100カラットの硝子玉


そしてすべての音は
世界へと降り注ぐ



そもそも、ファータ濃度というものが問題だったらしい。

いきなり現れた小さな生き物は、自身を音楽の妖精ファータと名乗り、香穂子に奇妙なヴァイオリンを押しつけた。唐突すぎる展開にただ呆気にとられたまま、ついついそれを受け取ってしまった上に、明らかに人外である存在にしみじみとした息を吐かれて「人間とは思えないのダ」とまで言われた日野香穂子、高校二年の春。
「人間とは思えない」程に、ファータとの相性が良かったらしい。人は皆、体内にファータ濃度とやらを持っているらしいのだが、それが異常に高濃度なのだと。多分前世はファータだったと真顔で言われて、何と返すべきかも判断できず、ただ曖昧に微笑んだ。だがソノ生き物は、日本に於ける善処します的微笑みが、遠回しの辞意だと理解していなかった。香穂子の微笑みを見た途端に目を輝かせたソレに、流石にヤバいと思ったが、もう後の祭りだった。その後はダッシュで逃げても逃げ切れなかった。ありがとうありがとうと感謝歓迎雨あられ。徹底して人の話を聞こうとしない人外の前に、結局香穂子は膝を付いた。…この期に及んですげなくお願いを断ったりしたら、呪われるかも知れなかった、し。



私立星奏学院は、文明開化華やかなりし時代、音楽専門学校としてその産声を上げたという。創立者はつくづくチャレンジャーだった。西洋学問を教える学校自体が少ない時代に、西洋音楽を教える学校なんて、需要があるとも思えない。現代の高校生である香穂子にだって簡単に想像がつく訳だが、やっぱりというか何というか、星奏学院音楽学校は大した時もかからず、あっさり経営難に陥った。
その時に併設されたのが、星奏学院女学校。男女七歳にして席を同じうせずの時代である。しかし、デモクラシーな時代に入ると、星奏学院はこれまたあっさり、共学校へと姿を変える。いつの時代も、音楽教育を続けるために普通教育への門戸を開いてきたのが、この学院という訳だ。
現在、星奏学院普通科は、女学校時代以来の中等部からの一貫教育が基本であり、高等部からの少数の編入を受け入れている。芸術面に力を入れての情操教育が売りの一つ。高偏差値をキープしていて、有名大学合格者も例年、それなりに輩出する。併設された音楽科の存在がまた、教養高いだとか品が良いだとかで、すこぶる外部受けがいい。中に入れば、全く二つの学校に分離しているようなものなのに。
毛並みのよろしい良い子の多いこの学院でも、音楽科はとびきりであると言っていい。何しろ、高校から音楽科なんて、ツブしの利かない学部を選べる、つまりはその後の進学、就職なんて考える必要もない人達ばかりがいく場所であると普通科生徒の間では認識されていたし、実際、それは乱暴な意見であるとも言えなかった。卒業前、普通科生徒が外部の大学への進学が決まる頃、音楽科の女生徒は嫁入り先が決まってしまったりするのだから。
大多数の普通科生徒にとって、向かいの音楽科は遠い異世界の『珍獣棟』であったし、勿論、香穂子の認識も似たようなものだった。だがしかし。
まさか本当に『珍獣』が棲息していたなんて、誰が想像するだろうか。

ねえヒノカホコ。ねえねえヒノカホコ。
ひらひらと透ける羽をひらめかせて、小さな生き物がついてくる。『リリ』と名乗った妖精を見た直後から、香穂子の目端にちらりと何かが映るようになり、視点を集中して注意深く観察してみるとそれはもう、『リリ』とよく似た妖精達がちょろちょろと走り回っていたり、転げ回っていたり、猫と喧嘩していたりで、ほんの数日の間に、この学院の到る所にこの怪しげな生命体が出没するのだという事を香穂子は身をもって知ってしまっていた。そして、何故だか香穂子はこの生き物達に妙に気に入られてしまったらしいという事も。

ねえヒノカホコ。ねえねえヒノカホコ。
返事をしない香穂子を気にする風もなく、彼らはひらひらとついてくる。しかも、香穂子の姿を見つけたらしい妖精達がまた何をするでもないのに更に合流したりして、香穂子の胃に着実に負担をかけてくれる。
他の誰にも見えていないとわかってはいても、幼稚園の先生よろしくぞろぞろと妖精達を引き連れて歩く自分なんぞ、想像しただけで萎えてしまいそうだ。
あまりにもファンシー。あまりにも非現実的。こんな生き物達の存在など知りもせず、これまでこの学院に通っていた自分よ、常識よさらば。
世の中、知らなくてもいい事はたくさんある。

音楽科棟の練習室に面した中庭は、相変わらずの音の洪水。
『珍獣棟』の『珍獣棟』たる所以のひとつに、この騒音がある。何せ古い学院である。練習室の全てが防音仕様になっている訳ではない。あらゆる楽器のあらゆる曲のあらゆる音階がそこここで洩れ響いて、もの凄い不協和音を溢れさせる。しかし、動物園の檻の前に比された練習室付近を彷徨くようになった最近、香穂子は気がついた。練習室で騒音の一端を担う音楽科の生徒達は、全く気にした風もないのだ。
それだけ練習に没頭しているという事だろうし、彼らの耳には恐らく、自分の音しか入ってこないのだろう。しかし、だからこそ香穂子がこっそりヴァイオリンを鳴らしても、誰も気にしないでいてくれる訳で。

