煙草とバニラと僕たちの関係


優しいひと 綺麗なひと
格好いいひと 可愛いひと



目の前の扉をノックして。「はい、どうぞ」と暖かく柔らかな声を聞いてから、すぐに扉を開ける。そうしないと、扉は内側から開けられてしまうと判っているから。
「こんにちわ」
扉のすぐ近くに、彼がいる。多分、啓太のために、扉を開けに行く途中で、だからそれは徒労に終わってしまったのだけれど。
「いらっしゃい、伊藤くん」
だけど、こうして、一番最初に貰える歓迎の微笑みは、とても嬉しい。
「こんにちわ、七条さん」
啓太に対して、正直すぎる、といったのは、親友の和希だった。嘘の付けない性格は、もう随分と自覚していたのだけれど、それ以前の問題として、啓太の感情は全部、その表情に現れてしまっているらしい。
『特に、その笑顔だ。何処にでも垂れ流すんじゃないぞ』
…垂れ流す、って、失礼だよなー。
なんて思いながら、啓太は満面の笑みで七条に対する。和希の言った事が本当なら、そして、本当だったらいいな、と啓太は思っているのだが、目の前のこの人に、啓太の好意が伝わったらとても嬉しいと、そう思ったのだ。
毎日毎日、言葉にしない好意が、伝わったらいいのにな。
七条は、そんな啓太にいつものように目を細めて。…そして、軽く眉を顰めた。
「あの。今日は、遊びにきたんじゃないんです。学生会からの届け物があって…」
テストも終わった平和な放課後。頻繁に捕獲連行されては雑用を仰せつかっていた学生会に、自分から足を運ぶようになったのは、ごく最近の事。
忙しさの度合いを表現するのに、猫の手も借りたい、とは言うけれど、この学園の学生会は、本当に、使えるものなら猫の手だって使うだろう。
だから、一年生で転校生で、学園の事もろくに知らない下っ端もいいところの、使えなさ加減では猫以下かもしれない啓太でさえも、使われているのだ。
小脇に抱えていたクリアファイルを手に取るのに、下を向いていた啓太は、七条の表情の変化に気づかなかった。ファイルの中から、目当ての書類を抜き出し、顔を上げる。覆い被さっている、これは何?何やら、甘い匂いがする。
いつの間にか七条が身を屈めて、啓太の頭に顔を寄せていた。それで、啓太が顔を上げたものだから、二人の顔の位置はひどく近くなっていて。
「あああああ、あの???」
思わず半歩、彼の前から退く。己の髪の毛が、彼の唇を掠めるのが判った。
七条は無言のまま、啓太の手を、差し出された書類毎、握る。それは、啓太が今まで培ってきた小市民的理解の範疇を超えていた。己の顔は、きっと今、赤くなったり青くなったりしている。もういっぱいいっぱいなのに、七条が、啓太の手を己の口元に持っていくのを目にした日には、何やら、涙まで出そうになった。
…どうしよう。七条さんが、変だ…。
きょときょとと周囲に視線を逃がす啓太は、既に逃げ場を探す小動物の体である。が、対する七条はあくまでも冷静だった。
「…煙草の匂いがしますね。どうやら、自分で吸った訳ではないようですが…」
その言に。ぽかんとして七条を見つめた啓太は、ようやっと納得する。
髪の毛に匂いがついてたんだ。だけど、爪の間には匂いがないから、直接、煙草に触った訳じゃない、と。
その推測は正しい。だけど、唐突な行動は、心臓に悪いから止めてほしい。
取りあえず、ピンチを切り抜けた事実に胸を撫で下ろしながら、それでも、未だ顔の赤みは去ってくれない。この人、自分の行動が相手に与える影響を、考えなさすぎだと思う。
ちょっぴり恨みがましい気持ちで、彼を上目遣いで見遣る。だけど彼は、無言のまま、啓太の返事を待っている。
…いや。彼の行動に意味を考えすぎる、己のせいなのかもしれない。
「…決裁書類たくさんあるのに、また、王様が逃げちゃったんです」
小さく息を吐くと、赤く染めた頬に気づかれないよう、俯きがちに啓太は語った。既にタコ部屋と化した学生会室の惨状を。
目の前で難しい顔をした七条に、取りあえず、手を離してくれないかなぁ、なんて思いながら。



