例えばある夏の日に


さあさあ、音楽を!
どうぞ今宵が皆様にとって、素晴らしい夜となりますよう



「この国にはシーズンはないの?」
執務室でいつものようにせっせと仕事に励む中、アリスの言葉は随分と唐突なものだったらしい。そもそも、何の事だか判らない。そんな顔をして、ナイトメアとグレイはアリスを見た。
そういえば、この国は、この世界は時間の流れの曖昧な場所だ。季節など存在しないのか。いつでも適温、常に快晴。アリスの言う『シーズン』は勿論、字義通りの『季節』の事ではなかったが。
「えーと、ナイトメアは貴族なんでしょう?」
クローバーの塔に来て、最初に教わった。この塔にいるか夢の中にいるか、どちらかのナイトメアしか知らないアリスには、ナイトメアが所有する領地がどのようなものだか知りようもなかったが。そもそも、ハートの女王であってもアリスの理解している意味での王国を治めてはいなかったから、ナイトメアが貴族であるというのも実態がどのようなものだか全く判らないのだけれど。
執務室で、まさに今現在も行われているナイトメアの業務は、荘園を管理する大地主というよりは大会社のCEOとでもいった風情だったし、側近であるグレイの仕事も家令・執事ではなく、はっきりと秘書官だ。そして何より、この世界では貴族同士の繋がりというものが全く見えない。
アリスの知る限り、貴族はひとつの社会を作っている。貴族とそれに類する金持ち、ジェントリと呼ばれる層で作られた閉鎖社会だ。そして、そこには純然としたルールがある。
「ここでは、貴族達の集まりのようなものはないのかしら。そういう時期というか、機会のようなものは」
アリスの生まれた国、世界にはシーズンというものがあった。初夏から盛夏へと移る季節、上流階級の人々が一つところに集う社交のシーズン。
それは、ハンティングの季節でもある。そして、これもまた字義通りではない。狩るのは鹿や狐などではなく。
「私の元いた国では、若い娘達は、一定の年齢になるとシーズンにデビューする事になるのよ」
獲物または狩人は、17才になった娘達。
シーズンとは、大々的な、恋の季節の始まりなのだ。



