何がどうなってこうなったのか


謎はいつでもそこら中に転がっている



陽光は、窓の外に広がる海に反射して、水面を輝かせていた。
学生会室の窓辺から遠く臨むだけのそれは、それでも、室内に射すような光をもたらす。
うららかな日差し溢れる午後だった。
中嶋が、窓に掛かったカーテンを引くと、日差しは、少々弱い彼の目にも、物理的な刺激を与えない程度の柔らかなものへと変化する。
窓を閉めてはいないので、風に煽られて揺れるカーテンは、時折、相変わらずの強い光を部屋の中にもたらしたが、PC端末での作業がある訳でなし、水底へと差し込み揺らめく陽光めいた情景を楽しむのも、また、悪くない。
室内には、コーヒーの匂いが深く沈むように立ちこめている。
丹羽を探しに使いにやった啓太が、出かける前にセットしていったコーヒーメーカーには、中嶋の好む濃さのコーヒーが作られ、保温されている。
先代か先々代か、学生会室の住人に、コーヒー好きの者がいたのだろう。部屋のどこからか、埃を被っていたコーヒーメーカーを見つけ出し、磨き上げて、再び使えるようにしたのは、あの少年だった。中嶋と丹羽にと、いつの間にやら専用のマグカップを用意して、書類棚の隅に食器置き場まで作ってしまった。そこに、彼が学生会と同じく通っている会計部の影響が仄見えないではなかったが。
中嶋は、小さく軽く、息を吐く。
それらの諸々に、目を瞑って甘受しても構わないと思える程度には、中嶋は現在の状況を気に入っている。
インスタントの粉をたっぷりと使った、味は二の次であった以前のそれと、彼の用意したコーヒーとでは、比べるべくもなく、雲泥の差であったので。
今日のコーヒーは、特に旨かった。溜まった仕事を全て片付けた達成感と共に、身内に薄く広く残った疲労のせいかもしれず、または、中嶋が仕上げた大量の書類と比例するだけの残務処理を受け渡された会計部の、特に、常に無表情の微笑みを浮かべた会計部補佐の今が、容易く想像できるせいかもしれなかった。
今、煙草を吸ったら、さぞかし美味だろう。薫る草は、疲れた時ほど、その口当たりも甘く柔らかい。仕事机に忍ばせたそれを目当てに抽斗を開ける。すると、その瞬間、啓太の声が聞こえた、ような気がした。
『中嶋さん、煙草よりもチョコの方が、疲れ取れますよ』
勿論、啓太は今、部屋にはいない。だから、これは幻聴だ。彼が、中嶋のコーヒーに添えて出す、苦みの強い、しかし、中嶋の舌には充分に甘く感じられるチョコレート。
マグカップの置かれた書類棚の隅に、啓太の用意した小さな箱がある。
「……………」
思わず、目を閉じる。そして、そのまま、天を仰いだ。
全く、なんて事だろう。
一呼吸、そしてまた、一呼吸。
鋭く舌を打ち、一度は開いた抽斗を、些か乱暴に閉め直すと、中嶋は食器置き場の箱を開けて、銀紙に包まれたチョコレートを一粒だけ選び取る。
我が事ながら、呆れ返る。一体、いつの間に、彼がこんなにも近くにいる事を許容するようになったのか。
初めて出会った時から、丹羽を前にして、全く物怖じしなかったというあの少年は、中嶋をも全く恐れなかった。それが、希有なことであるのだと、当の本人だけが気づいていない。
どうやら、中嶋と丹羽とは、ひどく周囲に圧迫感を与える存在であるらしく、二人が学生会の役員に就任して以後、萎縮したメンバーは、一人辞め、また二人辞め、結局、誰もいなくなった。それを、中嶋が厳しすぎるからだ、とどうやら本気で考えているらしい彼の片割れも、自覚のなさ加減にかけては、似たり寄ったりと言えるのかもしれないが。
周囲の者の善意と厚意とを信じる、光に満ちた世界に生きている。常に何かを楽しみ、周囲のために怒り、泣く。本人曰くの、取り柄は運の良さだけ、という子供。
あれほど、自分を客観的に理解しない者も珍しい。
バカがつく程に正直で、周囲の好意に無頓着。天文学的な鈍さ加減は、天然と言うもおこがましい。
その判っていないっぷりは、端から見ている分には、何より面白い見せ物ではあるが。