穴場は、この中庭の隅にある。木立がほどよく人影を隠して、人目につかないスペースを作ってくれるし、練習するのに丁度いい。

周囲を確認、当たりに人影はあるにはあったがどれも遠く、こちらを気にする風もない。それでようやっと、香穂子は自分でも意識しないままに詰めていた息を吐いた。特に用もなければ普通科生徒が足を踏み入れる事もない音楽科棟では、生徒は皆白いジャケットの制服姿だ。香穂子が着ている普通科のモスグリーンのセーラー服は、あまりにも目立ちすぎる。その上、香穂子は長い髪を縦ロールにもしていないし、大きなリボンをつけていたりもしていない。迷い込んだ珍獣は、香穂子の方なのだった。

ねえヒノカホコ。ねえねえヒノカホコ。
「なーにー?」
しかし、これでようやっと、彼らと会話する事ができる。
相当神経は太い方だとの自覚はあるが、流石の香穂子も、周囲には何もないように見えるだろう虚空と会話する人間になるのだけは、勘弁してもらいたいところだったので。
彼らのおかげで今現在の面倒くさい状況に陥っていると判ってはいたが、香穂子は彼らが嫌いではなかった。慣れてしまえば、彼らは真っ正直で純粋な、愛すべき存在だ。時に困った事もやらかすけれど、可愛いところもないではない。

今日は何を弾くの?何を弾くの?
「そうだねぇ。昨日、プレルーディオが歌ってくれたのをやってみようか」
ケースの中から取り出したヴァイオリンは、柔らかな飴色も艶やかな、とても綺麗なものだった。だけど、このヴァイオリンは綺麗なだけのものではないのだ。
このヴァイオリンは、ファータ達の歌声に反応して、自身で歌う。

学院伝統の音楽コンクール…参加者の楽器は自由だなんて、まるで異種格闘技戦のようだと香穂子は思ったが…に出場する事。このヴァイオリンを歌わせてあげる事。それがリリに託された願い。

成績なんかどうだっていい。本来、音楽は競うためのものではないから。ただ、ヴァイオリンを存分に歌わせてあげて欲しいのだ、と。

香穂子は、その手助けをしているだけだ。


初めて、ファータの歌声を聞き、このヴァイオリンを歌わせた時、香穂子はまるで自分が溶けてなくなったような気がした。ファータの声が呼び水となって、ヴァイオリンが歌う。音が香穂子の中から引き出されて、世界へと解き放たれる。ファータは音楽であり、ヴァイオリンは想いであり、香穂子は楽器だった。
その循環の中にある快感を、どう表現したらいいのだろう。

香穂子自身に技術がつけば、ヴァイオリンは更に歌うようになる。
そう聞いてから、香穂子はより熱心にヴァイオリンを練習するようになった。もっとファータ達が、ヴァイオリンが歌えるように。もっともっと上手くなれれば。

その時、細く届いたひとつの音があった。周囲の不協和音を切り裂くようなたったひとつの煌めき。

あ。ツキモリレンだ。ツキモリレンだよ。
ファータ達が嬉しそうに、中空をくるくると回る。
彼の音は、本物だ。ファータ達の反応を見るまでもなく、初めて彼の音を耳にしたその瞬間に香穂子には判っていた。
珍獣の中の珍獣。ヴァイオリン王子月森蓮。
彼にとっては、自分の音を高める事のみが興味の全て。コンクール参加者として挨拶した香穂子の事も、単なる通りすがり程度にしか注意を払わず、行き過ぎた。
香穂子と同じ楽器を持った、香穂子とは違う本物の人。
研ぎ澄まされた彼の音は、決して妥協を許さない彼そのもののように純粋だ。神の領域に入らんとする一瞬を創り出す芸術を、いつか彼はその手にするだろう。

彼は香穂子とは違う。全く違う。

普通科の、まるっきりの素人がコンクール参加者だなんて、と周囲で影口を叩かれている事くらい知っている。
色眼鏡で見られるのも、当然だと思っている。
本来、このコンクールに出るだけの音楽的な素養もなく、技量もない。コンクール参加者みんなが持っている才能という名の宝石を、自分だけが持っていないという事くらい判っている。だけど。

香穂子の構えたヴァイオリンを巡って、ファータ達が踊る。彼らがくすくすと笑う。ねぇ、ヒノカホコ、音を聞かせて。彼らの羽が陽を弾いて、周囲がとても眩く温かい。

世の中、知らなくてもいい事はたくさんあるけれど、知ると幸せな事だって多分、たくさんある。

香穂子もまた、にっこりと笑って、弓を取らぬまま、指の先でG線を弾いてみせる。ファータ達と共に踊るようなG線上のアリア。



香穂子は本物ではない。宝石ではなくて、硝子玉。そんな事は判っている。

だけど、ほら。

ヴァイオリンが歌う。ファータ達が踊る。

それはなんて、眩く温かい。



END



G線上のアリア/J.S.バッハ
「管弦楽組曲第3番」エール楽章がシングルカットされたもの。
現在では単体の小品として、有名。








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