「例えば、グレイが何処かの貴族で、ある夜会に出席する事になったとするわね」
若くして爵位を継いだ貴族。あるいは、華々しい軍功を上げて戦場から帰ってきた元将校。ぴったりだな、とアリスは思った。
「そうしたら、私が付添人に連れられて、グレイの傍にやってくるのよ。しずしずと、まるで大人しやかな淑女みたいな顔をしてね。『こちらは、今回デビューする事になったお嬢様ですのよ』」
芝居がかった様子で、アリスは言った。
多分、グレイは若い娘を持った婦人方から鵜の目鷹の目の引っ張りだことなっているだろう。娘の結婚相手として射止めたい相手。もっと言うなら、自分に夫がいなければ、と思えてしまう相手。本来なら、アリスが近づく事など全くできないような相手だ。
「紹介された私には、看板はいっぱいついてると思うわ。どこそこの子爵からのご紹介で、なんとか卿とお家がお付き合いがあって。私自身については、そうね、クライストチャーチカレッジの学生監の娘で…んー、つまり、物凄く堅い家の子だって紹介されるかしら」
リデル家は、無条件に社交界に招かれる家柄ではないけれど、全くの問題外という訳でもない。つまり、コネさえあれば何とかなる。故にアリスが夜会に参加しているのなら、コネを駆使したという事になる。そんなアリスの紹介は、その程度にしかできないだろう。それもあまり売りにはならない。父親が、貴族の子弟が通うオックスフォードの学生監だなんて、鬼の娘、と敬遠されるのがオチだ。その時点で、アリスは自分をシーズンデビューの娘に見立てるのがひどく馬鹿らしい事だと思えてきた。グレイはそのまま、魅力的な青年貴族の姿が嵌りそうなのだから、なおさらだ。普通に考えて、アリスのような若い娘を何人も紹介され続けて、もううんざりしているだろうから、アリスは彼の意識にも引っかからない。設定に無理がありすぎる。
そうなると、これ以上この例え話を続ける事も無駄な気がして、アリスは俯く。そもそも、社交界でグレイとアリスが出会うなんていう設定が恥ずかしい。何処の乙女の妄想だ。「あの…」とアリスは口を開き掛ける。もう止めましょう。変な事を言い出してごめんなさい。
そこで、ナイトメアがアリスに手を取り、仰々しくグレイに向かってその手を差し出した。
「彼女はゴットシャルク侯爵の縁者だ。どうかよくしてやってくれ」
そして、悪戯っぽく微笑む。
「こういう事だろう?」
「え。ええ、そう」
仕事の手を止めさせてしまって申し訳ない、とそこまで言うべき台詞を考えていたアリスは、目をぱちくりさせた。話を続けるように促され、つい頷く。頷いた後にナイトメアの行動を鑑みて、つまりはまだ仕事に戻りたくないのね、と彼を流し見ると、アリスのその視線を避けるようにナイトメアが微妙に目を逸らした。けれど。
まあ、いいか。アリスは考え直した。ここで話を切るのも妙な按配だし、ナイトメアにエスコートしてもらって、青年貴族のグレイに口を利いてもらうなんて、その後起こりえないシチュエーションだ。起こるはずもないけど。もう少しだけ、そんな設定を楽しんでみるのもいい。ここだけの話なのだから。
「そして、私は挨拶するわ。『初めまして、リングマーク卿。アリス=リデルと申します』」
スカートの裾を摘み、優雅にお辞儀をする。アリスは淑女としての教育は一通り受けている。姉の切望も空しく、全く知識として持つのみとなり果ててしまったが。
「その夜はそこまでね。私はお行儀よく、ナイトメアに連れられてグレイの前から退く」
アリスの言葉を受けて、ナイトメアがアリスの手を己の腕に掛けさせた。アリスが見上げると、微笑を含んだ色の薄い瞳が見返す。夢魔の嘲笑ではない、微笑。どうやら、ナイトメアはすっかりこの状況を楽しんでいるらしい。
「その後、私は後見役になってくれている伯母様に言う訳。『リングマーク卿にまたお会いする機会は持てないかしら』」
金の縁取りのついた招待状を誰に出すのか、それを決める権限を持つのは、口喧しい年嵩の婦人達だ。彼女達だけが、自分の主催する茶会、午餐会、舞踏会などに招待する客を選定する権利を持つ。そして、知り合いや友人であるご婦人方に、立てた扇子の影から、招待者リストの末尾に新参の若い娘の名前を記載させるように囁く事ができるのも。
「グレイが、この新顔を忘れないくらいの間に、次がやってくるわね。例えば、友人に誘われた午後の茶会の席に、先日の夜会で紹介された娘の姿が…」
そこでアリスはおどけて見せた。
「『先日、お会いしましたね』くらい言うのがマナーよ?」
そして、すまし返った淑女らしい顔で続ける。
「そうしたら、私は何食わぬ顔をして『ええ、偶然ですね』と返すから」
偶然とは、常に作り出されるものなのだ。
知らない世界の話は興味深かったのか、グレイは呆れてもいないし、退屈もしていないようだった。どころか、それで?と先を促す風に言われて、背中を押されたアリスは俄然、続きを話す勇気が湧いてきた。
「そんな事が重なって、段々、仲良くなっていくわ。顔を見かけたら普通に話すようになって、共通の知り合いや友人も増えて」
「俺から君を誘う事はできないのか?」
アリスは、息が止まるかと思った。
「あ、え、ええ、と。ええ、それはできるわよ。私の後見役の伯母様の街屋敷に、大体私はシーズン中そこでご厄介になる事になるから、そこに迎えに来るの。『アリス嬢をお借りしてもいいですか?』と言ってね」
