレてしまったら、多分、何処かに連れて行かれる。犯罪は犯していないから、捕まったりはしないと思うけれど、どこかの病院とか。何かの研究材料にされるとか、マスコミに『スクープ!妖精は実在した!』とか。
どれを取ってもありがたくない。どころか、人生終わってしまう。
「もうこれ以上話しません。黙秘権を行使します。弁護士を呼んで下さい」
「…あのな」
「ストップ・ザ・権力による横暴。リメンバー安田講堂」
「……………」
金澤は遂に黙り込んだ。再び逃げ道を探って香穂子はそっと視線を泳がせる。そこに。
「…すまん」
心底すまなそうな様子で、この音楽教諭は頭を下げた。
まさか、そんな対応に出られるとは思っても見なかった香穂子は眼を白黒させる。そもそも、何に対しての『すまん』なのか?困ったように頭を掻いて、金澤は言う。
「さっきから、ずっと見てたんだ、これが」
冗談のつもりだったんだが、と続く言葉は、もう香穂子の耳には届いていなかった。

見てた。
見てたって、何を?木に登ったところ?それとも、猫を捕獲して降りてきたところ。猫が香穂子を蹴って走り去っていったところ。猫を追っていくファータをにこにこと、恐らくは愛情一杯とでもいった表情で見送っていたところ。

香穂子の頭に一気に血が上る。眼の奥が熱を持ったように熱くて、幾度も目を瞬く。くらくらと、眩暈がした。
多分、既に耳まで赤い。
「…っ何でそんなん見てんですかーっ。悪趣味ーーーーっっ」
膝を抱えてその場に蹲った香穂子に対して。
「…お前さんも判らんなぁ。基本的にいい事してたってーのに」
そこまで知られたくない事なのか。女子高生の気持ちはわからん、と。
音楽教諭はただただ、暢気に独りごちた。