一歩足を踏み入れた学生会室は、揺らぐ空気が煙って見えた。副会長中嶋の怒りが視覚に映って、という訳ではない。事実、空気が白かったのである。
「…げほ」
煙の発生源は、部屋の奥にいた。黙々と、ただ、黙々と煙を噴き上げるために銜えている。そんな気さえする程に、彼は異常なハイスピードで煙草を消費し、そして、目の前に置かれた灰皿に、ひたすら吸い殻を躙りつけていた。まるで、その灰皿が逃亡中の学生会長の顔だとでも思っているかのように。
このまま、帰っちゃおうかな、と思った啓太の思考を読みとったかのような絶妙のタイミングで、中嶋は手にしていた書類から顔を上げた。
「…何をしている。さっさと入れ」
最初は、部屋に入るために扉を開けた。しかし今、入室せぬまま、静かに扉を締めようとしていた啓太は、中嶋の眼鏡越しの冷たい視線に晒されて、肩を落とす。その視線が雄弁に語っていたのだ。お前まで逃げる気か、と。
…王様、いないんだ。そんでもって、今、すんごく忙しいんだ。中嶋さんが、王様を探しに行く時間もないくらい。
中嶋は、いつもだったら、こんなに大量の煙草を吸ったりしない。学生による自治を旨とするこの学園で、とかく学生会の権限は強く、それ以上に仕事も多岐に渡り、ストレスも多い。それを知っているから、副会長に煙草くらいでみんなあれこれ言ったりしないけれども、そう褒められた事でもないと、何よりも中嶋自身が判っている。多分。
だけど今、部屋の中は真っ白だ。
啓太は、そっと部屋に入ると、窓を細く開けて、部屋の空気を入れ替えに掛かった。



「…要するに、これは、副会長の煙草な訳ですか…」
立ち話も何ですから、と、結局、会計室の中に通されて。いつものソファ、いつもの紅茶。そして、いつも七条が用意してくれる、それでも、いつも違う甘い菓子。
目の前には、西園寺。隣に七条。蓋を開けてみれば、いつものスペースでのいつものおやつタイムである。
「…全く、あの馬鹿は…」
目の前の西園寺が、息を吐きながら、口にした。この言葉を機に、七条はそっと席を立つ。啓太の問いかける視線に、気にしないで下さい、と言わんばかりの微笑みを返した人は、恐らく、紅茶のお代わりを用意するのだろう。会計室奥の簡易キッチンへと歩んでいった。
それを目線で追いながら、啓太もまた、息を吐く。
西園寺語るところの『あの馬鹿』は、現在、何処にいるのやら。「会計部には、来ませんでしたか?」なんて訊いてみても、憮然とした調子で、首を横に振られるだけ。
「…逃げたい気持ちもわかるんですよ。王様、本当に事務仕事、向いてないから」
見るからにつまらなそうな顔で、決裁書類に判子を押す。中嶋に捕獲された丹羽は、まるであの大きな体を無理矢理縮めて、できるだけ小さく動かなければならないと思ってでもいるかのようで。本当に、可哀相なくらいなのだ。
「だからといって、すべき事を放棄する理由にはならないな。そもそも、ソレは、奴の仕事なのだから」
正論だ。いつもながら、一点の曇りもなしだ。
この人の女性的な美貌に隠された中身は、鋼のように強くて頑丈。自分にも人にも等しく厳しい。一本筋の通った凛とした雰囲気は、彼に高貴さを加味する。『女王様』とも称される彼は、それでも、その内面に女性的な部分など、何処にも持ち合わせていない。啓太にとって、西園寺はいつだって『格好いい人』だ。
自分の感情に対して、子供のように正直で素直な丹羽を『可愛い』と思うのと同じように。
「ぅわ?!」
そっと包み込むように触れられたにも係わらず、突然、視界を遮られた啓太は、思わず身を竦める。何かが頭上に被せられた。次いで、頭皮に刷り込むように動く、タオル越しの指?
「七条さん?」
「冷たくないですか?」
この言に、ふるりと首を横に振る。
「少し、我慢して下さいね。拭けば、匂いも取れますから」
七条が、絞ったタオルで啓太の頭を丹念に擦る。そのまま、顔を頭上に上げれば、いつの間にか啓太の背後に立っていた七条の、綺麗な笑顔。
綺麗な人の綺麗な笑顔。つい、顔が赤らんでしまうのを自覚する。
もう、これは条件反射なのだ。しょうがないのだ。だって、本当に綺麗なんだもん。
そんな啓太の開き直りの心情は、目の前のこの人にはお見通しなのだろうか、「ふふ」と小さく微笑んで、彼は啓太の髪を拭く。
「…このタオル、凄くいい匂いがします…」
言外に、気持ちいい、と滲ませると、七条はより一層、綺麗に微笑った。



