カフェオレというかコーヒー牛乳というか


確定不要のその関係



PCファンの回る音に、キーボードを叩く音が重なる。締め切った室内の気温を一定に保つ空調に時折、紙をめくる音、ペンが紙を走る音が加わると、それはいつもの学生会室の音となる。中嶋にとって、平穏を意味する日常そのものであり、他に混ざり込む異物など存在しない快適でもある。時に外部から入り込む厄介事もまた、異物を除去するかの如く処理し、部屋に寄りつこうとしない学生会会長を狩り出し、連行する。平穏を彩るほんの一滴のエッセンスは、それでも中嶋の揺るがぬ世界に変革をもたらす事など決してなかった。そしてそれは、季節外れの転校生、王様と女王様のお気に入り、驚異のラッキーボーイ、学園MVP等々、諸々の看板を掲げつつ、当人は至って平々凡々と自認する少年を、学生会の手伝いとして採用した時も同様であったのだ。



「中嶋さん。コーヒーに牛乳入れますかー?」
緊張感の欠片もない、相も変わらぬ暢気な声だった。
常の如く丹羽はおらず、中嶋は学生会の日常業務をこなすべくPCに向かい、啓太は中嶋のアシスタントとして書類を整理する。まさにここ最近の学生会室の情景である。
「いらん」
啓太の問いかけに、常の如く愛想の欠片もなく応えた後、常らしからず中嶋は顔を上げた。
牛乳なんて、ここにあったか?
しかし、啓太は中嶋の様子を気にした風もない。
「そーですか。じゃあ、俺の分だけ」
あっさり頷いた啓太が取り出したのは、紛う事なき紙パック牛乳だ。
それを思うさま、カップに注ぎ入れる。明らかに、コーヒーより牛乳の方が多い。アレでは、コーヒーの味はしない。その上、湯温も冷める。更に啓太は、そこに砂糖を追加する。匙に一杯、二杯、三杯…。その時点で、中嶋は目を背けた。これ以上見続ける事は、精神衛生上よろしくないと判っていたので。
少し経ってから再び視線を戻すと、既に啓太はコーヒーもどきを匙でひたすら攪拌していた。
濃度を均一化するためのみではない。
なかなか砂糖が溶けないのだ。
自身が飲んでいる訳でもないのに、妙に口中が甘ったるくなってきた。
甘いものが苦手な中嶋にとって、コーヒーと牛乳の複合液(生温い)に対する砂糖の溶解度が如何ほどのものかなど、全く興味の範疇外だった。何も見なかった事にして仕事に戻ろうとした丁度その時、ふと啓太が顔を上げた。
目が合った。途端に啓太が、にったりと笑う。
一体何故か中嶋には不明の事ながら、奇妙に嬉々とした様で、啓太は中嶋のカップを手元に引き寄せた。
「中嶋さんも、やっぱり牛乳と砂糖入れますか?」
「いらん」
「でも、ずっと見てたし。実は中嶋さんも苦かったんでしょう?だけど、牛乳入れれば、丁度いいんですよ。俺、発見したんです」
中嶋の言が耳に入った様子もなく、啓太は嬉しそうに購買部で販売中の牛乳一リットルパックのお買い得度、コストパフォーマンスの良さについて語り続ける。曰く、胃に優しい。口当たりがまろやかになる。砂糖と相性がいい。カルシウムたっぷりで、身長が伸びる。
多分、本当に言いたかったのは、最後の一語だけだろう。
「どうしても煮詰まっちゃって、苦くなるんですよね、作り置きのコーヒーって」
仕事の合間に利用するべく、保温器にかけられっぱなしのコーヒーは、時間の経過と共にどんどん濃く、苦くなっていく。酸味よりも苦みの勝ったコーヒーはより熟成され、純化する。混ざりっけなしの本物のブラックは、かえって中嶋の好みに叶う代物だったのだが、啓太にとっては相当辛いものであったらしい。中嶋もきっと同様の筈だとの認識に則って話を進める啓太は、中嶋の無言をまた、別の意味に解釈した。重要な事を言い忘れていたことに思い当たったとばかりに息を呑み、牛乳パックを掲げ、しかし、それでも胸を張る。
「大丈夫です。これは俺の私物ですから。学生会の予算、遣い込んだりしてないです!」
見当違いも甚だしい。しかし、言いたい事はそれだけらしい。
中嶋は、これ見よがしに深々と息を吐いた。
「俺は、これ以上背を伸ばす必要を感じないから、そのままでいい」
「うわっ。嫌みだ」
ちょっと背が高いと思ってーっ、と喚き立てた啓太はそれでも、牛乳も砂糖もなしのコーヒーを中嶋の前に置いた。けれど、そのまま作業台に戻ろうとせず、物言いたげに中嶋を見つめる。
「…なんだ」
言いたい事があるなら、はっきり言え。言わないのなら、グダグダ引き摺るな。
啓太が学生会の仕事を手伝う事になった時、まず始めに中嶋は宣言した。それが円滑に仕事を進めるための学生会に於けるルールである、できないのなら始めから来るな、と。
その言葉をあっさりと受け入れた啓太は、以来、中嶋の氷の視線に動ずる事もない。今日、この時もそうだった。
「ここのコーヒー、絶対、濃過ぎですもん。特に中嶋さん、量飲んでるし。体に悪いですよ。せめて、牛乳だけでも入れましょうよ」
「いらん」
三度、同じ言葉を繰り返した。
中嶋は前言を翻さない。それを知る啓太は唇を尖らせる。そして、既に啓太を見ようともせず、PC画面の統計表へと意識を移した中嶋に対して、憤然と言い放った。まさに『言いたい事をはっきり』と。
「俺、諦めませんからねっ。そのうち、中嶋さんのコーヒーに牛乳入れてやるんだから」