黒のフロックコートで現れたグレイに驚いて、玄関ホールまで出迎えに走ったアリスに、彼は微笑みかける。アリスは大慌てで外出用のドレスをひっくり返す。これでいいと思う?このドレスで本当に大丈夫?地味すぎじゃない?グレイは暫く待つ事になるだろう。
「大体、人目につく場所に行く事になるわね。公園を散歩するとか。他の貴族達もその辺りで散策していたりするから、二人が他の人間を介さないで会うくらいの仲になっている、とすぐに知れてしまう訳」
アリスはそこで言葉を切った。
「…あの。……面白い?こういう話」
流石にあまりにも妄想が過ぎるような気がして、アリスの口調は自然、怖々としたものになる。しかし、対する返答はと言えば。
「ああ」
「凄く面白いな」
グレイだけではなかった。ナイトメアまでもが即答だった。
「世界が違えば、貴族達の生態というのもまた違ったものになるんだなぁ。とても興味深いよ」
シーズン、シーズンね。面白いな、実に面白い。
響きを楽しむみたいにナイトメアは何度もその単語を口にする。
「君の世話をして、他の男と引き合わせる手伝いをするというのも、いいね。面白そうだ」
ナイトメアは、何かに目覚めてしまったようだった。アリスの後見が楽しいなんて。何だか恥ずかしい。妙に恥ずかしかった。アリスはこれまで、そんな風に人から扱われた事がない。庇護したいと言われた事もない。実の父親からさえも。
上った熱を振り払うように、アリスは大きく溜息を吐く。
「ナイトメア、そんなに簡単に人を『縁者』だなんて言うもんじゃないわ。もうナイトメアは、私の社交界での父親代わりって事になっちゃったんだから。私が何か変な事しでかしたら、ナイトメアの恥になっちゃうのよ?」
手は腰に、首は大きく横に振る説教スタイル。だけど、顔が真っ赤になっていては台無しだ。ああ恥ずかしい。どうしたら、この思いをこの熱を振り払う事ができるだろう。
「グレイだって、こんなに簡単に小娘の策略に引っかかっちゃ駄目!」
矛先はそのまま、グレイにも向いた。
「もう、私なんか最初っからグレイの事狙ってるじゃない。そんなのを誘いに来たりしちゃ駄目なのよ」
「そうか?」
「そうよ、駄目よ」
駄目よ騙されてると繰り返すアリスに、何が面白いのか、グレイはにこにこと笑ったままだ。いや、にこにこというよりは、にまにまと。そして、ナイトメアははっきりとにやにやと。
ばちんとナイトメアを引っぱたきたくなったが、その時、ナイトメアは慌てて言葉を紡いだ。
「人目につく場所に行く、というのは、周りにアピールするためかい?例えば、グレイが君とつき合う事になったから、他の男は君には手出し無用、と」
「いいえ。そんなんじゃないわ」
どうやら、アリスの心を読んだらしい。ちっ、と密かに舌打ち。やはり、アリスは淑女にはなりきれない。
「シーズンは、あくまでも出会いの場なの。恋愛だけじゃなくて、友人との交流もあるし、その後家同士で事業を始めるとか、そういった人脈作りのためもあるし。だから、グレイと仲良くなっていたとしても、他の人に誘われれば、やっぱり一緒に出かけはするの。余程の事がなければ断らないわね。というか、断れないわ。貴族社会って狭くて狭くて狭いものなんだもの」
そもそも、一緒に散歩したくらいで『つき合う』事にはならない。そういった意味での恋愛の自由は、社交界にはない。少なくとも、未婚女性の場合には。
「誰と何処に行くにしても、あくまでも人目につく場所ね。完全な二人っきりにはならないというのが、淑女の嗜みなの」
シーズン中はあくまでも、清く正しいお付き合い。その間、これはと思う女性に出会えたら、その女性に求婚する。女性側はシーズンの終わりまでに誰かに、または何人かに求婚されたら、その中のひとりに了承するか、または全員お断りするかを選ぶ事になる。そして、結婚相手が見つかるまで、数回シーズンは繰り返されるのだ。
それでも、どうにも納得のいかないらしいナイトメアは更に問う。
「それでも、二人っきりになってしまう事はあるだろう?運悪く、そうだな、帽子屋のような男と」
「ブラッドと?」
それは最悪だ。いや、別にブラッド自身が最悪だという訳ではないのだが。
二人きりといっても、状況によりけりだ。例えば、グレイだったらアリスの名誉を担保するように振る舞ってくれそうだが、相手はブラッド。あのブラッド=デュプレだ。
アリスには最悪のパターンしか思いつけない。
「そうなったら、もうお終いね」
我ながら酷い言われようだと思うがしかし、それもこれも、日頃の行いというものだ。
「ゴシップはあっという間に広まるし、二人の間には何もなかったと言っても、信じてはもらえない。社交界での私の評判は地に落ちるわ。私を『縁者』だと紹介したナイトメアの面子もね」
仮定の話なのに、アリスの言葉は悲壮感に満ちている。だってブラッド。相手があのブラッド。
最悪だ。…いや、別にブラッド自体が以下略。
「ナイトメアはブラッドに決闘を申し込まなければならなくなるし、ブラッドも一族の女性達から散々に責められるでしょう。そんな抜き差しならない状況から抜け出す方法はひとつだけ」
それで、ナイトメアは決闘をしなくてもよくなり、アリスは社交界から追放される事もなくなり、ブラッドは一族の者皆から総スカンを受ける事もなくなる。全てが丸く収まる、たったひとつの方法。
「早々にシーズンを切り上げて、ブラッドと結婚する事だけよ」