「お邪魔しました。すみません、結局、お茶までご馳走になっちゃって」
「誘ったのは、こちらだ。気にする事はない」
西園寺の言葉に、恥ずかしそうに笑う。この人は、相手に気を遣った優しい嘘なんて絶対つかないから、啓太を邪魔になんて、本当に思っていないのは明白で。
「また、来てもいいですか?えっと、今度は遊びに」
…これはちょっと、図々しかったかな、と思うより前に、
「勿論です。伊藤くんは、いつも早々に帰ってしまうから、とても寂しいんですよ」
綺麗な人の優しい言葉。だけど、彼は優しい嘘をくれる人だから。
七条の背後に立っていた西園寺が、鹿爪らしい顔をして頷いて、それで啓太は初めて、ほっとしたように微笑う。それに対してまた、「伊藤くんは、郁の言う事なら信じるんですね」なんて、拗ねた口調で恨み言を言う人に、慌てたように首を振って。
それは、会計部を辞する時の約束事のようなもので、本当に彼が気を悪くしているとは思わないのだけれど、それでも、ちょっとでも嫌われたかもしれない、と思うと堪らない気持ちになるもので。
「…冗談ですよ」
暖かな言葉に、やっと安心する。
結局、啓太が学生会室へと戻る事ができたのは、また随分と時間が過ぎてからの事だった。



…また、部屋が白くなってる…。
折角、空気を入れ換えしてから出て行ったのに、今はまた、前にも増して凄いような…。
「遅い」
「すみません!」
深々と頭を下げながら、折り返し、会計部で受け取った書類を、中嶋へと差し出した。むっつり黙り込んだ人が、不承不承、といった様子で、書類を受け取ってから頭を上げて、書類に埋もれた中嶋の机から辞すると同時に、さりげなく、机の上でこんもり吸い殻の山を作っていた灰皿を手にする。
「コーヒー入れますね」
これは、殊更にゆっくりと作って、それまで灰皿は返さないつもり。ぴかぴかに磨いて戻したら、もう吸い殻で汚す気にならなくなるだろうか。
責任感の強いこの人が、少しでも憩えたらいい、と思っていた。物言いが苛烈すぎるから、何かと人に誤解されるけれど、本当はとても優しい人。ちょっとした言葉の端に、触れる手に、そんな彼の気持ちを感じ取って、休らう。彼がただ、意地悪なだけの人だったら、啓太は決して、懐いたりしなかったし、こんなに頻繁に学生会に出入りする事もなかっただろうと思う。
中嶋の好みは、うんと濃いコーヒーに、ミルクも砂糖も入れない、本当のブラック。
だけど、今日は少し薄く、砂糖は入れないけれども、ミルクはたっぷりと。今日だけでも、コーヒーで胃を痛めつけるのは、避けた方がいいんじゃないかと思うから。
本音で言えば、砂糖を入れた方が疲れが取れると思うんだけど、甘い飲み物が大嫌いな人だからなぁ。
ビターなチョコでも添えたら、いいかもしれない。…確か、王様のおやつ引き出し…文字通り、おやつをしまった引き出し…の中に、残ってたよね、チョコレート。いや、あれはミルクチョコだったか。
考え事をしていた啓太は、いつの間にか席を立ち、背後に立っていた人物に気づかなかった。いきなり、頭を鷲掴みにされて、びっくりする。びっくり、とは、随分、穏当な言い様だ。口から、心臓が飛び出すかと思った。それくらい、驚いた。
「…な、なに?」
授業にも出ず、今日は一日、この部屋に詰めていたらしい人は、おもむろに啓太の頭に顔を落とした。
これは、前に同じような目にあった事がある。もう、ほんのちょっと前の事だ。
「……何の匂いがするんですか?」
怖々とした啓太の声に、中嶋はうっそりと微笑った。それは、先程の綺麗な人とは全く違う、獲物を狙う肉食獣にも似た笑みだった。
小動物、ターゲットオン。
啓太は、固まった。下手に動くと食われそうな気がした。
「……あ、あ、ああああ、あの…」
「…甘ったるい匂いがする。胸が悪くなりそうな。…バニラ・エッセンス、か?」
啓太の脳裏を、先程の七条の行動が過ぎり去る。いい匂いのする濡れタオル。
…そーかぁ。バニラ・エッセンスかぁ…。
会計部の部屋は、いつも甘いいい匂いがしているので、気づかなかった。いや、いつも甘い、いい匂いがしているのは、七条自身だ。西園寺は、中嶋同様、甘い物が好きではない。香りの高い紅茶も、すっきりとした飲み口のものばかりだ。
…ああ、思考が空転している。多分、中嶋さんも、バニラは七条さんの香りだと知っている。
嫌なら、近寄らなきゃいいのに、と思うが、中嶋の手は、啓太の頭を鷲掴んだままだ。このままだと、握りつぶされるかもしれない。
……何だか、涙が出そうになってきた。
そんな啓太の感情もまた、しっかり顔に表れているのだろうか。中嶋は、喉奥を鳴らすようにして嗤う。自身の嗜虐趣味をそそられたのかもしれない。
啓太は、ごく普通に『いじめっ子心理』と呼んでいたが。
啓太の頭上に唇を落とし、まるで深呼吸するかのように大きくゆっくりと息を吸うと、中嶋はそれを強く吹き付けた。
「…げほっ」
視界は、またしても白くなった。いや、異常に鮮明に真っ白だ。灰皿を奪われた中嶋は、煙草を手にしたまま、啓太の頭を抱え込み、これを深く吸っては、直接、啓太の顔に吐きかける。
「ち、ちょっと、なか、中嶋さ、や、止めて、ヤめ…、げほごほっっ」
逃げを打つ啓太の体を押さえ込むように抱きながら、酷く中嶋は楽しそうだった。完全に、仕事の疲れもストレスも忘れ去ったかのようだった。
この人が、少しでも憩えたらいい、と、そう思っていた。つまり、これは、啓太さえ我慢すれば、全て解決、という事なのだろうか?
何だかちょっぴり、理不尽な物を感じるが。



