月夜のスペル


大人の知らない不思議な言葉



生物室での手伝いは、啓太にとって、楽しい時間だった。
生物室の主である教師の海野は、外見に似合わぬ大雑把な性格と、集中したら他の何も目に入らなくなる性質とで、すぐに机の上を、啓太にはよく判らない書き殴りのメモでいっぱいにしてしまう。
それは、極秘の実験データの一部であったり、ふと思いついたという新たな塩基解析法のイメージであったり、その日の夕食の献立表であったり。「どれも同じくらい重要だよ」と、頬を膨らませる海野は、啓太にとってはただ、優しくて面白い、大好きな先生である。親友の和希の言う、海野の『本物の天才』である部分が、啓太にはただ、変わっている、としか捉えられないというのもあるのかもしれないけれど。
今日も今日とて、部屋の掃除を一緒にすませると、海野は「ありがとう」と啓太に満面の笑顔を見せてくれる。その開けっぴろげな謝意と好意は、いつも啓太に暖かな思いをもたらしてくれるのだ。
会計部の二人のように、海野の仕事の役に立てている訳ではないのだけれど、それでも、海野は啓太に、ここにいてもいいのだ、と、そう言ってくれている。そんな気がするから。
「ココア入れるから、ちょっと待っててね」
そう言い置いて、海野は実験用ビーカーで湯を沸かす。ビーカーでそのまま出されるココアにも、すっかり慣れてしまって、最近では、マグカップや紙コップに入ったココアに、違和感を感じるほど。


月夜の晩の丑三つ時に ヤモリと薔薇とロウソクを…


啓太に背を向けた海野が口ずさむメロディも耳に心地よく、啓太はうっとりとした思いのままに、海野の飼い猫トノサマを腕に抱きしめる。ふかふかしたトノサマの感触と、やがて漂い始めたカカオとミルクの匂いに浮かび上がる、ほんのりとした暖かさは、多分、幸せ、という名を持っている。
「…先生、いつもその歌だね…」
「うん。昔の歌なんだけどねー。可愛くて、大好きだったんだー」


…焼いて潰して粉にして スプーン一杯舐めるのさ…


「伊藤くんは知らないよね。この歌」
こくりと頷く啓太に、海野は可笑しそうに笑う。
「そーだよねー。世代が違うんだもんねー」
そういえば、そうなのだった。まるで同年代か、ともすれば年下にさえ見えてしまう海野だったが、啓太よりも確実に年上なのだ。
24歳。啓太が生まれた年には、海野はもう、小学3年生になっている。啓太には決して追いつけない、9年間の開き。
それが何だか、ちょっぴり悔しい。
啓太に判らなくて当然だ、と、海野がそんな顔をするから。


…そこで一言唱えると 世にも不思議な呪文になるよ…


「『ホロレチュチュパレロ』」
ココア入りのビーカーに、軽く唇を寄せて、海野は婉然と微笑った。


「先生、それ、どういう意味があるの?」
「伊藤くんは、判らなくてもいいんだよー」


…ジュ ジュ 呪文 可愛いあのコに
 ジュ ジュ 呪文 ハートの引力 引きつけろ 惹き付けろ…


「ずるいよ。教えてよ、先生」
「…んー。それじゃあね。呪文が効いたら教えてあげるよ」


…僕の事を好きに なるように…


「だから、伊藤くん。早く呪文にかかってね」
「え?俺がかかるの?」
「うん」
ココアの入ったビーカーを啓太に差し出しながら、海野は艶やかに微笑む。時折、見せるその姿は、啓太の目にはとても大人びて見えて。彼はやっぱり大人なんだと思えて。
こんな時、いつもはちょっと遠く感じるのに、何故だろうか、今日はドキドキした。



END



懐かしい歌のおはなし。
わたしもこの歌、大好きでした。でも、今はもう知らない人の方が多そう。(笑)








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