続月夜のスペルをもう一度


大人の知らない不思議な言葉



「お願いします!何も言わず、ここにいさせて下さい!」
啓太は必死だった。
まだ長いとも言えない人生だが、未だかつて、ここまで追いつめられた事はない。そう断言できる。
ここで見捨てられたら、本当にどうなってしまうか判らない。
そんな決死の思いを映して、息は荒かったし、目は確実に血走っていただろう。そんな啓太に怯むことなく、常の如く穏やかに綺麗に微笑んで、会計部の扉を開け、彼を招き入れた七条は、啓太にとって、紛う方なき救いの神だった。



足を踏み入れた会計部室は、随分と静かで、広々とさえして見えた。
この部屋は、学生会室と同じだけのスペースしかないとはとても思えない程に、広い。それは、書類が乱雑に積まれていたり、学生会々長のおもちゃ箱…バドミントンのラケットやテニスボール、プラスチックの子供用バット、そんな諸々の詰まった段ボール…が床に直置きされていたり、そんな事がないからなのだろう。実際、啓太はこの部屋で、ゴミ箱の中身が半分以上入っていた事すら、見た事がない。
部屋の主の性質が、ここまで部屋の印象を変えてしまう好例である。
一般的男子高校生である啓太は、学生会室の雰囲気もまた、大好きではあったのだけれど。
「…あれ?」
だけど、日頃の広さ以外にも、妙な静けさがある室内を、啓太は一渡り見回す。
「…えっと。あの、西園寺さんは…」
華やかに輝かしい、部屋の主がいなかった。
いるべき人の姿がない。それだけでどこかひんやりと空気が冷たい、そんな気がする。
「ああ、今、ちょっと出ているんですよ。すぐに戻りますから、待っていて下さいね」
今、お茶を入れますから、と言い添えて、簡易キッチンへ向かう七条に、啓太は慌てて、首を横に振る。
「いえ!あの!お構いなく!ほんと、俺、ここに入れてもらっただけでも充分すぎるくらいで!」
これ以上、彼の手を煩わせたら、バチが当たる。ただでさえ、忙しい人なのだから。
「それに、あの…」
啓太の声は、段々、小さくなっていく。
「…西園寺さんに用がある訳じゃないんです…」
そして、七条に用がある、という訳でもない。
その事実に、啓太は俯く。自分の勝手で彼らを巻き込んで、当たるのは、バチどころではないかもしれない。
だけれど、七条は微笑んだ。時々目にする、感情を隠した『微笑み仮面』ではない、透明で優しくて暖かい、啓太の大好きな表情で。
「僕は、伊藤くんが会いに来てくれて、嬉しいですよ」
彼には、啓太の思うところなど、お見通しなのかも知れない。
顔を真っ赤に染めた啓太に、七条は「ふふ」と微笑う。
「郁も、伊藤くんが来てくれた日は、とても機嫌がいいんです」
降るような優しさと、暖かな真綿にくるみ込まれるような甘やかさ。
啓太に、ここにいてほしいのだ、とそう告げる。
七条はいつも、啓太に、ここにいてもいいのかもしれない、と思わせてくれる。
「折角、伊藤くんが顔を出してくれたのに、郁がいない間に帰ってしまったと知ったら、僕が後から、八つ当たりされてしまいますよ」
僕って、可哀相でしょう?と、悪戯っぽく笑う彼に、思わず、笑い返して。
結局、会計部を避難所にしてしまっている。その事による罪悪感が消える訳ではなかったのだけれど。
それでも、彼の冗談めいた軽口に、気持ちは随分と軽くなった。
「今、僕は凄く、お茶が飲みたいんです。付き合ってくれませんか?」
そんな言葉に、すんなり頷いてしまうくらいに。



