続月夜のスペル


大人の知らない不思議な言葉



「ねぇ、伊藤くん?最近、生物室に行っていないんだそうですね?」
「…っふぇえええっっっっっっ?!??!」
清々しい紅茶の香り漂う会計部は、静かで優雅な空間で形成された場所である。常ならば。
ようするにそれは、部屋の住人達が、どのような話題を振られようとも、決して動じない、よく言えば落ち着いた、有り体に言って図太い神経の持ち主であったが故に。だから本来、会計補佐七条の何気ない、穏やかな問いかけに対して、完全に裏返った声を発して、思わずソファから立ち上がり掛けて、毛足の長い絨毯に足を取られ、再びソファへと、半分背中からひっくり返ったかのように身を沈めた伊藤啓太の、手から零れた紅茶が自身のシャツを濡らして、再び上げた奇声、なんてものは、この場所にはそぐわないものであるはずなのだけれど、素早く立ち上がって簡易キッチンへとタオルを取りに行く七条や、啓太が身を起こすのに手を貸して、そのシャツを脱ぐように促す西園寺、なんてものと同様に、それは会計部の日常になりつつある。
「いえ、あの、タオルで拭けば大丈夫です。お騒がせして、すみません…」
部屋に常備しているらしいシャツを出されて、これを着ておけ、とか、郁のシャツでは小さいでしょう、僕のジャージがありますよ、とか。
二人の厚意は嬉しい反面、同時に示されると、気のせいか、妙なプレッシャーを感じて、何やら狼狽えてしまうのもまた、啓太の日常。
「ああ、でも、ソファにも絨毯にも零れなくて、よかったです」
ほっと胸を撫で下ろして、溜息混じりに呟けば。
「伊藤くん。それは、言葉を間違えていますよ」
すかさず返される、応え。
「え?」
顔を上げたら、七条の困ったような微笑があった。
「紅茶が冷めかけていてよかった、です。もし、淹れたばかりだったら、火傷をするところだったんですから」
「えっと、だけど、シャツは洗えるし、俺は火傷なんてしたって、そんなどってことないけど、ソファと絨毯は染みがついたら大変で…」
七条と西園寺、双方からひどく真剣な瞳で見つめられて、啓太の声は段々小さくなっていく。
結果。
「…ごめんなさい…」
むっつりと不機嫌そうな西園寺と、彼を怒らせてしまったらしい事に、何やら意味もわからぬまま、小さくなって謝る啓太と、そんな啓太に淡く苦笑して、場を宥めるように再び紅茶を用意してくれる七条と。
そんなこんなも、やっぱりここ最近の会計部の日常、というものなのだった。