…まぁ、バカだったから、よかったのかもしれんな。
バカがバカ故に、周囲の空気を読み取れない、というのも、時に役立つこともあるのだろう。
チョコレートは、コーヒーに似た苦みの中に、口内に溶ける甘さをどこまでも残す。それは、中嶋に甘いものを摂取させようとする啓太と、現在の学生会々長である大バカに対して感じるものと、どこか似通っていたかもしれない。
そもそも、中嶋はバカが嫌いだった。そして、丹羽哲也、現在のみならず、日常的にすべき仕事を放棄して逃げ回る、動物的感覚のみで生きているあの男は、紛う事なきバカである。そもそも、出会った当初など、人付き合いを発生させるつもりも、毛頭ありはしなかった。
中嶋が今まで、何よりも苦手としており、最も忌避してきた、そんなタイプの人間。それが、いつの間にやら、中嶋の相棒である。全く、人生とは判らないものだ。多分にそれは、彼がただのバカではなかったから、と、その一言に尽きるのであろうが。
頭のいいバカ。冷静な熱血漢。計画された感性の人。矛盾を孕んだ単語の連なりは、それでも丹羽哲也という男を正確に示す言葉だ。
保温器にかけられたポットからコーヒーを注ぎ、これをじっくりと味わって飲む。仕事中には決してしないくらい、時間をかけてみたが、やはり、啓太は帰ってこない。
始めから、期待してはいなかったが。
丹羽は、中嶋から逃げるように、啓太からは逃げない。どころか、一人でふらふらと歩いている啓太を見つけたら、嬉々として自分から寄っていくだろう。
一目で気に入り、今では何よりも可愛がっている後輩だ。丹羽を釣るための餌としては、申し分ない。
しかし、丹羽は、バカではあったが、決して愚かではなかった。
対して、あのお人好しは、相手に気を遣って、自分を呑み込む傾向にある。ことに、相手が丹羽ときた日には、何だかんだと奴のペースに引き込まれ、ミイラ取りがミイラになった、そんな結末が関の山だろう。
丹羽の遊びに、あちらこちらと連れ回される。種々の推測の上に成り立つ情景は、あまりにも鮮明である。
だけれど、そんな事など、既に織り込み済みでの計略だ。
啓太を共に連れているのならば、丹羽はどこかで足を止めている。それだけでも、アレを捕捉しやすくなる。また、どこやらでスポーツ勝負でもしているのなら、あの周囲の目を惹き付ける男は、あっという間に見物客を集めて、それは窓からも漏れ聞こえる歓声となって伝わってきただろうが、それはない。
あまりにも静かで穏やかな、午後。
ならば、また海に行ったのか、それとも昼寝か。
昨今の気に入りらしい空き地にいる、という可能性もある。
どうやら、丹羽当人は中嶋に気づかれていないと信じているらしい、植え込みの影の小さなスペース。
素知らぬふりで泳がせて、それとなく奴を追い込む場所として利用してきたが、そろそろ、中嶋が気づかない事に不審を抱く頃合いかもしれない。
中嶋の口角がつり上がる。それは、微笑みであるともいえる。如何にも楽しげな、遊びで獲物を追う肉食獣の愉悦めいたそれを、そう表現していいものであれば。
本当に、奴らは己を退屈させない。それが、嬉しくてならない。
中嶋は、カップに残っていた冷めかけたコーヒーを、一息に呷り、そして、立ち上がった。


何がどうなってこうなったのか。
当初、立てた自身の予定とは全く違う現状に呆れながらも。
愛すべきバカ達と交わる自分。緩やかに変えられる自分。
しかし、それが興味深くもある。


午後の日差しはうららかで、如何にも穏やかで、平和である。
丹羽にとっても、啓太にとっても、中嶋にとっても、静かに過ぎる、放課後のひととき。


そんなこんなも、全て、愛おしい日常、とでもいえるものだったかもしれない。



END



見つかった後の二人がどうなったのか、誰も知らない。
そんなカンジでお願いします。<えー…








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