綺麗な色と綺麗な匂いの紅茶は、とても綺麗な味がする。これまで、全く馴染みがなくて、だけど、この学園に来てから、妙に口に慣れ、身に付いてしまった、質のいいお茶の味。
啓太にとって、それは、会計部そのものでもある。
口の悪い友人に、「餌付けされてる」なんて言われて、だけどそれも、否定しきれないものがあるくらい。未だかつて、七条の用意してくれるお茶請けの菓子の数々が、啓太の口に合わなかった試しはない。
別に、啓太が特別、さもしい、とか、そういう訳ではなく。
「…このケーキ、美味しいですねー」
しっとりとしたスポンジとレモン風味のムースが、もう、絶妙なんである。
まさに、至福の味だ。
うっとり啓太に、七条がくすりと笑う。それは、微笑み仮面とも、ふんわりとした慈愛の滲んだ、いつもの微笑みとも、時に学生会副会長へと向けられる、見ている周囲も凍らせる笑みとも違っていて。
「ああ、すみません。伊藤くんは、本当にいつも、美味しそうに物を食べるなぁ、と思って。テーブルの下で、よく足をばたつかせていますよね」
…ばれていたようです。当然でしたか。
「あう。ごめんなさい。行儀悪かったですね」
子供っぽい、と自分でも思ってはいるのだ。しかし、美味しいものを食べるとにこにこしてしまう。味に感動すると、ついつい、足をばたばたさせてしまう。結果、啓太は、寮の食堂と会計部では、大抵の場合、にこにこばたばたしている。
「いいえ、そんなことはありませんよ。大変可愛らしいと思います」
恐縮する啓太に対して、七条は、にっこり笑顔で、さらさらと、そんな言葉を口にした。
「………七条さん…」
「はい。何でしょう」
何でそんないかにも、素、って感じで、そういう事を言えるのだろうか。
冗談だか本気だか、わからない。いや、勿論、冗談なのであろうけれど。
啓太を口説くのが日常と化しているテニス部主将とはまた、別の意味で、この会計部補佐様の言動は、啓太を妙に困惑させる。どちらも、啓太の事を『可愛い』なんて形容してくれるあたり、感覚が奇妙だという共通点はあるにせよ。
成瀬のように、軽い言葉遊びの中に、ほんの少しの甘い真実を混ぜる、というのではなく。
彼の言葉は常に、全部本当なのか、それとも、全部嘘なのか、そのどちらかなのではないのか、とそう思わせる。
反応に困った啓太は、こっそり七条を観察してみたが、相変わらず、彼は微動だにしない。その表情は、という意味だが。
こういう場合、当然ながら、啓太は七条に敵わない。勝てる要素など、一欠片もない。
「…ありがとうございます…」
頬を染め、俯きつつ、フォークでケーキを大きく突き崩す。一斉爆撃とでもいった風情のそれが、あからさまに照れ隠しであるのを正しく見て取って、七条は更に微笑う。
とりあえず、褒められた事にしてしまったが、どうも、ただからかわれているだけなのではないかとの感も拭えない、啓太なのだった。



七条と話をするのは、とても好きだ。
啓太とは、物の捉え方も考え方も、全く違う人だから、啓太が今まで思いもしなかった発想で、諸々の話を展開させる。彼と話をしていると、世界がとても広くなったような気がするのだ。
そこから更に踏み込んで、頭がよくなったような気さえする、というのは、完全に気のせいであるとの自覚はあったのだが。
ふと。溜息をひとつ。
小首を傾げた七条が、「退屈させてしまいましたか?」なんて言うのを、激しく首を横に振って否定して。「では、お茶のお代わりを」と言うのにも、「いえ、お構いなく」と、先程よりはずっと緩い否定の意に首を振って。
ついつい、再びまろび出た、溜息がまたひとつ。
