幸福な子供


そうです、ありがとう
私です、又あなたです
なぜなら私というものも又
あなたの中にあるのですから

宮沢賢治



その声は、直接、耳元に飛び込んできたかのように思える。
いつでも、遠くから聞こえる呼び声が、幾度となく繰り返されて、それが体内に浸透しきって、それでようやっと、呼ばれている事に気づく、というのが常である岩井にとって、それは希有であると言ってよかった。

「岩井さん!」

彼はいつも息せき切って、飛び込んでくる。カビと埃、テレピン油と絵の具の入り交じった匂いと、物言わぬトルソ達。常に動かぬ岩井の世界に差し込む、一筋の光のように。
美術室の入り口へと顔を向けると、啓太は嬉しそうに笑う。
彼は、岩井の前ではいつも、とても嬉しそうに微笑う。
人々の善意を信じ、世界の優しさを当然とする、幸福な子供。
岩井とは全く違う世界に生きている、岩井の憧憬そのものである暖かな世界に属している、美しい生き物。
微笑み返す岩井に、頬を紅潮させて、まるっきり子供のような顔をして、照れたように笑う。
「…今、大丈夫ですか?」
美術室には、常の如く、岩井がいるだけだったのだけれど、啓太は幾度か室内を見渡し、やがて怖ず怖ずと、今度は少し声を抑え気味に言の葉を紡いだ。
美術室に入る彼は、いつも、身の置き所に困るとでも言うかのように、体を縮め、声を低める。できるだけ動かないようにしようと決めてでもいるかのようだ。沈黙が染みついたこの部屋の空気を掻き回さないように。まるで、己の存在が場を乱すと思っているでもいるかのように。
金管楽器の音色のように輝かしく、それでいて暖かく染み入る彼の声は、岩井には心地よいものだったのだけれど。
「…ああ。構わない」
だから、岩井は啓太の前では、少し、普段よりも声を張るように、はっきりと言葉を発するようにする。
彼が、窮屈な思いをしないように。岩井の負担にならないようにと、己の発する光の明度を、柔らかく抑えてくれる彼のために、それは岩井ができる事。
岩井の言葉に、ほっとしたように微笑んで、そして啓太は手に下げていた紙袋から、小さな瓶を取り出した。
「これ。差し入れです」
岩井が向かうカンバスの隣、筆や絵の具が乱雑に置かれた机の隅に、そっと置く。
「今、根詰めて描いてるって、篠宮さんに聞いたから。疲れたなって思ったら、口に入れて下さい」
透明な瓶の中には、幾つかの、まあるく形作られた茶色のボール。ココアパウダーで化粧した、それは。
「…チョコレート、か?」
岩井の呟きに、啓太は満面の笑顔で頷いた。
「遭難した人でも、一欠片で1週間生きられたらしいですよ。倒れる前に、食べて下さいね。ここにあるってこと、忘れないで」
雪山遭難者と同列に扱われている事に苦笑しつつ、それでも彼の真剣な眼差しは何とも面映ゆく。
「…ああ、…ありがとう…」
礼を言うと、彼の顔はぱあっと明るくなった。
こんなに真っ直ぐな気持ちというものを向けられるのは、初めてに近くて、どうしていいか判らなくなってしまう。胸を塞ぐようなこの思いは、それでも、不快ではなくて。
決して、不快ではなくて。

「じゃあ、俺、もう行きますね」
彼は、決して長居をしない。岩井の邪魔にならないように、と、気を遣いながら、岩井が息苦しくならない距離を保って、岩井に心地よい空間を作ってくれる。
真っ直ぐな子供である彼が見せる、意外に大人びた顔のひとつ。
今回も、「実は学生会のお使いの途中なんです」と秘密を告白するように声を低めた彼に、目を細めて。
「ああ。伊藤も大変だな」
言うと、彼は悪戯っぽく口の端を持ち上げてみせた。
「だけど、楽しいんですよ。岩井さんも、そうでしょう?」
岩井は、驚きに目を瞬いた。
絵を描く事は、哀しみと喜び、切り裂く傷みと甘美な甘さを同時に岩井に連れてくる。
いつも身を削るように絵に向かう岩井に、大変だろう、と声を掛け、眉を顰める人は幾らもいたが、楽しいだろう、と言われた事は、ついぞなかった。
岩井にとって、絵を描く事は、叫ぶ事、言葉の代わり、訴えそのものであり、楽しいかどうかなど、長らく考えた事もなかったのだ。
しかし、それでも。
「…ああ。……そうだな…」
啓太が岩井の世界に持ち込んだ光は、暖かかった。柔らかく穏やかで、何より優しかった。啓太の属する世界は美しく、岩井をそっと手招きする。
世界は美しい。彼がここにいるから、きっと世界はとても美しいのだ。
胸を浸すこの想いを、叫ぶのではなく、囁くように。歌うように。
目の前のカンバスに写し取る。この美しい世界に驚嘆し、そして全てを愛おしむ、この心の全てを。
全てを愛し、全てを楽しむ、目の前の彼と同じように。
そんな幸福な子供に、自分もなっている。目の前の彼と同じように。



「じゃあ、また、お互い、時間がある時に、ゆっくり、ですね」
「そうだな」
一度、絵を描き始めたら、己の納得がいくまでは、ただ、目の前の白地に没頭する岩井と、毎日、忙しく学内をあちらこちらと駆け回る啓太。
これからしばらくは、すれ違う日々が続くのだろう。
「それじゃ、お元気で!絵、出来上がったら、見せて下さいね!」
また会える日まで。
そう言って手を振る啓太の言葉は、真実である。

チョコ、ちゃんと食べて下さいねーっ。

手を振りながらの啓太の言に、岩井は微笑い、また、啓太も微笑う。
夕闇が近づく午後遅く。
鮮やかに、燃えるような色彩が、部屋の中の何もかもを染め変える。
啓太の顔も、そして、己の顔も、夕暮れ色に照り映える。

幸福は、きっとこんな色をしている。

黄昏色に夜の闇が忍び込み、全てが闇に沈むまで。



だから、世界の全ては、幸福なのだ。



END



幸福な子供になりたいと切望する二人は、多分、既に幸福。
だって、こんなに世界は美しいから。
そう信じる事ができるのなら、きっと幸福。








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