「始めは、危ないと思ってたんだが、お前さん、木登り慣れてるみたいだし、助け手は必要なさそうだったしなぁ。それで途中で声かけて、かえって足でも滑らせたら殊だろうし…」
らしくもなく、言い訳めいたその言葉は、金澤がかなり前から香穂子を見ていた事を示していた。が、しかし。
いざとなったら、手を貸そうと思ってくれていたという事だろうか。
すっかり涙目になっていた香穂子が、顔を上げる。しかし、香穂子が口を開くより前に、金澤は続けた。あくまでもさり気なく、それでも視線を微妙に中空に泳がせて。
「だけど、まぁ、なんだ。取り敢えず、スカートで登るのは止めとけ」
その言に、ああ、と香穂子は軽く頷いてみせる。ただし、了承の意味ではなく。
「大丈夫ですよ、そんなの。ほら、ちゃんとブルマも履いてますしね」
「見せなくていい。むしろ見せるな」
ぴらりと捲ってみせたスカートをしおしおと元に戻しながら、そこまで深刻に怒らなくてもいいのにと思う。
「…そもそも、それは恥ずかしくないのか。お前さんは、本当に判らんな」
その上、続く呟きから鑑みるに、どうやら呆れ返られたようでもある。改造なしでもこんなに短いスカートを制服として採用しといて、それはどうなのか、と。
しかし、まぁ、金澤が学院の制服を決定したという訳でもないのだろうし。
「お見苦しいものをお見せして、申し訳ありませんでした」
「いやぁ。目の保養だったけどな」
こういう事をさらりと返せるのが、彼の上手なところだ。
「大人としちゃマズいだろって事だな」
嫌みがなく、すんなりと生徒に言う事を聞かせる。相手に反発させない『大人』の言葉だ。男女問わず、生徒に人気があるというのも頷ける。生憎、香穂子はこれまで彼の授業を受ける機会を得た事はなかったのだけれど。
リリのこと。香穂子に与えられた魔法のヴァイオリンのこと。全くの初心者である香穂子が、ヴァイオリンを歌わせるためだけにコンクール参加者となったこと。今回のコンクール担当教師である彼に、香穂子は一切合切を話していた。別にコンクールを荒らす気もないし、お遊びで出る訳でもない。ヴァイオリンを歌わせて、という妖精の願いを叶えたいだけだと。
だから、見逃してくれと、最初に頼んだ。彼に対して、リリがきゃんきゃんと文句を言いつつ、それでもその好意が確かに見てとれたからだろうか。ファータ達はそもそも、自身の感情を全く隠そうとしないけれど。
リリが好きだと思う人なら信用しても大丈夫だと思ったのか。ファータの存在を知っている人と、彼らについての話をしたかったのか。多分、その全てだったかもしれない。
「すまなかったな」
何が?
首を傾げた香穂子に対して、金澤が更に言葉を補完した。
「また猫達がアノ連中と問題起こしてたんだろう?」
ずばりと真実をついた金澤に、香穂子はつい笑ってしまいそうになる。どうやら、彼らと猫との微妙な関係は昔から変わらぬものらしい。
「だけど、もう少しの辛抱だ。そういう巻き込まれ型ってのもな」
妖精を見る事に関しては香穂子の先輩にあたるこの教師によると、ファータという者は、ある時期に見えるようになり、また時期を過ぎると見えなくなるものであるらしい。これまで霊感らしきものもなく、その手のものなど一切見た事のない香穂子は、そういうものかと思うだけだが、確かに己もいきなり見えるようになった訳で、今後の人生を妖精と共に歩む羽目には陥らないというお墨付きは、香穂子に半分安堵を与えてくれるものだった。だけれど、もう半分に感じるのは確かに寂しさで。こんなに短い期間に、既にこんなにもファータ達は香穂子の心を浸食している。今ではもう、彼らが見えない自分など想像もできない。面倒ばかり引き起こすけれど、素直で正直な愛すべき小さな妖精達。
香穂子を慰めるためだろう彼の言にも、裏に同じ響きを感じるのは、彼のその言葉が真実でなければいいと思っている香穂子の感傷故なのかもしれないけれど。
…いや、待てよ。ちょっと待て。
感傷に浸るより前に、役立ちそうな情報が今目の前にあったような気がする。
「…もしかして、猫救助作戦は、センセーに恩が売れるネタですか?」
「……現金だな、お前さん。さっきまでは知られたくなさそうだったのに」
如何にも嫌そうな顔を見るに、どうやら大当たりのようである。
「使えるネタなら、話は別ですよ」
文字通り、しゃっきり立ち直った香穂子はスカートの埃を軽く払って、そのまま両手を腰に当ててにっこり笑う。
「まぁ、取り敢えず。先生にちょっとしたお願い事みたいなもんがあるんですけど」



香穂子の『お願い』は、相談だった。もっというならば、質問に近かった。曰く、「ヴァイオリンを弾くにあたって、左手ってどうやって鍛えたらいいんですか?」
ちなみに左手は、弦を押さえる方の手である。
そもそも、これまで手に取った事すらなかったヴァイオリンである。あらゆる事全てが初めてであり、慣れない物事は体と精神とを疲労させる。要するに、肩は凝るわ、背中は張るわで大変なのだが、最近、死活問題となる事件が起きた。これは既に、事件、と言い切って良かった。