淹れたての紅茶の香りも高い、昼下がり。
「…ああ、生物室に行っていない、という話だったな」
先程までの話の穂先を見つけ出したのは、西園寺であった。未だ熱い紅茶を慎重に口にしていた啓太は、危うく吹きそうになるそれを、何とか堪える。さすがに、同じような過ちを、今!ここで!再び繰り返す訳にはいかなかったので。
「ええ。海野先生が寂しがっていましたよ。伊藤くんが来てくれない、と。…学生会の悪人さんがまた、君を拘束でもしていたんですか?」
七条はにっこり微笑んでいるのに、バックは吹き荒ぶブリザードだ。
本能的に危険を感じた啓太は、勢いよく首を横に振る。
「いえ!まさか!そんなんじゃないです!」
「それでは、どんな?」
間髪入れずに返される、西園寺いわくの『微笑み仮面』は、啓太の言葉をまるっきり信用していない事を示している。
そして、吹き荒ぶブリザード。
寝るんじゃない!寝たら死ぬぞ!!…既にそんな気分である。
「いえ、あの、中じ…じゃなくて、あの、学生会は、本当に関係がないんです。あちらには最近、お手伝いにも行けてなくて…」
しどろもどろ。
そんな表現がぴったりな状態の啓太とは対照的に、張り付いた笑顔が妙にすっきりとした七条は、するすると言の葉を紡ぐ。
「本来、行く必要なんてないんですよ」
「臣」
西園寺が、警告の響きを込めて、彼を呼んだ。
「基本的には同感だが、啓太が怯える。笑顔で威圧するのはよせ」
「おや。それは心外ですねぇ」
七条の視線が、啓太から逸れた。その隙に、とばかりに、啓太は大きく息を吐く。
彼の微笑みは、時に本当に圧力を感じて、胸が詰まる気がしてしまう。
でも、それは自分のせい。彼の視線を痛く感じるのは、罪悪感や負い目といったものが、身の内にたっぷり存在するから。
これまで、3日と空けずに通っていた生物室に行かなくなって、もう10日近くなる。
生物室に行くのが、嫌になったんじゃない。海野が嫌いになった訳でも、勿論ない。
ただ、最近、自分はおかしくて。
視線を感じてふっと顔を上げると、先生がじっと見つめてて。目が合うと、ふわっと艶やかって感じで微笑んで。そんな顔が、妙に大人っぽくて、どこか色っぽくて。
まるで、今までの先生じゃないみたい。
そんな風に思った途端、心臓がばくばく音を立てて踊り出す。顔だって、真っ赤に染まっているだろう事が判る。
絶対、変だ。変なのだ。
せめて、この不整脈が出なくなって、顔が紅くならなくなって、のぼせて気が遠くなる、なんて事もなくなって。
せめて、背中を這うようなむずむずに、先生の前から逃げ出さずにいられなくなる、なんて事がなくなったら。
そうしたら、また、生物室に行く事も許されるだろうか、なんて、思っていたのだけれど。
書類もメモも一緒くたになった、先生の作業台。試薬類の入ったフラスコの間をゆったりと歩き回るトノサマは、生物室の主、とでもいった風情。
ココアの甘い香り漂うビーカーを差し出す、輝くような先生の笑顔。
まるで昨日の事のように鮮明に思い出せて、だけど、それは随分昔の事のようにも思えて、胸がきゅっと握り込まれたかのように、苦しくなる。
多分、これは、寂しい、という気持ち。
自分で選んで、行かないだけなのに。なんて勝手なこの気持ち。
「…我々では、海野先生とは、本当の意味でのつき合いはできないからな」
淡々とした物言いに顔を上げると、丁度、西園寺は紅茶のカップに口を付けたところだった。
一口。口を湿らせ、香りを堪能して、満足そうに目元を緩ませる。その様子は、優雅、という単語の体現のよう。つい、ほんわりと見とれていると、その視線に気づいたものか、ふいと顔を上げた西園寺と目が合った。
啓太の感嘆の視線を面白がるように、軽く上げられた片眉。
赤面する啓太に次に与えられたのは、揶揄の籠もった艶やかな微笑。
「あの人は、本物の天才だ。思いも寄らない発想、途切れない集中、尽きせぬ熱意。その中から、あの素晴らしい研究は生まれる」
「ええ、判ります。海野先生の作られるロジックは、美しいですね」
実を言うと、啓太には、それがよく判らないのだった。
だって、啓太にとっての海野はいつだって、優しくて、年上とは思えないくらい気安くて、時にとても可愛くて。
ただ、暖かな好意に満ちた笑顔をくれる人だったから。
だけど、先生は、誰もが『天才』だという人だから。
物事を簡単に考える、単純な自分よりも、例えば、目の前の優秀な人達が傍にいた方が、ずっと先生のためになるのだろう。
そんな風に思うだけで、すうっと喉の奥が冷たくなる。まるで、石でも詰め込んだみたいに重くなる。何だか、胸がちくちくする。まるで、小さな棘が刺さったよう。
そんな啓太の心情は、目の前の人には正確に読みとれるものだったのだろうか、先程までのものとは明らかに違う、緩い笑みの気配を漂わせながら、七条は続ける。
「ですけれどね、伊藤くん。僕たちは、先生と友達になりたい、とは、思わないんですよ」
いつものように吐息で微笑いながらの何気ない言は、啓太に小さな息を飲ませた。
思わず、七条を凝視する。
そんな事、考えた事もなかった。
だって、二人とも、自分の休日を潰して先生の研究を手伝っていて、だから、二人とも、先生の事がとても好きなんだと、そう思っていて。
だから、啓太には、とても勝ち目なんてないくらい、先生の力になれるのだ、と。
何だか、涙が出そうになってきた。
俯いた啓太の頭上に、軽く優しい吐息が降る。
「僕たちは、彼の研究を手伝う事に喜びを覚えます。それは、僕たちが彼を尊敬しているからです。彼の研究や、その知性や、天才性、といったものをね」
そして、微笑み。啓太を宥めるような、包み込むような、どこか甘さの漂う微笑み。
「だけど、伊藤くんは違うでしょう?」
そう。確かに、違った。
啓太は、生物室に行く事がとても嬉しかった。先生の研究の手伝いをする事も、とても好きだった。だけどそれは、二人のように、研究そのものが興味深いと思っているからじゃなくて。
先生を尊敬している、なんていうのとも、ちょっと違っていて。
優しくて、気さくで、時に子供のようにムキになって、まるで啓太よりも年下であるかのように素直で、自分に正直で。
暖かな好意をくれる人。
「…俺、せんせいのこと、………好き、です…」
掠れた呟きは、しかし、紛う方無き真実の響きでもって、啓太の胸に落ちてきた。
天才じゃなくても、才能なんてなくても、綺麗なロジックなんか作れなくても、海野が海野でさえあれば。
ありのままの、彼でさえあれば。

