自分の真ん中を占めて、自分にないもの


そしてすべての音は
世界へと降り注ぐ



月森蓮にとって、彼女はまるで『謎』そのものであった。


月森はある時、彼女が猫を追って走っているのを見た。何やら「返せーっ」と叫んでいたから、何かを取られでもしたのかもしれなかったが、生憎と月森の目には取られた何かは映らなかったから、月森の中にはただただ彼女が猫を追い回していたという事実だけが残った。
またある時は、彼女が木の枝に向かって飛び上がろうとしている姿を見た。明らかに周囲の注視の的になっていたが、当人は気にした風もなく、ただ一心にジャンプを繰り返していた。その後、彼女が枝に張り付いている姿をも見、何をしているのかと観察するともなく見ていたら、結局何をするでもなく、そのままぼんやりと空を見上げているだけだった。
そして、常の如く練習室で自身の音に没頭していた月森がふと、曲の合間に息をついた、その時聞こえてきた主旋律をピチカートで響かせたヴァイオリンの音。
楽譜を全く無視した、曲とも言えない、それでも何とも楽しげに踊る、その音。

日野香穂子。

初めて会ったのは、コンクール第一セレクション前、音楽室での事だ。ヴァイオリンケースを持っていたのに、当然知っているべきヴァイオリンの手入れに関する基礎知識も持っていなかった。そもそも、ヴァイオリンは始めたばかりだと言い、実際、演奏もその発言を裏切らない稚拙さだった。それなのに、彼女はいつだって楽しそうで、幸せそうですらあった。

鼻歌のようなG線上のアリアが途切れた。その瞬間、月森は我に返った。それまでずっと、彼女の音に聴き入っていた事に気づいたのだ。決して上手くもないあの演奏の何処に、月森に練習の手を止めさせる力があるというのか。
何処か空気が冷えたような気がした。ピアノ付属でない練習室は壁が迫るような狭さで、音の反響がよくないため、窓を少し開けている場合が多い。しかし、春とは言っても、吹き込む風は未だ冷たい。
月森は窓辺に寄り、そして窓に手をかける。年代物の硝子戸は立て付けも甘く軋む。ゆっくりとそれを閉じようとしたその時、外に張り出した木の枝が不自然に揺れた。
ひょっこり顔を出した人物は、つい先刻まで意識の内にあった人物そのものだった。

その練習室は二階にあった。部屋の窓から、ほぼ同じ目線の先にいる人と顔を合わせる事などあり得ない。本来ならば。しかし、突如彼女が現れた驚きの方が大きくて、月森は虚をつかれて、ただ彼女を見返した。彼女もまた、こんなところで月森と遭遇しようとは思いもよらなかったのだろう、ひとつふたつと瞬きを繰り返し、まじまじと月森を見返した。
ほんの数呼吸分の沈黙が下りた。
「…あー…」
そして、彼女は困ったように口篭もり、
「…やあ」
やがて、月森に対して片手を上げてみせた。



「…遂に登れるようになったのか…」
月森は呟いた。我ながら、妙にしみじみとした口調だった。枝に向かってのジャンプから、張り付いた姿を思い出したせいだろうか。彼女が続く訓練の末にようやっと木登りを習得したかのような気がしたのだ。勿論、それは埒もない妄想の類だった。その自覚もあった。しかし、彼女は首を傾げて、月森を見つめ、
「…月森くん、変わってるね」
と言った。

