月夜のスペルをもう一度


大人の知らない不思議な言葉



ミルクとココアの甘く暖かな香り。バーナーに掛けられたフラスコからは、こぽこぽと湯の沸き立つ音がする。試験管、ビーカー、メスシリンダー。啓太に安心感を与えてくれる、透明なガラスでできた実験器具達。
啓太は、そっと目を閉じる。
ここに帰ってくる事ができたのが、ただ、素直に嬉しい。先生と顔を合わせるのがひどく気まずくなってしまって、ここに足を運ばなくなって。
もう二度と来られないかもしれないと思った。勝手に行かなくなったくせに、今また、ここに来たい、なんて、そんな自分に呆れて、先生が部屋に入れてくれないんじゃないか、なんて、そんな事まで考えて。
会計部から走ってここまで辿り着いた、あの時の事は今でも鮮明に覚えている。
扉の前で、幾度となく、ノックをする為に手を挙げて、また、手を下ろした。会いたい。でも、会うのが怖い。どうしても勇気が出なくて、そんな自分が嫌になって。だけど、やっぱりノックはできなくて。
どのくらい、生物室の前で立ちつくしていたのだろう。結局、啓太が扉を叩くより前に、扉の方が先に開いてしまった。
「…伊藤君?」
目をまん丸く見開いた海野が、そこにいた。
ああ、先生だ。
怖かった事も、迷っていた事も、その瞬間、全部、消えてしまった。ああ、先生だ。本当に、先生だ。
ただ、海野の存在だけ。
海野は、啓太の目の前で、にっこりと笑った。
「入って。今、ちょっと職員室に行かなきゃいけないんだけど、すぐに戻ってくるから。そうしたら、ココアを入れるからね」
だから、帰っちゃ駄目だよ。
悪戯っぽく笑う海野に、啓太も笑って。
「じゃあ、お湯、湧かしておきます」
待っています。
互いに、言外の言葉を読み取って、そして笑う。フラスコで湧かしたお湯と、ビーカーで出されるココア。
それだけで、離れていた数日間など、吹き飛んでしまった。
ミルクとココアの甘く暖かな香りの間を漂うような、ふわふわとした気持ち。腕の中には、トノサマの暖かな体の重みとすべすべした毛皮の感触。海野の甘く優しい声が、柔らかな歌を口ずさむ。

月夜の晩の丑三つ時に ヤモリと薔薇とロウソクを…

ああ、本当に戻ってこられたんだなぁ…。
そんな思いも感慨深く、啓太はうっとりと微笑んだ。目は瞑ったまま、いっそ、このまま眠ってしまったら、どんなにか幸せだろうと思いながら。

…焼いて潰して粉にして スプーン一杯舐めるのさ…

先生の声が、好きだ。すごく暖かで、すごく優しい。甘くて柔らかくて、心地よい。
ずっとこうしていられたらいいのに。そうしたら、きっと、すごく幸せ。

…そこで一言唱えると 世にも不思議な呪文になるよ…

「『ホロレチュチュパレロ』」

いつも海野が、ココアに掛ける呪文。甘いココアをより甘くする、不思議な言葉。
それは、そこには海野の叶えたい願いがあるのだと判っていたせいなのかもしれない。
呪文は、俺に掛けたんだって、先生は言っていたっけ。
言ってくれればいいのに、と思う。どんな願いがあるのか、言ってくれれば、啓太はそれを叶えるのに。きっと叶えてみせるのに。

…ジュ ジュ 呪文 可愛いあのコに
 ジュ ジュ 呪文 ハートの引力 引きつけろ 惹き付けろ…

…あれ?
今まで、聞いた事のなかった歌の続きを、海野が歌っている。その事に、遅ればせながら、啓太は気づく。しっかり起きているつもりだったのに、瞼は降りたまま、持ち上がらない。ぼんやりとした意識は、半覚醒とでもいった様子で、それは、半睡眠と同義語なんだろう、と、とろとろとした気分のまま、何となくそう思う。
歌の続きは、流れていく。それはただ、単語の羅列みたいで、言葉が意味を持つようになるには、数瞬の時を要した。

