カードの裏側 +++ 結


キスの甘さ

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


「あのままいくと、郁が伊藤くんに捨てられるのも間近であるという気はしていましたから」

そんな事をさらっと言って。
七条はゆったりと微笑んで、啓太の前にそっと紅茶のカップを置いた。



結局、七条には西園寺と啓太の間の事など、バレバレであったらしかった。一体いつから、といって、どうやら当初からだったらしい。会計部の仕事を手伝っている最中、決して気づかれないようにの啓太必死の演技も工作も、まるっきりの無駄だった上、七条にはまる判りだったという事実に、啓太は心中、目の前のテーブルに懐いて爪を立てた。恥ずかしくって、涙出そう…。
だけど、七条は全く気にならなかったのだろうか。自分の親友が、後輩で男で、その上釣り合っているだなんてお世辞にも言えない啓太なんかとそんな関係になっちゃったという事は。
全身茹で蛸状態の啓太が見上げると、あくまでも常と変わらぬ七条の笑顔。七条は全く変わらなかった。ずっと知っていたのだったら、彼は最初から変わらなかったのだという事に、啓太は初めて気がついた。
啓太自身さえ、受容し難かったそんな二人の関係を最初から、ずっと、受け入れてくれていたのだという事に。
「郁を捨てたら、伊藤くんは会計室に来なくなってしまうかもしれませんし。だったら、それより前に、僕に会いに来てくれるようにしておいたらいいかなと思ったんです」
会計室に啓太が来なくなるのは困るし、西園寺が啓太を引く理由にならないんだったら、代わりに自分がその理由になろうか、という七条の言は、一見論理的だった。多分、七条にとっては自明の理というものなのだろう。しかし、啓太にとっては理解できるようなできないような不可思議さだった。大体、啓太が会計室へやってきて紅茶やお菓子をご馳走になって、お喋りをして、世話になっているのは一方的に啓太の方で、その啓太を引き留めるために七条が自身を人身御供にするというのは、全然全くこれっぽっちも論理的じゃない。
だけど。
ちろりと啓太は上目遣いに七条を見遣る。そこにあるのは、いつもと変わらぬ七条の微笑。
だけど、七条さんだからなぁ。
そんな風に思って。
啓太は七条に微笑み返し、紅茶のカップを手に取った。
それに、もし邪魔だったら『会計室に来なくなるのは困る』なんて思わないよね…。
取り敢えず、七条の懐に全く入れてもらえていないという訳でもないみたいなので。
まぁ、いいか、なんて思う訳なのだ。
いつか、お客さん扱いを撤回できればいいな、と思うが、それは今後の努力次第という気がするし、幸いにも啓太は努力する事が苦手ではない。気合いと根性で乗り切れる分野に於いては。
放課後の日差しも暖かな午後。会計室は相変わらずの優雅さで、啓太の普段の生活圏とは全く時間の流れ方が違う場所。だけど、不思議に居心地が良くて、啓太は本当にこの場所が好きだった。そして、この空間を作ってくれる七条の事も、本当に本当に好きだった。
つい、えへへ、と笑いを洩らしかけて。
「…捨てる捨てる、というな」
剣呑な空気を発する、本来のこの部屋の主の存在を思い出す。
と言って、本当に忘れていた訳ではない。ただ、何だか黒い空気をまとわりつかせる彼に対して、啓太の本能が、見てはならない、との危険信号を発していて、そして、啓太はそんな本能に忠実であった、というだけで。
会計室は、一気に寒風吹きすさぶ氷の大地へと変貌した。
「おや。現実問題、捨てられるところだったじゃありませんか。つまらない見栄を張って、伊藤くんに振られたっていうのに何でもない振りなんかして」
バカですよねぇ、なんて言いながら、七条は啓太に最高の笑顔をくれる。お願いです。そんな風に同意を求めないでください。
あれから…つまりは啓太が西園寺に関係の終わりを告げて、会計室にぱったり来なくなってから…会計室がどんなに殺伐とした空気だったか、その豊富な語彙で臨場感たっぷり懇切丁寧に説明する七条に対して、西園寺は終始苦虫を噛み潰したような顔をしていて、当事者の片割れとしてその責任の一端を担っていたりする啓太としては、身の置き所もない気分を味わってしまった訳で。
「…あの。……どうもすみませんでした…」
色々とご迷惑をおかけして…。
そんな気持ちで一杯の啓太には。
「伊藤くんはちっとも悪くありませんよ」
慈愛に満ちた七条の微笑みは、あまりにも眩しかった。
ああ、何だか焼け焦げそう…。
あの状況だったらお前だってそうしたはずだ、だの。僕だったらそもそもそんなドジ踏みません、だの。
ひたひたと続く会話が、全部にっこり笑顔のままなのが、怖すぎる。
うう。重いよ、空気…。
「もう少しで伊藤くんを学生会に奪われるところだったと思うと、郁なんか、幾ら責めたって責め足りません」
『なんか』って、ちょっとちょっと七条さん。
「…もっとはっきりと言ったらどうだ」
鼻で笑いながらの見下し視線で、西園寺は足を組み替えた。そんな風にしてると、本当に女王様ってカンジなんだけど、言ったら多分、怒るだろう。いや、確実に怒るだろう。
「中嶋に奪われるのは、お前のプライドが許さない、とな」
口にされたその名に、七条の眉が、ぴくりと上がった。
その言が、仕事の手としての啓太が学生会に行く、という意味合いを示している訳ではないという事は、常に周囲に鈍い鈍いと言われる啓太にも読み取れた。何故なら、前にそのものズバリの表現で、中嶋との関係を揶揄された事があったからだ。
何でまたみんな、中嶋さんをそんな風に思うんだろう。
啓太にとっては、謎でしかない。
「あの…」
怖ず怖ずと口を挟む。会話に割り込むのも気が引けるような空気だったのだが、これは自分が言わなければならないのではないかと思って。
「中嶋さんは、そんな事しません、よ?」
断言ではなかったのは、前に同じ事を言った時の周囲の反応が微妙なものだったからだ。
前回、学生会室で。中嶋が啓太をどうこうするとか、丹羽が中嶋を前にして堂々と言うものだから。そんな事ある訳ない、とそう言ったら。
丹羽は、可哀相なものを見るような目をして、啓太を見た。和希は、心底心配そうな顔をした。
そして今。
啓太を見て、西園寺を見て。深く溜息をついた七条は、西園寺に向き直った。
「…郁、僕が悪かったです」
「判ればいい」
二人は、何となく仲直りしていた。
「ここまで無自覚だと、もうどうしようもありませんね…」
「そうだろう」
しかも、何となく意気投合までしている。
今度はちょっとむくれるのは、啓太の番だった。明らかに自分のことを話しているのに、二人だけで分かり合っているなんて狡い。