七条は、何も言わなかった。「やはり、お代わりを入れましょうね」と席を立つのに、啓太も今度は、引き留めなかった。引き留められなかった。だって、七条が何も言わず、席を外してくれるのは、啓太が始めに、『何も言わず、ここにいさせて』ほしいと言ったからなのだ。
何も問わない七条を、啓太は凄いと思う。感謝しているし、尊敬してもいる。こんな時、啓太だったら、相手が何を思い悩み、隠しているのか、何をおいても白状させてしまうだろう。それは、自分でも少しは相手の役に立てるかもしれない、という思いの上ではあるのだけれど、七条のありようを見ていると、相手の意思を尊重する、という事は、やはり大切なのだとそう思う。
…こんな時、七条さんだったら、どうするのかなぁ。
はふ、ともうひとつ溜息を洩らしたと同時に、目の前に白いカップが現れた。
薄くて繊細で、如何にも高級そうな、真っ白いそれが、ボーンチャイナというのだと、そう教えてくれたのもやっぱり、目の前にいるこの人だった。
洗い晒した骨のように、目に染み入る白。
中国からシルクロードを渡って、欧州へともたらされた綺麗な器達は、それまで、かの地には存在しなかった芸術品だったのだ、と。
アジアでしか採れない鉱物が原料に用いられていて、ヨーロッパでは決して作れないと言われていた器達は、それでも諦めなかったイギリス人によって、新たに生まれ出た。紛う方なきヨーロッパの器として。
だけど、それでも。起源の国へと敬意を表して、今でも磁気の事は「チャイナ」と呼ぶのだ。
漆を塗った漆器を「ジャパン」というのと、同じように。
七条の語る話は、いつもとても面白い。啓太の知らない世界は無限に広がって、彼の言葉は啓太の中にすんなりと染み込んで、全部が啓太を育ててくれる養分になる。
学校の授業も、彼の話くらい面白ければ、啓太はきっと優等生になれただろう。
ほんわりと暖かな香りを振りまく芸術品を差し出す七条は、優しい笑みまで、全部綺麗で。
「ありがとうございます…」
照れ笑いでカップを受け取ると、見上げた先の微笑は、柔らかく湯気に溶けた。
彼なら、多分、啓太のようにぐすぐすと思い悩んだりしないのだろう。
だって、答えは目の前に存在している。
啓太だって、それは判っているのだ。要は、己の気持ちの問題というもので。
溜息は、暖かな紅茶に溶かして、一緒に飲み込む。
「…あの、七条さん」
「はい」
先程までとは全く違う、緊張を含んだ啓太の物言いに、七条は幾度か瞬きをして、そして、いつものように優しく返す。啓太の呼びかけに対して、彼は常に、言葉を返してくれる。
「俺、今、やらなくちゃいけない事があるんです。それをするのが正しいって判ってて、だけど、それには、凄く勇気を出さなくちゃいけなくて。で、あの…」
どのように説明すればいいのか判らない。自分でも、随分と支離滅裂で、それこそ子供みたいな言い様だとそう思う。
だけど、七条は変わらない。優しく微笑んだまま、啓太の前にいてくれる。
彼は常に、そこにいてくれる。
それに背を押されるように、それこそ、勇気を振り絞って、啓太は言った。
「『頑張ってこい』って、言ってくれませんか」
幾度か、息を吸って吐く。それだけの時間が過ぎた。
静かな部屋に、どくどくと己の鼓動の音だけが響いて聞こえて、それがひどく耳障りだった。
七条が口を開く。それが奇妙にゆっくりと感じられたその時。
会計部の扉をノックする音がした。躊躇いがちなその音に被せられたのは、やはり、それに準じた声音で。
「…七条君、いる?」
子供のような声だった。自信なさげな口調も、その印象を際だたせた。
色んな意味で、その存在を奇跡と称される24歳、生物教師海野のそれだった。