…僕の事を好きに なるように…

一発で、目が覚めた。
「…伊藤君?眠っちゃったの?」
海野が覗き込む気配がする。それに対して、ぎゅっと目を瞑って。体を硬くして。どうしたらいいのか判らないくらい、頭は混乱していて。
海野は、吐息で微笑う。そして、頬に落とされた、柔らかな感触。
触れるだけの、悪戯なキス。
鼻先に、甘いココアの匂いが漂った。
「…トノサマ。僕、ちょっと届け物に行ってくるから。伊藤君のナイト、頼むね」
甘えるような、トノサマの声。任せとけ、とでもいったところだろうか。一頻り、啓太の腕の中のトノサマを撫でる気配があって。トノサマが目を細めて身を擦り寄せる、そんな姿が目に見えるようで。
優しい手は、次いで、啓太の癖毛を撫で付けるようにそっと触れて、そして、そっと離れていった。
扉を開く音がして、そして、閉じる音がする。ぱたぱたと忙しない、いつもの海野の足音が遠ざかる。それが、完全に耳に遠くなるのを待って、それからまた、少し待って。確実を期すために、もう少しだけ、待って。
そして、啓太は意を決したように目を開いた。
啓太の凭れていた実験台の上、啓太がうっかり顔を上げても、引っかけたりしないだろう程度に離れた場所に、まだ暖かそうに湯気を立てたココアで満たされた、ビーカーがある。
啓太に饗される、海野の呪文の掛かったいつものココア。
海野の呪文。教えてくれたら、きっと叶えてみせるのに。そう思った、海野の願い。

…僕の事を好きに なるように…

それって、やっぱり。
…そういう事だろうか?
啓太の顔は、火を吹いた。火を吹いていなければ、おかしい。こんなに熱くて、頭がくらくらするのだから。
海野の事は、好きだ。柔らかな声が好き。暖かな笑顔が好き。子供のような開けっ広げさも、周りとちょっと外れた間の悪さも。トノサマを撫でる優しい手も。
先程、同じ手が己の頭を撫でていった事に、今更ながらに気づき、顔を赤く染めたまま、啓太は撫でられたのと同じ場所に、そっと己の手を這わせる。
海野の事は、大好きだ。
いや、だけど。だけどだけどだけど。
頭を抱えたまま、実験台に再び、突っ伏す。ひたすら、混乱してしまって、上手く考えがまとまらない。だけど。
…先生、『ちょっと届け物』って言ってたよな…。
という事は、結局、すぐに戻ってくる、という事で。
「…どっ。…どーしよー、トノサマーーーーっっっ」
知らんがな。
そう言うかのように、トノサマは如何にも気のない様子で、ぶにゃんと鳴いた。





勿論、伊藤君が目を覚ましていたって事くらい、知ってたよ。
だって、瞼がぴくぴく動いてたし、僕が彼を覗き込んだら、それだけで耳まで真っ赤になっちゃったんだ。
本当に判りやすい。
僕の気持ちにも、周りの人達がどんなに彼の事を好きでいるかも、全く気づかない。そんなところもすごく可愛いと思うけど。
だけど。ねぇ。
そろそろ、気づいてくれてもいいよね?

僕の気持ちにだけ、だけど。

他の人なんか見ないで。全部、僕のものになって。
そうしたら、教えてあげる。伊藤君は僕のものなんだって、学園中のみんなに、ね。

ねぇ、だから。

「…早く、僕の事を好きになってね」

耳元に、甘い呪文を注ぎ込んで。
そっと、柔らかな唇に口づける。全部、本当の気持ちだよ、と伝えるように。

そうしたら。

目を瞑ったままの啓太の頬が、真っ赤に染まった。



END



なんかこー。なんかこー。なんかこー。…じたばた。
少なくとも、啓太は後ろを振り向いてはイケナイ。そういう気がします。
死んだふりしとくべきです。(海野はクマか)








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