「なぁ、お嬢さん。何故、夢魔と蜥蜴はあんなに私の事を睨んでいるのかな。私は彼等に何かした覚えはないのだが…」
「そうでしょうね」

信じられないと顔に大書きしたナイトメアは「嫌だ!君をあんな男に渡すなんて!」と叫んだ。お父さんは許しません!!今にも倒れそうなくらい、その顔色は真っ青だった。
「そもそも、君はグレイの事が好きだったはずだ!」
確かにそういう設定だった。アリスは目の前に立ち尽くすグレイに「次のシーズンに再会した時は、デュプレ夫人ともお友達になってね」と微笑みかけた。仮定の話であっても、グレイに白い目で見られるのは胸が痛む。その時、執務室の扉をノックして、顔なしの部下が新しい書類を運んできた。それを受け取るためにアリスは二人の前から離れた。それでその話は終わった。少なくとも、アリスはそう思っていた。

なのに、ナイトメアとグレイは未だに腹を立てている。例え話の中の仮定話で、お話の登場人物に過ぎないブラッド当人とも言えないブラッドに対して。
アリスの視線はただ遠い。
今回だけは純然たる被害者である帽子屋は、ただただ不思議顔だった。



END



ロマンス小説やなんかだったら、お貴族ブラッドとアリスは
当初はいがみ合いつつ愛が芽生えるシチュエーション。


「君の目当ては元々、リングマーク卿だった」
「…何が言いたいの」
策略に引っかかった。身分と財産目当ての小娘をデュプレ夫人に据えなくてはならなくなった。ブラッドはそう思っている。実際、口にもしてアリスを詰った。それが今更、何ですって?
この男は、何処までアリスを悪女に仕立て上げたら気が済むのか。
アリスは憤然と振り向き、背後に立つ夫と対峙した。
「ご心配なく。私は『デュプレ夫人』としての地位を危うくするような事など決してしないから」
そうよ、あなたの言うとおり。身分が目当てだと仄めかす。ならば今更、グレイに色目など使うはずがないでしょう、と。
「そうだな。今や、君はデュプレ夫人だ」
頬を紅潮させた妻の瞳が怒りにきらきらと輝くのを冷静に見下ろし、ブラッドは片頬を歪めた。
「私の物だ」


定番だけど、こういうのも萌ゆる。








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