それはまるでおとぎ話


おとぎ-ばなし 4 【▽御▼伽話/▽御▼伽▼噺】
(1)大人が子供に語って聞かせる昔話や言い伝え。
(2)現実とは懸け離れた架空の話。夢物語。
三省堂提供「大辞林 第二版」/Goo国語辞書 より



現実から逃避したい天羽がふらふらと屋上の柵へと寄った、その下に香穂子の姿が見えたのだ。その手には、いつものようにヴァイオリンを収めたケースがある。今春に行われたコンクール以来、彼女の手にあの赤い革張りのケースが下げられていないのを、天羽は見た事がない。
ヴァイオリンに限らず、楽器演奏に日々の練習は欠かせない。一日休めば、指は確実に鈍る。ヴァイオリンを弾くのは趣味だと言い、音楽科に転科する気もない彼女がそれでもヴァイオリンに触らない日はないのは、明らかに周囲にいるコンクール参加者達の影響で、そして、その事実は彼女を音楽の道へと歩ませることを未だ諦めていない周囲の希望を繋いでいる。天羽にも判る。彼女のヴァイオリンは『本物』であると。だから、彼女のその才能を思うさま伸ばしたいと願う周囲の思惑もまた、よく判る。学校側然り。そして、彼女が『先輩』と呼ぶ音楽科のOB然り。
香穂子はひとりでいるのではなかった。その隣に、王崎がいるのが見えた。王崎は彼女と一緒にベンチに腰掛けていて、二人は何事か話し合っている。声は聞こえないが、和やかな空気が感じられた。王崎の周囲が和やかでない場合の方が珍しかったが。
国際コンクールでの実績を持つ新進気鋭のヴァイオリニストで、今や忙しい身の上である彼は変わらず、オーケストラ部の指導のために学院へとやってくる。しかし、そのおとないがこんなに頻繁になったのは、彼の『後輩』である香穂子のためだ。香穂子がヴァイオリンを弾くように、弾けるように、彼はできるだけ誘導しようとする。
香穂子は人前でヴァイオリンを弾きたがらない。特に不特定多数の人の前では。彼女がひっそりと弾くのは、校内では『秘密基地』と称する中庭の隅か、音楽科の屋上。共通点は、人があまりいないという事。自身の音を晒すのは気恥ずかしいのだと前に言っていた。それは己の全てを晒す事に等しいから。それを乗り越える事は音楽家としての基本だったし、乗り越えさせたいと思う人は香穂子に人前でヴァイオリンを弾かせようとする。
多分、実際には恥ずかしいというだけではない。それはあの意志の強い香穂子に似つかわしくない。それとは別の何か決定的な理由の存在を、天羽は感じていたのだけれど。
王崎が何か言ったらしいのを受けて、香穂子が戸惑ったように周囲を見渡した。

『久しぶりに日野さんのヴァイオリンが聴きたいな』…なんて感じでしょうかね…。

王崎という存在は、香穂子にとっては鬼門だ。穏やかにやんわりと、無理強いする訳でもなく勧められて、香穂子はいつもそんな彼の言葉を拒否しきれない。自分に正直が信条の香穂子が、最後には自分を曲げても彼の願いを叶えてしまう、そんな数少ない相手なのだ。彼の優しく包み込むような音を香穂子は理想だと語り、それ故にかもしれなかったし、誠実ないい人を傷つけたくないと思うせいかもしれなかった。そんな香穂子の心情を王崎が気づいているのか、気づいていて利用しているのか、天羽には判らなかったが、王崎は常の柔らかな笑顔のまま、香穂子に人前でヴァイオリンを弾く事を強いる。天羽の目には、強いているといって決して言い過ぎではないように映る。
今現在もまた、そうだ。正門前に続く広場には、それなりに人がいる。そこを更に何事か言われたようだ。恐らく、香穂子が苦手とするあの穏やかな微笑みで。まるで目の前で展開しているかのようなその情景は、決して手前勝手な空想ではない。実際、眼下の香穂子は王崎の前でいつもするように、怖ず怖ずした様子でヴァイオリンのケースを開けた。
「日野さんが弾く!」
いつの間にか隣に来ていた加地の叫びに、天羽は飛び上がった。
通りすがった周囲もまた、指慣らしを兼ねた調弦を始めた香穂子に気づいて、足を止めている。滅多に耳にしないできない、普通科の日野香穂子のヴァイオリンは既に星奏では伝説の域だ。批判もやっかみも全て含めて、音楽を志す者なら誰もが無視できない音であり、存在だった。
香穂子の音に惹かれた者の筆頭である加地は、ものすごい早さで屋上の階段を駆け下りていった。既に走る靴音も遠い。あの勢いだったら香穂子の演奏の最初の一音に間に合うかもしれない。
「やれやれ。忙しないね」
ゆったりと笑む柚木を含む周囲全てにだろう、「じゃあ、僕も失礼します」と志水が頭を下げた。
「香穂先輩の演奏、聴きにいかないといけないので」
常の如くどこかふわふわとした足取りで、志水もまた、屋上を下る階段口へと消えていった。
「俺も行かなきゃ。香穂ちゃんの演奏を聴けるのなんて、久しぶりだね!」
「ああ、僕も行くよ。彼女の音に触れるチャンスを逃す訳にはいかないからね」
三年生がにこやかに連れ立って、それでも急ぎ足でその場を去っていけば、残った二年生もまた。
「じゃあ、俺も行くぜ」
「もう用事はすんだんだろう。俺もこれで失礼する」
互いにあえて相手の顔も見ず、階段を下っていった。途中、「前を歩くな」などと言い合う声が響いて聞こえたが、結局のところ同じ場所に向かうのだから、目的地に到達するまでずっと同じ言い争いを繰り広げるのだろう。
しばらく、そんな彼等の去っていく気配のようなものをただ耳で追いかけて、そして天羽は、柵を背にその場にしゃがみ込む。
急に静かになってしまった。吹く風が妙に冷たく感じられる。
程なく、ヴァイオリンの音が遠く細く響いてきた。
彼等は間に合っただろうか。その演奏を請えば、香穂子が何の蟠りもなさげに応じてくれる数少ない存在である天羽は小さく笑う。日野香穂子に特別扱いされる優越感と、音楽を通した仲間でないが故の優遇に対する疎外感。
彼等の今の関係は、とても微妙なバランスの上に成り立っている。
それらを一気に突き崩すに足る小さな軋みのようなものは、常にどこかしらに存在していて、いつかこの穏やかに生ぬるい空間も壊れてなくなってしまうのかもしれない。だけどそれでも、信じたいのだ。
登場人物の全員が『そしてみんなは幸せに暮らしました』で終われるようなおとぎ話だって、音楽の妖精に護られたこの学院で、妖精に愛されたようなひとりの少女ならば作り出せるのかもしれないと。
ヴァイオリンの音は、常のように美しい。天羽も何処かで聴いた事のある、それでも曲名までは知らない音楽。愁いも華やかさも清らかさも、全てを突き抜けた天上の音。
風に乗り、全てに届く。祈りと願いと望みと。夢は叶う、叶うかもしれないという希望で満たす。
おとぎ話を信じたくなる音だった。