日野香穂子にだけは言われる筋合いはないと思ったが、彼女は更に続ける。
「いやー、こういう時って、『やあ、じゃねーだろ』とか、『こんなところで何をしている』とか聞かれるばっかだったからさー、なんか新鮮だなぁと思って」
「君は、頻繁にそのような事を周囲に訊かれているのか?」
つまり、それは『いつもこんな事をしているのか』という意味だ。皮肉とも取られがちな月森の言を、しかし、香穂子は言葉通りにしか受け取らなかったようで、あっさりと頷いた。
「『何をしている』と言われましても、『走っている』とか、『捜し物をしている』としか言い様がないんで、ちょっと困る。見たまんまです」
「では、今はさしずめ、『木に登っている』というところか」
香穂子はまた頷いた。妙に神妙な様子だった。
「うん。だけど、まぁ、あれだ。月森くんは練習中なんだよね。そーだよねぇ、今日は天気良くて、風も気持ちいいし、天まで届けーってカンジで弾きたくなっちゃうようなヴァイオリン日和だもんね」
判るよ、うん。と愛想笑って、香穂子はより幹に近い枝へと手をかけた。
「そんなとこ、邪魔してごめんね。すぐ消えるから。私の事は気にせず、練習続けて下さい」
そして、その瞬間、月森は見た。見てしまった。彼女の鳩尾の辺りに張り付いた、毛皮に包まれた物体を。
『それはなんだ』と言いかけて、月森は思い直した。実際、ここまでの数語のやり取りで、香穂子にそれを問うても『猫』という端的な回答しか戻ってこないだろう事は予測するのも容易かった。そう、ソレは明らかに猫であり、その事は訊くまでもなく、月森にもはっきりと見てとれていたのだった。
「君は、猫を捕獲するのが趣味なのか?」
「……は?」
「…以前、君が猫を追っているのを見かけた事がある」
足りない言葉を補う月森の言に、ようやっと得心がいったのか、半開きだった口を理解を示す微笑みの形に閉じて香穂子は首を横に振った。
「いや、まさか。前のは、猫から取り返したいものがあって。まぁ、何ていうか、サザエさん状態っていうの?」
『お魚咥えたどら猫』を追っていたと言いたいらしい。彼女が『裸足で駆けて』いく様が容易に想像できてしまって、月森は微妙な気持ちになる。どこか遠い視線になった月森の前で、しかし話は終わったとばかりに香穂子はそのまま木から下りていこうとしている。彼女が足をかけた枝は、月森の目にはいかにも不安定そうに見えた。
「せめて猫は置いていったらどうだ」
「それじゃあ、意味ないよ。この子を拾いに来たんだもの」
打てば響くその返答は、明快そのものであった。



ここまでのやり取りで月森は、日野香穂子から情報を引き出す大まかな術を心得ていた。その技術を駆使した結果、得られたものはというなれば。
「この子が木から下りられなくなってたから、ちょっと助けに来たら、月森くんとばったり出会って、まぁ奇遇ねって話なの」
つまりは、そういう事らしかった。
「別に私が猫マニアって訳じゃないよ。この子に関しては、友達に『助けてあげて』って頼まれてさ。私はこの子は友達の友達っていうところかなぁ」
いつも喧嘩したりしてるくせに、仲良かったりするんだよねぇ、と香穂子は面白そうに笑った。
「その友人とやらは、自分で助けにくるべきじゃないのか?」
そういった事を自分でやらずに他人に頼むという思考が、月森には理解できない。
「それは、サイズ的に無理かな。流石に」
その友人は、木に登れないほど大きいという意味か。
更に香穂子は、月森が彼女の友人に悪い印象を抱いたのではないかと思ったらしい。らしくもなく、言い訳がましく付け加えた。
「実際に助けに来たのは私だけど、根回しは友達がやったんだよ。前もってちゃんと説明して『大人しくしといて』って言っておいてくれたから、ほら、この子も静かでしょ?」
猫と対話できるとは、一体、どういう友人なのかと思ったが、確かにその猫は大人しかった。高い場所で人間の懐にしがみついて、ここまで少しも暴れようとしないとは、まるで自己の現状と彼女の意図、つまり、香穂子は己を助けに来た存在であると理解しているかのようだった。
勿論、たまたまなのであろうが。
「取り敢えず、そういう訳だから」
話を切り上げる時特有の台詞を放って、改めて香穂子は大振りな枝を手に掴む。そのまま、するすると下りかけて、
「あ。忘れるところだった」
言って、少し下、枝から見え隠れする位置から顔を覗かせた香穂子は、月森を仰ぎ見た。
「だから別に、猫苛めてた訳じゃないからね。金澤センセには内緒にしといて。お願い」
金澤は、今回の学内コンクール担当の教師だった。音楽教師とはいえ、専門課程を持つ訳でもないらしく、主に普通科での授業を担当するという彼との面識はあまりない。そして、例え相手が香穂子ならずとも、月森には教師にそれを言いつける程の興味も義理もない。
しかし、妙に真剣な香穂子の様子に興味を引かれて、月森は問うた。
「何故、金澤先生に?」
対して、香穂子はいかにも重大な事を告白するといった風に声を低めて、大真面目な様子で返した。
「金澤先生、ここら一帯の猫の元締めなんだよ」
以降、月森には重ねて日野香穂子に何かを問おうという気は起こらなかった。



