だってあちこち痛い


このちごのかたちの清らなること世になく
家の内は暗きところなく光満ちたり

新井信之旧蔵『竹取物語』校訂本文



そこに闇があった。
耳に痛いほどの沈黙と湿った温度を備えた闇は、まるで天鵞絨のような質感を持ってそこに在り、全てのものの息を殺させた。何も存在しない虚空ではない。確かに何かが存在する、何者かが潜む、それを闇というのだと、この世界に来てあかねは初めて知った。



軋んだ音を立てながら牛車は進む。一足毎に埃を蹴立てて、ごとごとと車を揺すりながら。
進むのは、一般に中級貴族によって使われる網代車であったけれど、見る目のある者にはそれを見たままに判断する事はできなかっただろう。その地味な設えはあえて地味につくったといった様子で、そこここに施された装飾はあくまでも持ち主の趣味のよさを示す典雅さで、如何にも高位の貴族によるお忍びといった風情を醸していた。勿論、今その車に乗り移動する者は、世話になる殿にある最も目立たぬ車を借り入れたのみであったのだが。
牛の歩む一歩毎にぎしぎしと軋む車輪には、小さな妖しがしがみつくようにまとわりついている。さだめし車は重いだろう、と牽く牛に同情するが、しかしそれだけだ。何の害もない、ただ悪戯に類する干渉しかできない小さな妖し。京には無数のそれら妖しが存在し、彼等は確かにこの世界の一部を形作っている。無力な妖しとそれよりも少し力を持った魑魅魍魎。闇に潜む彼等はしかし、決して龍神のしろしめすこの世界の理から外れた存在などではない。
己の内に満ちる五行の力を教えられずとも知るように、あかねは世界の調和の何たるかを理解する。妖し達は世界に否定されてはいない。鬼の呼び込んだ怨霊達のようには。
怨霊は穢れであり、京の結界を浸食する虚無だ。彼等の発する負の感情は、結界に虫喰いのような穴を穿ち、やがては世界を喰らいつくす。浄化し、五行の流れの中に還元する事によってしか、彼等を世界の一部に戻す事はできない。それは龍神の神子たるあかねにしか行えない業だ。そのために、あかねは自身の世界からここ京へと召還された。鬼により、あかねは京へと召還された。
彼を思うと、あかねの胸に針を刺すような痛みが走る。鬼はあかねを召還した際、自身とあかねとを呪で結びつけた。あかねを使役するために、あかねを逃さないために。
『一緒になんかいかない』
神泉苑で彼の手を振り払ったあかねの言の葉は、確かに鬼の呪を断ち切った。しかし、呪の残滓は今でも時折あかねを縛る。己を手招く鬼の声がひどく甘美に響く程には。
鬼が何なのか、あかねは知らない。あやかしではない。魑魅魍魎でもない。鬼と対面した事があるあかねはそれを知っている。人のような姿をした、しかし明らかに人とは違うモノ。人の世の理から外れた呪力を使役するもの達。
大江山の鬼が退治されて、もう随分になる。あかねがこの世界に来るずっと前、昔の話だ。隠れ里は夜襲され、火に包まれ、地も付近を流れる川も赤く染まったという。鬼の血もまた赤いのだ。人のように、人の世に生きる全ての生き物と同じように。
それでも、いや、だからこそなのか、人は鬼を忌避する。
軋んだ音を立てながら牛車は進む。ぎしぎしと軋む車輪は一際細く高く呻き、現在のあかねの帰るべき場所が近い事を示していた。



「あかねちゃん、お帰りなさい」
衣についた埃を落とし、殿へと階を上がりかけた時、ぱたぱたと板間を走る音が近づいて、明るい笑顔を覗かせたのはあかねと同じ世界からやってきた友人。借りた狩衣にも既に慣れた様子で、先前のように袴の裾を踏んで転びかけるような事もない。あかねを含めた来訪者の中で彼が最も早くこの世界に馴染んだのは、物事に対して柔軟なその性質故だろうか。
色の薄い瞳が、その暖かな色合いが細められる。優しい微笑み。
「ただいま、詩紋君」
烏帽子のない頭にあるふわふわと柔らかな髪は、暖かそうな藁の色。
「今日は何もなかった?」
何もなくちゃいけないよね、と自身の言葉に苦笑しながら、だけれどそれがあかねを案じての言葉だと判るから、あかねもまた笑って首を横に振る。
「うん、大丈夫。何もなかったよ」
誰も怪我はしなかった。ちゃんと怨霊を封印できた。鬼とは遭遇しなかった。
その全てを内包した返答に、詩紋の笑顔に隠しきれない安堵が滲む。
あかねが無事でよかった。八葉の仲間が無事でよかった。鬼と戦わずにすんでよかった。
詩紋の心情を正しく理解して、あかねはその思いに目を瞑る。
地の朱雀である流山詩紋は、その外見からよく鬼と間違われる。繊細な少年が自身の外見に抱いていたコンプレックスはこの世界に来る前からのもので、元来人懐こい彼がその姿のためにとても孤独な思いをしてきた事をあかねはよく知っている。彼がそのために鬼と、己と似た姿をした鬼と話し合いができないかと考えている事も知っている。排斥される辛さ、味方のいない怖さ、独りぽっちの悲しみ。
当時の自身に重ね合わせているのだ。
詩紋を傷つけたくないあかねは、だから、詩紋の望みに目を瞑る。
鬼は敵だ、と天の朱雀は言った。他の八葉も、何も言わずともそう思っているのが判る。そして何より、あかねはそれが真実である事を知っている。
鬼との和解など幻想でしかない。怨霊は封印しなければならない。穢れは浄化しなければならない。鬼は倒さなければならない。鬼は、敵、なのだ。