「あの子は、私の背後にいるファータを見たんだ。凄いと思わないか?私がきらきら光って見えたって言うんだぞ?」

ファータ達の羽は光の微粒子を飛ばす。彼もそれは知っていた。彼にもあの忌々しいファータが見えるので。
その少女は気の毒にも、彼等一族と同じ体質を持って生まれてきてしまったらしい。つまりは、ファータ濃度過多症。確かにある意味、彼自身と同じ子供な訳だ。

「私にも見えたよ。ファータ達が彼女を取り巻いて、一斉に歌った。ファンファーレを響かせて、『見つけた。見つけた。見つけた』ってね。ファータの愛し児だよ。凄いじゃないか?」

受話器からの声は先ほどから、『凄い、凄い』と繰り返している。彼は溜息を吐いた。如何にもうんざりしているという現在の心情が伝わるように、深く大きく。勿論、そんな事くらいで怯むような相手ではなかったが。

「ああ、まるで我が家の嫁になるために生まれてきたかのようじゃないか」

「残念ですが、俺にはロリコン趣味はないので」

間髪入れずに返した応えに対して、何やらむっとしたらしい、そんな声音がまた返される。

「今すぐとは言っていない。少しは考えろ。12年も経てば、お前は30、あの子は16だ。どうだ、美味しいだろう」

「その発想が既にロリコンなんですよ」

そんなに気に入ったなら、お父さんが嫁にすればいいでしょう。お母さんには黙っていてあげますよ。

お前、なんて事を言うんだ。そんな事をしたら、私が母さんに殺される。こら暁彦…。

そこで暁彦は、受話器を置いた。父親の話の続きになど既に興味もなかった。
今夜は星奏の学院祭だった。理事長である暁彦の父が出席するのは当然として、暁彦自身も星奏の生徒であったから出席資格は持っていたが、昼の部と違って夜のパーティの参加は義務ではない。義務ではないのをいいことに、暁彦は夜のパーティへの参加を見合わせている。姉と姉の友人…恋人に限りなく近かった…がいなくなってから、ずっとそうだった。
星奏は嫌いだ。忘れがたい思い出があちらこちらに染みついている。
できるだけ星奏から離れるため、ヴァイオリンは既に捨てた。大学も星奏以外に進む。音楽さえ捨てれば、今後のファータ共との接触も最低限にできる。断絶できる、とまでいかないのが業腹だが、それは仕方がない。彼の家系は、学院の創立者に繋がる。星奏は彼等一族の持ち物なのだ。暁彦自身も将来、直系男子の責務として理事長になり、学院の経営に携わる事になるのだろう。それは否応もなく、既に決定された未来だ。

如何に逃れようとしても、吉羅家の者はこの学院に縛られている。

暁彦は再び、深々と溜息を吐く。


ファータに惹き寄せられた子供が星奏にやってきたら、「可哀想に」と頭を撫でてあげようか。本当に彼等に見込まれ、魅入られたなら、シフェラザードの夜伽話どころではない、万夜も続くそれは呪いとなるのだから。


皮肉な思いに口端を歪めて、吉羅暁彦は嗤った。



END



2の新キャラはどちらも大好きです。








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