こうして、月森の未知との遭遇は終わりを告げた。
時間にして、ほんの数分間の出来事だったが、もっとずっと長い時が流れたような気がした。
常の如く、月森がヴァイオリンにただ没頭して過ごす、静穏な時間が戻ってきたというのに、彼女のいなくなった練習室という空間は、その狭さにもかかわらず、ひどく空虚だ。
月森は、彼女と会話らしい会話を交わしたのは今回が初めてだった。

見た目の印象と端から見た行動に、ギャップのある人間だと思っていたが、実際に話してみてその観はまた強くなった。兎も角、ひたすら騒々しい。実際に彼女がお喋りだとか、そういう訳ではないのだろう。香穂子当人は月森の邪魔をしないようにとそそくさと去ろうとしていたし、現実問題、それを引き留めたのは月森の方なのだから、この評は彼女に対してフェアでもないと思う。
ただ、彼女はひどく場の空気をかき乱す。
楽譜を全く無視した、曲とも言えない、それでも何とも楽しげに踊る彼女の音そのもののように。

音楽一家に生まれ育った月森は、物心の付く頃には楽器を手にしていた。それは息をするように自然な事で、だけど、数ある楽器の中からヴァイオリンを選び取ったのは月森の意志だ。
月森の運命の相棒が、ヴァイオリンだったのだ。
月森にとって、ヴァイオリンは手の延長線上にある、第2の手のようなものである。ヴァイオリンを弾くことは表現の手段であり、より高度な表現のために技術を磨く。

愛着はある。確かに。しかし、それでも彼女のような気持ちでヴァイオリンと接した事はない。
彼女のように、ヴァイオリンを純粋に楽しむといった事は。

それでも、自分が間違っているとは思わない。本来、演奏とはいらないものを削ぎ落とし、極限まで磨き上げて供されるべきものだ。それができる者だけが、音楽を芸術とする事ができる。そして月森が目指す高みは遙かに遠く、現在の自分の音などまだまだ理想に及ばなかった。

吹き込む風の冷たさに今更のように気づいて、月森は窓辺へと歩を向ける。先程まで閉めようとしていて、思わぬ場所から彼女が現れたので、閉めるに閉められぬまま、半開きとなっていた窓。戸口に手をかけ、少し迷って、月森は、窓を大きく開け放った。

「今日は天気良くて、風も気持ちいいし、天まで届けーってカンジで弾きたくなっちゃうようなヴァイオリン日和だもんね」

そう言った彼女は、多分、今頃広い空の下でヴァイオリンを奏でている。月森のように、空気の動かぬ密室で緻密な音楽の世界を組み立てるのではなく、世界の一部に融け込むヴァイオリンを楽しそうに歌わせている。


らしくもない。思わず洩れたのは、確かに自嘲。だけれど。


風は爽やかな冷気を伴って、練習室を吹き抜ける。
何処からか、風に乗って、楽しげに歌うヴァイオリンの音が届いた。そんな気がした。



END



タイスの瞑想曲/マスネ
歌劇「タイス」は、享楽に生きる女と修道士の物語。
信仰か悦楽かで惑う男女の心情を表す間奏曲。

月森は弾いてくれなかったですが、心情BGMとしてコレを。








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