その時、香穂子はここ最近の常として、ヴァリオリンを弾いていた。古い舞踏曲は軽やかで美しく、香穂子の中から引き出される音楽をヴァイオリンは高らかに歌い、ファータ達はくすくすと笑いながら共に歌い踊る。いつもの心地好い、夢のような時間だった。ヴァイオリンが弾かれたがり、香穂子もまた、それに応えたいと思った。ファータ達は周囲を光り飛ぶ。もう一回、もう一回、と。二分そこそこで終わる曲をもう一回。更にもう一回。飽きたりなんかしなかった。この美しい光景に、自分がその一部である事に飽きるなんて、あるはずがなかった。
しかし、その時は唐突にやってきた。さあ、その曲をもう一回。その三拍子の第一小節、ゆっくりと踏み出して軽やかにターン、ワルツのリズムを刻んだ瞬間、左手の筋が引っ張られた。
香穂子はその瞬間、現実に引き戻された。この感覚には憶えがあった。前にやったのは手ではなく、足だったけれども、箇所がどこであろうがその状態に何ら変わるところなどない。
左手の指から手首にかけてのコントロールが利かない。紛う方なき、攣った、という状態だった。
残念だけど、一時中断だ。そう思った香穂子だったが、指は動いた。流れるように自然に。
「え」
ヴァイオリンは弾かれたがった。香穂子も、それに応えたいとは思った。しかし、指は攣っている。
「えっ、ちょっ、ちょっと待っ…」
左手は弦の上を自在に動いた。滑るように弓が走った。もし観客がいたならば、名演奏だと言っただろう。しかし、指は攣っている。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
軽やかに踊る指先。走る激痛。なのに、演奏は止まらない。


………きゃーーーーーーーーーーー。


「…いやもう、軽く地獄を見ましたね」
魔法のヴァイオリンは、呪いのヴァイオリンと同義である。
「今後の事を考えますと、やはり、これは私の左手を鍛えるのが一番だろうと思うんです。幾ら何でも、5分10分くらいで手が攣るって、自分でもどうかと思いますし」
言うべき事を言い終えた香穂子は、坐して待つとでもいった様子で金澤を見上げた。
話を最後まで聞き終えた金澤は無言だった。ただ、香穂子へと掛けられた視線には、哀れみだの同情だの好奇心だの可笑しさだの、諸々の全てが入り交じっていたのだけれども。
「…お前さん、ガッツあるなぁ…」
やがて、ぽっつり呟いた金澤は、笑いの滲む眼で香穂子を見下ろした。呆れた風な口調で、だけど不思議と尊敬するとでもいった風情で、香穂子の頭を軽くひとつ掌で叩くその仕草にも、香穂子への労いの心情が表れていた。
何が彼のツボにヒットしたのかは不明ながら、何かが好印象だったらしい。
「…多分、姿勢とか運指の問題なんだろうが、そりゃ、俺の領分じゃないし」
うーん、と少し考え込んだ金澤は、やがて言った。
「王崎に訊くのがいいだろうな」
「…王崎先輩、ですか…」
やっぱ、それしかありませんかね、とぶつぶつ呟く香穂子に対して、不思議そうに金澤が返す。
「王崎と何かあったのか?」
「え?いえいえ、何もありませんよ。あるはずありません。あんなに『いい人』と」
そう。ヴァイオリン専攻である先代のコンクール優勝者は、兎も角何を於いても『いい人』だった。当たりは柔らかいし、優しいし。香穂子のように、オケ部でもなく音楽科でもない、後輩と言っていいものかどうかも微妙な相手に対しても懇切丁寧に対応してくれる。趣味がボランティアと聞いて、なるほどなぁと思う、万人に対する愛情に溢れる、何を於いても親切な人だ。だからこそ、香穂子はちょっと彼が苦手である。自分が『いい人』を利用しようとしているように感じられてしまうから。
しかし、それを言うと、金澤は目を丸くした。
「お前さん、潔癖だな。しかしそりゃ、傲慢ってもんだ」
そして笑うのだ。
「初心者が周りの大人利用して、何が悪い、くらい開き直れよ。サポートなしで、実際、やってける訳がないだろうが。お子ちゃまが」
…ええ、ええ、お子ちゃま理論で悪かったですよ。
「人の厚意は素直に受けろ。お前さんの場合、それでやっと他の連中とどっこいだろ」
……それもそうですかね。
何だかやさぐれた気分になりつつ、それでも香穂子は頷いた。金澤の言葉を素直に聞けるのは、彼の言がちっとも綺麗事じゃないからなのだろう。大人の言葉だけれど、相手の為になる言葉であり、確かな助言だ。
「じゃあ、王崎には後で頼んどいてやるから。ついでに、これから放課後は音楽準備室の方にも顔出せな」
見上げた先には、まるで子供のような笑顔の金澤。
「宿題、出してやる。俺の厚意も受けとけ」
周りの大人は利用しろ、とそう言った彼が笑った。手始めに、身近なところにいる音楽教諭なんかが適当だろう?と。
香穂子はつくづく感じ入る。本当にこの人、男前だ、と。口にしたら、軽口と冗談で誤魔化されるんだろうけれど。「ほんの猫様の礼だ」とでも?本当に言いそうだ。香穂子はふと微笑う。彼も大概、『いい人』だ。
「ちなみに、どんな曲を弾いてた?指攣った時さ」
ほんの興味だとでもいった様子の問いに、香穂子も簡単に答えた。と言って、曲名は覚えていない。ただ、その旋律を忘れる事はない。いつでも、どんな時でもそうだった。鼻歌で辿る、ヴァイオリンCDから耳覚えたそのメロディ。すぐに金澤は「ああ」と頷いた。華やかで甘美で、なのにどこか清らなワルツ。
美しいロスマリン。
「お前さんの音に合うな。だから、ヴァイオリンも演奏を止めたくなかったんだろうな」