特技は強運、得意なのは『諦めない』事。
初めて会った日だったろうか、啓太が中嶋にそう称した。怖じけず、しっかりと正面から人を見る彼を、面白い、と思った。
学生会会長の奔放勝手と歯に衣着せぬ中嶋の舌弁は、学生会に人を居着かせない。だから、もし彼が学生会に残る事ができたなら。
できたなら、どうだと思ったのだろうか。覚えていない。そもそも、何も考えてはいなかったのかもしれない。仮定に期待を抱くなど、全くの無意味だ。中嶋はずっとそう思っていたし、現在でもそう思っている。


「これからは一リットルパックを持参か。ご苦労だな」
無駄を揶揄する中嶋に対して、
「ずっと学生会室の冷蔵庫に入れときますよ。常備品です」
長丁場は覚悟済みだと暗に示して、すまし返った啓太は言い切る。
「牛乳は日持ちしないぞ」
「俺も飲むから大丈夫です。そのうち、中嶋さんを追い越すくらい大きくなる予定ですから」
そして、晴れやかに笑った。


啓太は自身の指定席となりつつある作業台で、コーヒーの牛乳割りに砂糖を入れたものを啜る。
対する中嶋は、子供のように舌を出す啓太に呆れながら、煮詰まったコーヒーを飲む。
PCの音、書類を繰る音。啓太の用意したコーヒーの薫り。そして、開けた窓から緩く吹き込む、夏の気配を漂わせた風。伊藤啓太によって持ち込まれ、中嶋の揺るがぬ世界に浸食した異物は、それでも中嶋の本質を変えることはなく、ただ時に仄かに甘く柔らかな彩りを添える。
そんな現状に大きな不満はなく、どちらかといえば満足している度合いの方が高く。
物事に完全を求めるのが間違いである以上、今現在は充分に心地好いと言える。
もしかしたら、そのうち、コーヒーに牛乳を入れる気になる日もくるのかも知れない。啓太を学生会の手伝いとして採用した時に、今現在の状況など想像もできなかったのと同じように。
仮定は無意味だ。


「…もし、俺がコーヒーに牛乳を入れる気になったとして…」
しばらく仕事に没頭する沈黙が続いた後、中嶋がぽつりと呟いた。


その牛乳で俺の背が伸びたら、お前は追いつけないんじゃないのか?


風に乗って、運動部の活動を示す遠い喧噪が届く。不思議に穏やかな空気に満ちた部屋に、夏の光が揺れていた。



END



カフェオレ=エスプレッソの牛乳割り
コーヒー牛乳=コーヒー風味の牛乳

啓太のは確実に後者だと思う。








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