「…で、結局、アレって、何だったんでしょうか…」
「ああ、アレな…」
後日の会計部である。
約束通り、今度は完全に遊びに来た啓太に浮き浮きと、「今日はバニラクッキーがあるんですよ」なんて言って、今は簡易キッチンの方でお茶を入れている七条が、まだ出てこない事を目端で確認して。
学生会室でのその後の顛末を、簡単に西園寺に説明すると、西園寺は呆れ返ったように、それでもまた、何よりも面白そうに、軽く声を立てて笑う。
「…さいおんじさーん。……そんなに笑わなくても、いーじゃないですかー」
「いや、だって、な…」
まだ、肩が震えている。そんなに面白いか?面白いのか??
……面白いのかもしれない。
むっつりと唇を尖らせた啓太に、西園寺はまた笑って。
それで、少しは悪いと思ってくれたのだろうか、未だ笑いを含んだ軽い息と共に、こう言い添えた。
「縄張りを主張してみたんじゃないのか?」
………………………………………………………………縄張り。
それって、森を歩くクマが木に爪痕を残したり、犬が道のあちこちに自分の匂いを付けて回ったり、その上からまた、別の犬が匂いを付けて、自分の陣地を主張してみたりする、アレ??
「…俺、電信柱とかですか?」
ついうっかり、想像してしまった。
ワンコ中嶋とワンコ七条、そして、電信柱の自分。…何故か、全員、着ぐるみだった。
呆然とぼんやりの中間くらいの啓太の様子に、西園寺はまた、ひとしきり笑い。
それを見ていた啓太もまた、もう考えたって無駄、とばかりに、大いに笑った。
目端に涙まで滲ませた西園寺と啓太、笑いを介在した二人の間の暖かな空気に、思いっきり手の込んだ紅茶を用意していた七条は。
今まで全く、室内の二人の様子を知る術もなく、よってどんな会話が交わされたのか、見当もつかない七条は。
「…二人とも、楽しそうですね…」
「ああ、楽しいぞ」
「楽しいです」
「私と啓太は、仲良しだからな」
「仲良しですからね」
見つめ交わす瞳と瞳の、何か心の奥底から分かり合ったかのような交歓に、七条は。


「ええ、どうせ、僕は伊藤くんと仲良しになれませんからね。どうやら、信用もされていないようですし」


完全にむくれた。



END



で。これは、七条×啓太ですか?中嶋×啓太ですか?それとも、西園寺×啓太?
「みんな好きです」<啓太談
伊藤啓太最強伝説の始まり。








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