じゃあな、と金澤が後ろ手に手を振り去っていく姿に、ぼんやりと手を振り返して見送って、再び香穂子はその場にしゃがみ込んだ。
「もー、何だこれ。何だこれー」
頭に血が上ってくらくらする。眼の奥が熱を持ったように熱くて、それは先程と同じなのに先程とは違う。抑えても抑えても湧き上がる衝動に、顔がにやける。
耳奥に鳴る、華やかで甘美で、なのにどこか清らなワルツの音色。
香穂子の音。
例えば、硬質に冴え渡る、まるで冬の星のように煌めく月森の音。例えば、天鵞絨のように滑らかな、この上なく高雅で薫り高い柚木の音。このコンクールで知った。楽器の違いこそあれ、演奏者の持つ個々の音が、その演奏を他のものと選別し、それ自体を輝かせるのだ。
香穂子の音。
そんなものが本当にあったら、存在したら。
勿論、魔法のヴァイオリンが歌うからこその音色なのだけれど。それでも。
コンクール参加者達が個々に持つ色とりどりの音色は香穂子の耳奥に鳴り響いて、だけど、それは決して自分の手には届かないものなのだと思っていた。

香穂子の音。

「よしっ」
香穂子は勢いよく立ち上がる。ヴァイオリンのためのコンクール出場。その原則は今でも変わっていない。コンクールを荒らしたりするつもりもない。けれど、香穂子が望みを持って努力してはいけないという事はないでしょう?
コンクール参加者達が持つ色とりどりの音を、自分も手に入れたい。香穂子の音を手に入れたい、と。
望みを持つのは自由だと思うから。
だけど、取り敢えず今は。
「左手を鍛える事から始めないとね」
道程は長そうだけれど、でもそれは楽しい道だ。
頼むよ、相棒。私、頑張るからさ。
心中、魔法のヴァイオリンに願いをかけて、ふたり連れの道程を思い、香穂子は微笑む。



魔法のヴァイオリンが操る左手。それより欲しいのは、自分だけの音を響かせる魔法の左手。



END



美しいロスマリン/クライスラー
「美しいロスマリン」「愛の喜び」「愛の悲しみ」は、
クライスラーによる『古いウィーンの舞踏歌』三部作と呼ばれる。

この三曲は何となく「清麗」「彩華」「愁情」ってカンジ。(笑








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