…そーかぁ…。俺、先生の事、好き、だったんだ…。

何だか、不思議だった。とても不思議だった。
確かに胸の中にあったのに、今まで全然、気づかなかった。例えば、生物室。薬品の匂いと甘いココアの匂いの入り交じる空間が心地よかったのは、それをとても慕わしく感じていたのは、その空気を作っているのが海野だったからだ。
海野の傍らにいるのが好きだった。手伝いに行けば、研究の内容もよく判らない啓太のために、かみ砕いて判りやすく説明してくれる。一生懸命考えて、少しでも啓太が理解できるようにと心を配ってくれる。己を見つめて、優しく笑ってくれる。その笑顔を見るのが、好きだった。
好きという気持ちは、一体、どこからくるのだろう。
あの人が好き。
そう思うだけで、ほんわかと胸が暖かくなる。
「ああ。だったら、たまに生物室にも顔を出すといい。それで、海野先生も落ち着くようだから」
ふわりと穏やかに微笑う人に、照れた笑顔を返しながら、「はい」と呟く。
先生を思うと、相変わらず、どきどきとそわそわはついてきていたのだけれども、それでも、気持ちは晴れやかだった。

「伊藤くん」

呼ばれて。
顔を向けると、満面の笑みを浮かべた七条。
背中に、ちらりと黒い羽が見えたような、見えなかったような。

「そのうち、二人きりの時、今のと同じ科白を聞かせて下さいね。他の人達が集まっている食堂、なんて場所でも、素敵ですけど」
「…………………………はい?」

えっと。
…なんのことだろう。

助けを求める視線を向けた先、西園寺は大仰に溜息をつきつつ、首を横に振る。
「…臣」
「おや、郁は聞きたいとは思わないんですか?自分のためだけへの、伊藤くんの告白」
「…こっ、こくはく…って…」
「………ふむ」
己の唇の先に軽く指を立てての、悪戯っぽい七条の言に、耳まで赤くなった啓太と、何やら考え込んでしまった西園寺。
こ、こくはくって、こくはくって。
ぱくぱくと口を開けたり閉じたりを繰り返すが、言葉は何も出てこない。
動悸息切れ目眩。
鼓動は、どきどきからばくばくへと着実に進化している。

『今のと同じ科白』って、何?
一体、何を言ったっけ??

つい先刻まで己の言動を思い起こす。
設定順読みスタート、リード。記憶ファイルの検索に、赤文字付でヒットしたのは、直前の己の発言だ。


『俺、せんせいのこと、………好き、です…』

リピート。

『………好き、です…』

掠れるような、呟き声で。
告白。
確かに、そんな風に、聞こえる、かも。
………。
……………………。
……………………………………………………。



…ぎゃーーーーーーーーーっっ。



これは、恥ずかしい。相当、恥ずかしい。
ことに会計部の二人が、こんな科白を聞いてなお、全く動じていないのが、また恥ずかしさを増長させる。

「あ、あの、あの…」

既に涙目の啓太は、あわあわと未だ湿ったままのジャケットを拾い上げ。
そして。

「俺!海野先生に、会いに行ってきます!」

一目散に、逃走した。


何だか今なら、海野先生と二人っきりの方が、恥ずかしくないような気がしてしまったから。
今だったら、先生に会って、今まで生物室に行けなかった事を謝って。
「これから、また来ても、いいですか?」って、ちゃんと言えるような気がする。


胸がきゅっと握り込まれたかのように、苦しくなる。
まるで禁断症状を起こしているみたい。
多分、これは、恋しい、という気持ち。


今はただ、アナタに会いたい、と乞い願う。


アナタの元まで、あともうすこし。



END



海野×啓太!です。ええ、海野は攻ですとも。そうですとも!
ダーリンは海野なのに、海野無登場。そして、七条、濃すぎ。








 ◆◆ INDEX〜FREUD