七条は、扉の方へと視線を転じた。その瞬間、啓太の見せた反応は、無意識下の反射とでもいえるものだった。今の今まで座っていたソファに、倒れ込むかのように伏せると、体を丸めて、必死の様子で身を縮こませた。じりじりと動いた手は、ソファの隅に置かれていたクッションを求めて幾度か彷徨い、手に触れたそれをむんずと掴み取ると、そのまま、己の後頭部に押しつける。そして、そのまま、動かなくなった。
周囲の目に映らなくなる事を期待して、静物か置物にでもなりきった。そんな様子だった。
「……伊藤くん?」
さすがに、多少の戸惑いの混じった七条の声に、啓太はそろそろと顔だけを上げる。ソファとクッションの隙間から、上目遣いに七条を見上げる。軽く涙が滲んだその瞳の中に、『Help me!』のサインを読み取れない人間は、どこを探したっていなかったろう。
七条が、制服の裾を引かれる感触に視線を向けると、啓太が慌てて、ジャケットの端を掴んでいた手を離すところだった。
苦笑混じりに、二度三度、クッションからはみ出た髪を撫でる。大丈夫ですから、と、その仕草だけで囁いて、不安を映した啓太の瞳に安心させるように微笑みかけて、そして、七条は立ち上がった。



「…あのね、伊藤君を見なかった?」
「…伊藤くんですか?今日はまだ、会っていませんが…」
「…そう…」
扉越しに聞こえる声は、どこかくぐもっているためだろうか、ひどく寂しそうなものだった。
俯く人の、意気消沈した様まで、目に映るようだった。
啓太は、そろそろとソファから身を起こす。
数瞬の沈黙。その後に聞こえてきたのは、先程までの物とは違う、意を決したといった風な、しっかりとしたもの。
「あのね。もし、伊藤君に会ったら、伝えてほしいんだ。僕が謝りたがっていたって」
啓太は、息を詰めて、ただ、扉を見つめた。ほんの数呼吸も、扉の外に聞こえてしまう、そんな気がした。
「だけど、嘘とか、冗談とか、そんなものはひとつもなかったよ。全部、本当に本気だったよって」
声しか聞こえない。どんな表情をしているのか判らない。その事が、却って真実を露わに見せてくれたのかもしれない。本当に本気だと言った、その声には、一片の偽りも感じられなかった。
それなのに、啓太は未だにクッションを被ったまま、小さくなって震えている。そんな事が許されるのか?
海野は啓太に気持ちをくれた。優しい、綺麗な、暖かな気持ち。啓太は彼に、同じ想いを返せる?
答えは、既に決まっている。ただ、ふんぎりがつかないだけで。
海野は啓太に「好きだ」と言ってくれて、啓太も海野に「俺も好きです」と返す。
それで、二人は幸せに暮らしましたとさ、で終わらないという事くらい、啓太にだって判っている。
例え、そうは見えないといっても、海野は教師で。そして、啓太は生徒で。9歳の年の差があって、彼は天才と呼ばれる人で、将来を嘱望される研究者だし、あまつさえ、二人は男同士だ。
なのに、海野のくれるキスは甘くて優しい。流れる空気は、こそばゆくて面映ゆい。
一緒にいちゃいけない理由は山ほどあるのに、そんなものは全部、どうでもよくなってきて。
啓太はそんな諸々を振り切るようにして、会計部に駆け込んだのだ。
だけど、逃げちゃいけないのだ。向き合って話さなくては、相手に気持ちは伝わらない。
どうしたらいいのか、判らないけれど、確かに海野の事は好きなのだ、と。
今、正直にそう告げるのが、正しいのだと思えるから。
一歩、一歩と扉へと近づく。
七条さんに、嘘をつかせてしまってごめんなさい、と謝ろう。海野先生にも、逃げ出してしまってごめんなさい、と。
俺って、謝る事ばっかり、と思うと、妙な笑いに頬が緩んだ。一世一代の決意は、気分を高揚させている。多分。
海野と七条の話す声が、鮮明になってきた。
「…先生、何故、ここに伊藤くんがいると?」
「伊藤君は、君たち二人をとても信頼しているから。何でも相談できる相手だと思ってるし、とても仲のいい友達なんでしょう?」
そこで、七条は黙り込んでしまった。啓太は確かに、西園寺と七条の事が大好きだった。とても尊敬していたし、信頼していた。最近では、甘えてさえいたかもしれない。
二人を、友達だと思う、なんて、おこがましかっただろうか。だけど、啓太は二人の間に入り込もうなんて、思った事もなかった。彼らは特別な絆を持った一対で、啓太は少し離れたところにいて、彼らが時たま、振り返って、啓太を見つけてくれて、ただ、それだけで充分だった。そう思っていたけれど。
やっぱり、友達だとは思ってもらえていない。
そんな状況を見せつけられるのは、少し辛い。辛いと思う自分の贅沢ぶりに、また驚く。人間、己の前に降って沸いた幸運に、感謝しつつも慣れてしまうし、段々、求めるものが多くなってしまうものなのかもしれない。
いつの間にか舞い上がりかけていたらしい己に反省する啓太の耳に、たっぷりと時間をおいた後に滑り込んだ声は。
「…先生。謀りましたね…」
「何の事?」
にこぱ。
そんな、いつもの笑顔が目に見えるような海野の声音に反して、七条の声は。



ぞくり、と啓太の背筋に悪寒が走った。
七条の声もまた、いつも通りだった。穏やかな声だった。綺麗な言葉を紡ぎ出す、柔らかなイントネーション。いつも通りの優しい微笑。のはずなのに。
微笑み仮面とも、ふんわりとした慈愛の滲んだ、いつもの微笑みとも、時に学生会副会長へと向けられる、見ている周囲も凍らせる笑みとも違う。
そんな気がした。



逃げよう。逃げなくてはならない。何をおいても、逃げるべきだ。
啓太の小動物的本能が、そう告げていた。
今の今まで、逃げちゃ駄目だ、と思っていた、そんな愁傷な心根など、すっかりどこかに消し飛んでしまった。
泡を食った啓太は、扉から飛び退く勢いで離れ、しばらくわたわたと、あちらに走り、こちらに隠れ、そして結局、先程まで座っていたソファの陰に、先程までと同様、クッションを被って蹲った。
この部屋からの唯一の出口である扉の前には、二人がいるのだ。
完全に、袋小路である。
にっこりにこにこ笑う二人が発する障気が扉の隙間から染み入って、部屋の空気さえ、薄ら寒くなってきた。
あうあうあう。
今や、啓太は、すっかり涙目である。

さ、西園寺さん、早く帰ってきてー。

救いの神は、未だ現れない。



END



ようやっと、海野vs七条まで辿り着きました。
いつから、そんなん目指していたのだろう。
謎。








 ◆◆ INDEX〜FREUD