啓太は、学生会の二人が好きだ。丹羽は大らかで楽しくて、時に子供のように開けっぴろげなところも可愛くて。中嶋は、厳しいけれど優しい人。だから、二人とも大好きだ。
和希の事だってそうだ。啓太にとって、一番大切な大切な人。
西園寺が七条と仲が良いのと、少しも変わらないと思う。
それの、どこがいけないと言うのだ。

「私は、臣と同じベッドで寝たりはしないぞ」
「え」
「…なんだ、その『え』というのは」
だって。
週末、課題なんか、一緒にやってさ。終わった時には、もうぐったりでくたびれて、シャワーを浴びるのも面倒臭いってくらい眠くなっちゃったりしたら、もう、そこで寝たりとかしない?
で、部屋にベッドがひとつしかないんだから、とりあえず、一緒に寝るって事になんない?
え?俺だけ?
「…遠藤の部屋のベッドは、シングルだったか…」
「ええ。備え付けの物でしょうから」
西園寺と七条は、向かい合ってぼそぼそ喋りあっていて、対する啓太の気分は更に下降線を辿る。

二人が仲良しなのは、知ってるけどさ。俺なんかじゃ入り込めないような絆があるって事も判ってるけどさ。
和希の事だったら、俺に訊いてくれたらいいじゃないか。二人だけで話してないで。

はい。和希のベッドは、シングルです。俺は寝相が悪いので、夜、落っこちないように、壁側で寝ます。とりあえず、和希をベッドから突き落とす羽目になった事はありません。俺が気づくより先に、和希がベッドに戻ってるって事でなければ。
…いや、まてよ。
……何だか、心配になってきた。
おまけに、西園寺さんの目が、きりきりとつり上がってきた。
それでも綺麗だなんて、詐欺だと思う。

「じゃ、じゃあ、どうしようもなく眠い時って、どうしたら」
「部屋に戻れ」

命令形でした。

だけど、俺って寝汚いんだ。自分で言うのもなんだけど。
廊下で行き倒れて、寝くたれてる姿が、自分でも目に浮かんじゃうくらいなんだ。

「僕の部屋の扉を叩いてくれても、いいんですよ?」

いや、あの。
和希の部屋からだったら、七条さんの部屋に行くより、自分の部屋に帰った方が早いし。

「そもそも、話の起点から間違っている」

呆れ果てたといった様子の西園寺さんの声。

「お前は、遠藤の部屋に行くな」
「だけど、課題…」
「私の部屋に来ればいい。勉強くらい、教えてやる」

ちょっと、どきりとした。
だって、今まで西園寺さんの部屋に行くのなんて、アノ時しかなかったから。

「だけど、眠くなっちゃったら…」
「泊まっていけばいいだろう?」

今まで一度も、朝を迎えた事のない部屋で。

なんて事のない風な顔をして与えられた、その誘いかけに、耳まで真っ赤になっているだろう事が、自分でも判った。
真面目に勉強の話をしているんだし、西園寺さんもそんな意味で言ったんじゃない。勿論、そういう意味じゃないんだ。それは、判っているんだ。なのに。

目の前で、西園寺が微笑う。啓太の考えている事なんか、全部、お見通しだと言わんばかりに。まるで優雅な猫みたい。そんな風に思える、滑らかで意地悪で、綺麗な笑み。
夜の顔でも昼の顔でもない、啓太にだけ向けられる、彼の顔。これまで見た事のない顔は毎日増えて、そんな全てが啓太を捕らえて放さない。


暖かな光の中、ふんわりと、だけど艶やかに微笑む唇が、悪戯めいて掠め取った




    そのキスの甘さ。



END



『あの人』の正体は、ご想像通りだったでしょうか?
何となく続きが書けそうなネタは振りつつ、このお話はこれでおしまいです。
今後とも平穏とは無縁かもですが、二人の未来に幸多かれ、と祈りつつ。
いや、むしろ、波風立てたいな、この二人。(笑
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。








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