祓っても祓っても、新たな穢れが生まれる。
京の結界に穿たれた虚無はあまりにも多く、ひとあなひとあなを繕うように塞いでも、翌日にはより以上の怨霊が生じる。あかね達のしている事に意味など在るのか。全くないような気さえしてくる。
それが鬼の目的なのだ。あかね達を絶望させ、逆らう気などなくしてしまうことが。
知っていてなお、疲労が溜まると考えてしまう。あらゆる者共が潜む闇がひたりひたりと忍び寄ってくるのを感じる。
闇。
下げられた御簾の向こうは、射干玉の夜の闇。さらさらと小糠の雨が降っている。寝所となっている塗籠から這い出し、続きの間との境に立てられた几帳を分ける。几帳の帷子には、湿った闇の感触が染みついている。
眠らなければ、せめて目を瞑って体を横たえていなければ、明日からの探索に差し障る。皆に面倒を掛ける事になってしまう。それでも奇妙な息苦しさに、せめて外気に触れたいと御簾へと視線を伸ばす。
そこに、一層黒々とした、闇、があった。



御簾越しに蟠る闇はヒトの形を取っていた。烏帽子を被った直衣姿。湿った夜風に混じる密やかな香の匂い。これまでにも幾度となく嗅いだその高雅な匂い。
胸が痛い。
衝撃のあまり、呼吸さえまともにできない。けれど、それに気づかれる訳にはいかない。震える体を己の腕で抱くようにして押さえ込み、静かに息を吐く。微かに震える喉から、途切れ途切れの空気が洩れる。
ソレは、彼は動かない。あかねも動かない。動けない。動いたら、何かが壊れるような気がした。
さらさらと小糠の雨が降る。細く繊細な雫が世界を濡らす音がする。あるかなしかの風に乗って届く湿り気が、御簾の内と外とを繋ぐ。届く香の匂いがあかねを縛る。
御簾の向こう側で、彼が嗤った。音もなく密やかに、ただその気配を感じる。続く緊張に、眩暈すらする。
音もなく密やかに、彼が何事かを呟く。音もなく密やかに、決して耳には届かないそれを、何故あかねは理解できてしまうのだろう。

私の神子。

ただ、その一言。
それだけを告げて、金色の鬼の形をした闇は消えた。まるで初めから何も存在しなかったかのように。密やかな香の匂いだけを残して。



雨の音だけが続く部屋で蹲り、膝を抱えて御簾越しの夜闇を見つめて、あかねはまんじりともせず夜を過ごした。眠らなくてはならないと判っていたけれど、既に寝屋に戻る気にならなかった。御簾の向こうに鬼がいない事を鬼が戻ってこない事を確認しなくては横になどなれない。鬼はもう戻ってはこない。決して戻らないと知っているのに、この場から離れる事ができない。
胸がきりきりと痛くて、息をするのが苦しい。あかねが彼の姿に苦しむ事を、その後、眠る事さえできない事もきっとあの鬼は知っている。彼が消えた後、彼の事だけしか心の内に思わない。それを知ってあの鬼はこうして、ひとりでいるあかねの前に姿を現す。
鬼はあかねを嬲る事を心底楽しむ。愉悦する。それが鬼という種族の特性なのか、金色の鬼のみの事なのかあかねは知らない。
身を縮めて、己の身を抱きしめて。深く静かに呼吸を繰り返す。既にあの香の匂いはない。雨に濡れた夜の匂いがするのみの空気で肺を満たす。
あかねを使役するのは、あかねを縛り付けるのは、鬼ではなくて龍神だ。道理を理解する事が呪をはね除ける助けとなる。


ああ、だけれど胸が痛い。金色の鬼があかねを縛る。唇を冷笑の形に吊り上げた微笑みで、仮面の奥から覗く色のない瞳で。いっそ優しげでさえあるその声音でただ、私の神子、と囁く、それだけで。



「大嫌い」



だって、あちこち、痛い。



END



天女と只人との間の恋は、常に悲恋で終わる。
あに図らんや天女と鬼とはや。

というカンジで展開予定。許されぬ恋大好物。








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